追悼のきらめき 〜嘘つきな私の本当の話〜
pixiv、個人サイト(ブログ)にも同様の文章を投稿しております。
(ご都合主義のゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
その日の朝、王都の教会では、アルノー伯爵家の令息とベルトラン子爵家の令嬢の結婚式が執り行われるはずだった。しかし、その式はベルトラン子爵令嬢、ロラ・ベルトランの自死により中止となった。
ロラ・ベルトランと結婚するはずだったポール・アルノーは、純白のドレスを真っ赤に染めて、穏やかな表情で控室のソファに座るロラに縋りつくようにして半狂乱になって泣き叫んでいた。
「ロラ……! ロラ! どうして……っ」
しかし、すでに旅立ってしまっているロラは、ポールの悲痛な嘆きに、なんの反応も示さなかった。
その日、花嫁の世話を任されていた侍女の報告では、ロラは、「お願い。お式の前にオレンジを少しだけ食べたいの」と言ったそうだ。
「せっかくのお化粧が崩れてしまうから、できれば小さく切ってほしいわ」
そう言われた侍女は、お嬢様のいつもの我儘だと思い、オレンジとナイフを持ってきた。ナイフで小さく切られたオレンジを食べて、ロラはうれしそうに微笑んだそうだ。それはどう見ても、幸せいっぱいの花嫁の姿にしか見えなかった。
「ハンカチかナフキンをちょうだい」
ロラに言われ、侍女は少しの間、ロラから目を離した。その、少しの間に悲劇は起こった。ロラは、素早くナイフを手に取ると、自分の首をためらいなくかき切ったのだ。
侍女の悲鳴を聞いて、人々が駆けつけたときには、ロラはすでに事切れていた。
*
ロラの葬儀は悲しみに包まれた。結婚式を挙げるはずだった教会で、ロラは皆に見送られることとなった。
ロラの父親であるベルトラン子爵の必死に涙をこらえている様子や、ロラの婚約者であったポールのどうしても漏れてしまう嗚咽は、参列者たちの涙を誘った。
アルノー伯爵家の次男であるポールは、容姿端麗で優秀であるとたいそう評判であった。そんなポールを婿に迎えることができるなんて、子爵家としてはこの上なく光栄なことであっただろう。
アルノー伯爵家とベルトラン子爵家の婚約には、政略的な意味合いはなかった。国のためでも家のためでもない、ただ、ポールから強く望まれて、ロラとポールの婚約は決まったのだ。あえて損得を挙げるならば、伯爵家の次男であるポールの身の振り方が、「子爵家に婿入りする」という形で確定したことが、伯爵家にとっての「得」であったくらいであろう。
一方のロラは、自分に自信がなくいつもおどおどしていた。美しく優秀なポールとの婚約に委縮していたのかもしれない。そのためか、ポールの気を引こうとよく我儘を言ったり、嘘をついたりしていたという。黙って家を出て遅くまで街で遊び歩き、わざと皆に心配をかけたこともあったらしい。そんな少々問題のあるロラではあったが、ポールはロラを愛していた。そして、ロラもポールのことをいつも目で追っていた。
ロラとポールを知る者たちは皆、突然の別れを悲しみつつも、ロラは幸せな結婚を目前になぜ自ら命を絶ったのだろう、と不思議がっていた。一体、ロラになにがあったのか。
そんなもやもやが、参列者たちの胸に渦巻いていた。
*
ポール・アルノーがロラ・ベルトランと初めて会ったのは、ポールの父が、友人であるベルトラン子爵をアルノー伯爵領の屋敷に招待した際のことだった。
ロラは、キラキラと光を反射する、くせのない美しい白い髪の毛に薄紫色のやさしい瞳をした少女だった。ポールは、ロラのことを妖精のようだと思ったが、当時は幼かったため素直にほめることができなかった。きっと一目惚れだったのだ。
その美しい髪に触れたくて、心にもない、少し意地悪なことを言ったと思う。
しかしすぐに反省したポールが、いっしょに遊ぼう、と、にこりと笑って誘ってみると、ロラは、そんなポールの笑顔に見惚れているようだった。
