腐女子の生きがい
梅雨前なのか、不安定な雨が続いている6月初期。
都心にある中堅IT企業で働く会社員の女性がいた。
大きな瞳と、幼さの残る顔立ち。
傍から見ると彼女は、『可愛い』と評される顔面であろう。
まぁ、、、外見上では。
昼休み明けのオフィスは、コーヒーとコピー機の熱が混ざった独特の匂いがしている。
彼女は資料を抱え、部署と部署をつなぐガラス張りの渡り廊下を歩いていた。
窓の外には、整然と並んだビル群と、雨で薄く霞んだ空。
その視界の端に、動く影が入った。
同じ部署の男性社員がふたり、肩を組んで歩いている。
ひとりは長身で、もうひとりは少し背が低い。何か面白い話でもしているのか、顔を寄せ合って笑っていた。
ただそれだけの光景だ。
ただ、それだけ――の、はずだった。
(ギャァアァアァアァアァアァアアアア!!!!)
心の中で大発狂した彼女は、何事もないかのように前を向いたまま通り過ぎる。歩幅も速度も変えない。完璧な社会人の仮面。
しかしその内側では、世界が爆発していた。
(ちょ、待って距離!!距離近い!!!肩!!!肩組んでる!!!なにその自然さ!?付き合って三年目の空気感では!?!?)
心臓が暴れ馬みたいに跳ねる。視線を向けたい衝動を、社会人としての理性でねじ伏せる。
(見るな私!!振り返るな!!でも尊い!!無理!!!)
渡り廊下を抜け、エスカレーターへ。誰も乗っていないのを確認してから、彼女は素早く乗り込み、【閉】ボタンを押した。
扉が閉まりきった瞬間。
「ギャァアァアァアァアァアァアァアァアァ!!」
誰もいない密室に、叫び声が反響した。
彼女は深く息を吸い込み、拳を握りしめる。
「尊ッッッッッッ!!」
顔が一気に熱くなる。ぐしゃぐしゃと自分の髪をかき回し、無音で足踏みする。
(無理無理無理無理!!朝から供給過多!!ありがとうございます世界!!)
彼女こそがこの物語の主人公、桐谷時雨、いわゆる腐女子なのである。
きっかけは中学時代、表紙の絵が綺麗という理由だけで手に取った一冊の漫画。
ページをめくるごとに、これまで知らなかった関係性の世界が広がっていた。そこから先は転げ落ちるようなものだった。
二次元を愛し、三次元にもときめく。男同士の何気ない距離感に、宇宙規模の尊さを見出す生き物。
それが現在の時雨なのである。
エスカレーターが一階に到着する頃には、なんとか呼吸も整っていた。何事もなかった顔でオフィスに戻り、席に着く。
バッグの中には、今朝購入したばかりのBL漫画の最新刊が入っている。仕事終わりのご褒美だと思うだけで、自然と口元が緩みそうになってくる。
そのとき、影が差した。
「桐谷」
低く落ち着いた声がした。顔を上げると、二階堂凪が立っていた。
中性的な整った顔立ちに、感情をあまり表に出さない静かな目。仕事ができることで有名で、社内の評価も高い時雨の同期だ。
「なに?」
「この書類、コピーよろしく」
差し出されたファイルを受け取り、内容を軽くチェックする。凪は必要な説明だけを簡潔に告げる。
すると、その背後で突然「うわっ」と声がした。
振り向く間もなく、すこぶる大きな音がした。
課長が躓き、時雨のバッグの中身がぶちまけられてしまったのだ。
「す、すまん桐谷!!」
課長が慌ててしゃがみ込み、散らばった物を拾おうとする。
その瞬間時雨は見た。
床に落ちた一冊の漫画。鮮やかな色彩の表紙。今朝買ったばかりのBL漫画。
時間が止まった。
(……終わった)
時雨は反射的にその場にしゃがみ込む。漫画の上に体をかぶせるように。
周囲の空気がざわつく。「え?」という視線が刺さってきた。
(無理無理無理無理どうするどうするどうする!!)
頭が真っ白になる。
そのとき、不意に視線が合った凪が、静かにこちらを見ていた。
そして彼は、時雨と同じ目線までしゃがんだ。
「体調、悪い?」
一瞬、意味がわからなかった。
だがその目は、すべて察している色をしている。
時雨はハッと目を見開いたあと、勢いよく二回頷いた。
凪は立ち上がり、課長へ向き直る。
「桐谷、医務室連れていきます」
「あ、ああ、頼む」
腕を軽く掴まれ、引き上げられる。その隙に時雨は漫画を脇へ滑り込ませた。
凪に連れられてオフィスを出る。
廊下を歩きながら、時雨は小声で呟いた。
「ご、ごめんね凪、……ありがとう」
すると、ため息混じりの声が聞こえた。
「時雨さ、マジでこれ何回目?」
「ごめんごめん。今回もありがとね、凪。助かったよ……!!」
苦笑する時雨に、凪は呆れたように眉を下げた。
「腐女子隠したいなら、もっと徹底しな」
その言葉に、時雨は肩をすくめた。
ここだけの話、時雨と凪は物心つく前からの付き合いなのであった。家も近く、気づけばずっと隣にいる。いわゆる幼馴染と言うやつであった。
だからこそ、取り繕う必要もない。
医務室の前で足を止めると、凪は小さく息を吐いた。
「少し休んだら戻れよ」
「うん」
背中を見送りながら、時雨はそっとBL漫画を抱きしめる。
(……今日のはほんとに危なかった)
部署に戻れば、また何かが起こるかもしれない。それでも、何気ない視線の交差、無意識の距離、偶然の接触。
そのすべての薔薇を、彼女は見逃さない。
(絶対に、社内で綺麗な薔薇を見届けてやるんだから!!!)
「うぉおおぉおぉおぉおぉ!!!ファイッッ!!!」
様子のおかしい時雨の声が聞こえてきて、凪はプッと吹き出した。
「……はー、ほんとにばか」
凪は小さく吹き出し、視線を逸らした。
その頬が微かに赤く染まっていたことにも、時雨は何一つ気づかない。
そんな時雨は今日もまた、薔薇のつぼみを探していた。