ポールは八歳にして、自分の容姿が優れていることを理解していた。この容姿に群がってくるうるさい女の子たちは苦手だったが、ロラはそんな女の子たちとは違い、控えめに自分を見つめてくるだけだ。ロラはきっと恥ずかしがり屋なのだろう。ロラからポールに積極的に好意を伝えてくるようなことはなさそうだ。そう思ったポールは、自分の容姿を最大限に利用してでも、ロラを手に入れようと決めた。
ロラの気を引きたくて、ポールはロラと会うたびに積極的にちょっかいをかけた。おとなしいロラは、いつも恥ずかしそうに顔を赤らめて、「やめてください」と本気の拒否ではないとわかるような小さな声で言うだけだった。
ある日、ベルトラン子爵家に遊びに行ったポールは、ロラの白い髪の毛を飾る、薄紫の石の輝きに目を奪われた。ロラの瞳と同じ色の石をあしらったその髪飾りはシンプルなものだったがとても美しく、そしてロラによく似合っていた。
ポールは、ロラの分身のようなその髪飾りが欲しくなった。その髪飾りがあれば、ロラをいつでも近くに感じることができるような気がした。だからロラにお願いしたのだ。
「この髪飾りを僕にくれない? ダメなら、その代わりにほっぺにキスしてよ」
冗談めかしてそう言うと、ロラは顔を真っ赤にして黙ってしまった。そして照れながらも、髪飾りをポールにくれたのだ。
ふたりが十歳になるころ、ポールは父にロラと婚約したいと頼んだ。父は、ベルトラン子爵家以外にも、アルノー伯爵家の利になる婿入り先を検討していたらしく、少しごたついたが、必死に願うポールにとうとう折れて、ポールが十二歳になった年には正式にベルトラン子爵家へと婚約の打診をしてくれた。
ベルトラン子爵はすぐに快諾の返事をくれ、「きみはロラの初恋なんだ。ロラもよろこぶよ」と言ってくれた。ポールは、ロラも自分を想ってくれていると改めて知り、うれしく思った。
十三歳になる年、ふたりは王都の学園に入学した。六年制の学園に通うため、貴族の子女たちは一旦、王都のタウンハウスへ居住地を移す。そうでないものは、学園の寮に入る。アルノー伯爵家とベルトラン子爵家は、領地の屋敷こそお互いに馬車で数時間の距離があったが、タウンハウスは徒歩で行き来できるほどの近距離であったため、ロラと過ごす時間が増えることをポールはよろこんだ。父たちも、タウンハウスが近かったことで親しくなったと聞いていたので、ロラと自分も、いまよりももっと親しくなれるのでは、と思ったのだ。
しかし、そのころからロラの精神はだんだん不安定になっていった。たびたび体調を崩すようになり、部屋にこもるようになったのだ。心配したポールが部屋まで見舞いに行くようになると、ロラは次第に元気を取り戻した。もしかしたら、ポールの気を引くために体調が悪いと嘘をついていたのかもしれない。そう思ったが、そんなロラを愛しく思い、そのことに関してポールはなにも言わなかった。
容姿が良く優秀なポールは、令嬢たちに人気があった。学園で出会った婚約者の決まっていない令嬢たちの中には、ロラからポールを奪ってやろうという態度を隠しもしない者もいた。そのたびに、ロラはポールに、
「お好きな方がいらっしゃいましたら、その方とご婚約を結ばれたほうがよろしいかと思います。私のほうはいつでも婚約を解消させていただきますので、どうぞおっしゃってください」
などと言うようになったのだ。その言葉とは裏腹の、不安そうな、懇願するようなロラの表情に、ポールは、ロラがやはりポールの気を引きたくてそのようなことを言っているらしいと気づいた。
「僕たちが結婚することは、もう決まっていることだよ。だから、不安になることなんてないんだ」
ポールは安心させるようにロラにそう言って聞かせていたのだが、ロラの表情は晴れなかった。
ポールがなにを言っても、いつも不安そうなロラ。しかし、不安なのはポールも同じだった。成長するにつれ美しくなっていくロラを、ポールは他の男に見せたくなかった。しかし、ロラをどこかに閉じ込めておくわけにもいかない。ポールは、ロラに地味な装いをしてくれるように頼んだ。というよりも、ロラがそうしたくなるように誘導したのだ。
ベルトラン子爵に頼んで、ロラがドレスの布地を選ぶ際には同席させてもらい、ポールはいつもロラと一緒に布地を選んだ。
「ロラには、こういう派手なものよりも、もっと落ち着いた色が似合うよ。僕はこっちのほうが好きだな」
ポールが言うたびに、不安そうにしながらもロラはいつも言うとおりにしてくれた。それでも華やかな色を勧めてくる商人や侍女に、ロラはこれがいいと言っているのだから、と気の弱いロラに代わってポールが断りを入れることもあった。
ポールが提案した色の中からロラが選ぶのは、いつも濃紺色だった。濃紺色は、ポールの瞳の色だ。ロラがいつも自分の瞳の色を選んでくれるのはうれしかった。地味な色味とはいえ、ロラには濃紺色のドレスがよく似合っており、ロラを一際美しく魅せているようだった。自分の瞳の色がロラを美しく飾ることは誇らしかったが、ロラの清楚な美しさが周囲に知れ渡ってしまうことに、ポールはもどかしさを覚えていた。
学園に在籍している他の令嬢たちとくらべて、ロラはかなりおとなしい性格をしていた。そのせいか学園にもなかなかなじめていないようだった。ロラがポールの気を引こうとするのは、そのあたりにも理由があったのかもしれない。
いつのことだったか、ロラが気の強そうな令嬢に絡まれているのところを助けたことがある。やさしいロラは、決して自分がいじめられているなどとは言わなかった。
「世間話をしていただけです」
などと嘘をついて、相手を庇っていた。ポールは、ロラが自分を頼ろうとしないことを歯がゆく思った。
「ひとりで我慢することはない。僕がいるじゃないか。僕に少しくらい頼ってくれてもいいだろう?」
そう言い聞かせても、ロラは首を横に振るだけだった。そんなロラなので、ポールはロラに黙って自ら動くことにした。ある日、ロラに絡んでいた令嬢が友人といるところへ声をかけ、もうロラに近づくことのないよう忠告したのだ。
「あまり彼女をいじめないでくれないか」
令嬢は、ロラと同格の子爵家の娘だった。伯爵家よりも格上の令嬢なら面倒だと思っていたが、子爵家の令嬢なら、忠告だけで引いてくれるだろう。そう思っていたのだが、
「私は、ベルトラン子爵令嬢をいじめてなんておりません」
令嬢は口ごたえをしてきた。
「私にいじめられていると、ベルトラン子爵令嬢がそうおっしゃったのですか?」
令嬢は、困惑したようにポールの目を見てそう言った。きっとロラには誰にも言うなと口止めでもしていたのだろう、自分の行いをポールが知っていることを不思議がっているようだった。
「そうだよ。ロラが僕にそう言ったんだ」
実際にはロラはなにも言ってはいないが、ポールは令嬢の逃げ道を塞ぐためにそう言った。
「そうですか。いままで申し訳ありませんでした、とベルトラン子爵令嬢にお伝えください」
すっと表情が抜け落ちたようになって、令嬢は頭を下げた。
「ああ、伝えておくよ。またロラに近づくようなことがあれば、次は家に抗議するからね」
「わかりました」
令嬢はそう言って、二度とロラに近づくことはなかった。ポールは経過を観察して安心し、彼女がロラに話しかけることはもうないだろうと、ロラに教えてやった。
「彼女は反省していた。きみに謝っていたよ」
「彼女になにかしたのですか……?」
「ロラに近づかないよう、忠告しただけだよ。ロラが心配するようなことはなにもない」
そう言っても、ロラは真っ青な顔で、なにかに怯えているようだった。
「報復を怖がっているのかい。大丈夫だよ、ちゃんと釘を刺しておいたからね」
ロラは、なにも言わなかった。
「大丈夫。きみは僕が守るよ」
ポールは、この一件からロラを守ったことを誇らしく思っていた。
ロラは相変わらず不安定だったが、ポールはロラを宥めながらもうまくやっていた。毎日、同じ馬車で学園に通い、休日のたびにベルトラン子爵家のタウンハウスへ遊びに行き、ロラとお茶を共にした。ドレスを新調する際には一緒に布地を選び、共に街に遊びに行っては、ロラに装飾品を贈ったりもした。ロラは遠慮して安価なものを選びがちだったので、いつもポールがより良いものを選んでやったものだった。
そんな折、ロラがタウンハウスから姿を消し、夜遅くまで帰ってこない日があった。
ベルトラン子爵家総出でロラを捜索し、ポールもそれに加わった。ロラは、歓楽街のような場所で見つかったらしい。身なりが貴族の令嬢にしか見えなかったため、王都の警邏を任されている騎士団に保護されていたという。
それを聞いて、ポールは血の気が引く思いだった。奇跡的に乱暴されたりもしなかったし、怪我などもなかったが、なぜそんなところにいたのかベルトラン子爵やポールが尋ねると、
「私、ポール様のことが嫌いなの。婚約だってしたくなかった。これ以上、彼のそばにいたくない。いくら言っても、お父様は聞いてくださらなかった。だからよ。だから、この家を出てひとりで生きて行こうと思ったの」
ロラは投げやりな口調でそう言った。
「心にもない嘘をつくんじゃない! いつまでポールくんに甘えているつもりだ! 自分がどんなに皆に心配をかけたかわかっているのか!」
ベルトラン子爵は、そう言ってロラの頬を平手で打った。父親に打たれたことがよほどショックだったのだろう、ロラの顔は感情が抜け落ちたかのようにのっぺりとしていた。
「ロラ、そんな悲しい嘘をつかないで。本当に心配したんだよ。貴族令嬢がひとりで街に遊びに出るなんて、不届き者にかどわかしてくれと言っているようなものだ。どこかに売られてしまうかもしれなかったんだよ。そんな危険なことは二度としないでほしい」
ショックを受けているロラを宥めるようにポールは言ったが、ロラは黙ったままだった。
「ロラを任せてもいいかい? 私は少し頭を冷やしてくる」
ベルトラン子爵はそう言って、部屋を出て行った。
「わかりました」
ロラの自室に移動し、ふたりになると、ポールは再度、ロラがしたことがどんなに危険だったか、ロラが売られてしまう可能性があったことを懇々と説明した。そして、「きみが無事でよかった」と伝えた。
しかし、ロラの表情が戻ることはなかった。
思えば、自分と婚約したころから、ロラはずっと不安定だった。どうすればロラに自分の気持ちが伝わるのか、どうすれば試し行為を繰り返すロラを安心させてやることができるのか。ポールは考えた末、自分のロラへの愛を証明するために、その日、ロラを抱いた。
婚前交渉をすることに少しの罪悪感はあったが、よろこびに涙を流すロラを見て、これでよかったのだと思った。
それ以来、ロラの心はずいぶんと安定したようで、笑顔も増えた。学園卒業後すぐを予定していた結婚の準備に忙しくしながらも、ふたりで穏やかに過ごしていたのに。
ロラを埋葬するため、ベルトラン子爵は葬儀のあと、すぐに領地へ戻ることになっていた。ポールも同行し、婚約者としてロラの埋葬を見届けた。
ロラとの最後の別れを終え、墓標の前で、ロラと過ごした日々を止めどなく思い出しては、ポールはまた泣きそうになる。しかしそれをこらえ、同じくロラの墓標の前に立つベルトラン子爵に声をかけた。
*
ベルトラン子爵は、たったいま、ロラを埋葬した墓標の前に立ち、亡き妻の言葉を思い出していた。
「ロラをお願いね」
病床で、妻はベルトラン子爵の手を握って、そう言った。
「私がいなくなっても、あの子をちゃんと大事にして、あの子の幸せをいちばんに考えてほしいわ」
「きみはきっと良くなる。いなくなるなんて言わないでくれ」
「そうね。でも、心配なの」
「私たち夫婦にとって、ロラの幸せがいちばんだ。それはなにが起こったって変わらないよ」
ベルトラン子爵が言うと、妻は、ほっとしたように微笑んだのだ。
それから、ほどなくして妻は亡くなってしまったが、妻の言葉は、いつもベルトラン子爵の胸にあった。
ロラを幸せにしたいといつも思っていた。だから、ロラの初恋であるポールとの婚約が決まったときなど、これでロラはきっと幸せになれるだろうとよろこび、安心したものだ。ロラだって、最初こそ照れて意地を張っていたものの、素直に涙を流してよろこんでいたのだ。それなのに、どうしてロラは……。
考えても考えても、答えは出ない。ロラはもうこの世にいないのだ。
妻を亡くしたベルトラン子爵、母を亡くしたロラ、それぞれを気遣って、学生時代からの友人であるアルノー伯爵がふたりを領地の屋敷に招待してくれたのが、ロラとポールが出会ったきっかけだ。それ以来、たびたびお互いの領地を行き来していた。馬車で少しかかるが、じゅうぶんに日帰りできる距離ではある。
男の自分とは違う女の子ということもあってか、ベルトラン子爵にとってロラは難しい子どもだった。ポールと遊ぶことで気がまぎれればと思っていたのだが、ロラはよく嘘をつくようになったのだ。きっと母がいなくて寂しいのだろう、とベルトラン子爵は思っていた。寂しくて、父であるベルトラン子爵や、ポールの気を引こうとしているのだろう、と。
ある日、ベルトラン子爵は、自分が贈った髪飾りをロラが身につけなくなったことに気づいた。それは、ロラの八歳の誕生日に、ベルトラン子爵が悩み選んでプレゼントした普段使い用の髪飾りだった。金色の留め具にロラとベルトラン子爵の瞳の色と同じ薄紫色の小さな石が並べられたシンプルなものだったが、ロラの白い髪の毛によく似合っていたのだ。
「あの髪飾りはどうしたんだ。気に入らなかったのかい?」
ベルトラン子爵はそう尋ねた。プレゼントを受け取ったときのロラは、たいそうよろこんでいたし、それまでは毎日のように髪をそれで留めていた。
ロラは首を横に振り、下唇を噛んで沈黙したあと、「なくしてしまったの」と、消え入りそうな声で言った。
「そうか。今度から気をつけなくてはいけないよ」
ロラにそう言い聞かせながら、なくしてしまったことを言い出せなかったロラを叱る気にはなれなかった。自分が幼かったころにも、似たようなことをした覚えがあった。
数日後、アルノー伯爵家へ招待された際、ポールのジャケットの胸ポケットに、ロラの髪飾りが光っているのを見つけた。似ているだけのブローチかとも思ったが、自分が悩みに悩んで購入した薄紅色の石は、やはりロラの髪飾りに違いない。
「ポールくん、きみのその胸にあるのは、ロラの髪飾りでは?」
ベルトラン子爵が尋ねると、「はい。ロラがくれたのです」と、ポールが胸を張った。
「大事なものだから、これを自分だと思って僕に持っていてほしいと」
確認するようにロラのほうを見ると、下唇を噛んだロラは、両手をぎゅっと握り合わせ、顔を赤くして黙ってうつむいている。
好きな男の子に、自分の大事なものを渡した。それを父に言うのが恥ずかしくて、なくしたなどと嘘をついたのだな。ベルトラン子爵は納得して、
「そうか。それは私が娘の誕生日にプレゼントしたものだが、娘がそう言うなら、きみが持っていたほうがいいのだろうね」
娘の初恋を、微笑ましくも、少し寂しく思いながらそう言った。
そんなことを思い出していると、
「義父上」
背後から呼ばれ振り返ると、ポールが泣き腫らした顔で立っていた。そのジャケットの胸ポケットには、ちょうど思い出していたロラの薄紫色の髪飾りが光っていた。
「ロラは、なにも遺していないのでしょうか。日記や、手紙や、僕や義父上になにかを伝えるようなものを」
ポールはなにかに縋るようにそう言った。
「ああ、私も考えていた。タウンハウスに戻ったら、よくさがしてみるよ」
ベルトラン子爵もポールと同じように、どうしてロラがこんなことになったのか、わけがわからず、心細いような心地がしていたのだ。ロラの気持ちを知りたい。どうしてこんなことをしたのか。なにを思って、自ら命を絶ってしまったのか。
難しい子どもだったロラは、その難しい気質のまま成長してしまった。ポールは、そんな難しいロラに、ずっと辛抱強く寄り添ってくれていた。ふたりは、これから幸せになるはずだったのに。どうして。
「いまはまだ考えられないかもしれないが、きみはいつか、ロラ以外の誰かと結婚することになるだろう。そのときまででいい。ロラのことを忘れずにいてほしい」
ベルトラン子爵は、ロラへのせめてものたむけにそう言った。
「忘れません。ずっと」
ポールは震える声で言い、胸の髪飾りに手をやると、ぎゅっと大事そうに握った。
*
ロラを見送った翌日、家令に連れられて、ロラ付きの使用人からベルトラン子爵へと報告が上がった。
「お嬢様は、お式の前日、夜遅くまで起きておられたようでした」
夜の見回りの際、ロラの部屋の扉の下から灯りが漏れていたため、使用人は扉をノックしたのち、外から声をかけた。夜の見回りは、ロラが勝手にタウンハウスを抜け出して街へ遊びに出かけるという事件のあと、使用人たちの日課になっていた。
「お嬢様? もうお休みになられてはいかがですか」
すると、ロラは、「ええ、これを書いたらもう寝るわ。ありがとう」と、返事をしたという。
「どなたかにお手紙を書かれているのだと思ったのですが……」
その報告に、ロラの遺書があるのでは、と思ったベルトラン子爵は再びタウンハウスへと戻った。しかし、ロラの自室を始め、タウンハウス内をくまなく探し、さらには式場であった教会を探し回ったが、遺書のようなものは見つからなかった。日記すら見つからない。ロラには日記を書く習慣がなかったのかもしれない。ロラの友人に、手紙を受け取っていないか尋ねようにも、ロラには親しくしていた友人はいないようだった。
ただひとり、タウンハウスに出入りしている青果業者がいつも連れていた幼い娘と仲良く話す姿を、使用人たちはときおり目にしていた。あの夜遊び事件以来、学園へ通う以外には滅多に外に出ることのなくなったロラであったので、タウンハウスの敷地内では少しの自由は与えられていた。青果業者の娘はまだ幼かったこともあり、ロラに悪影響もないだろうと目こぼしされていたのだ。
ベルトラン子爵は、家令を通して、念のため、という形でその娘にロラから手紙かなにかを受け取っていないか尋ねた。
「おじょうさまと約束したのです。だから言えません」
念のためだったが有益な情報が手に入りそうな返事に、家令は辛抱強く、話してくれるよう娘に頼み込んだ。娘は頑なに口を開かなかったが、ロラの死を知ると、驚いたように沈黙したあと、つっかえながらもロラとの会話や、ロラから預かった手紙のことを話してくれた。
ロラは、娘に会うたびにお菓子を分けてくれたり、裏口の外で隠れるようにしゃがみこんで、いっしょにおしゃべりしてくれたりしていたのだという。青果業者と娘が子爵家を訪れるのは早朝だったにも関わらず、ロラは娘の顔を見に裏口へ、寝間着姿のまま顔を出していたようだった。
ある日、ロラは地面に街の地図を開いて、「あなたたちは、いつもどの道を通ってここに来るの?」と、娘に尋ねたそうだ。まだ少ししか文字の読めない娘が困っていると、それに気づいたロラは、「ここが、レストランキャリコ亭、ここがセントラル銀行、これがバターノ川よ」と地図上を指さして目印を教えてくれた。
「この道を、こう通ってここへ来ます」
娘が、地図上を指でなぞって見せると、
「帰りも同じ道を通るかしら」
ロラはそう尋ねたという。はい、と娘が返事をすると、ロラは、「いつか、頼みたいことがあるの」と言ったそうだ。娘は、それがどんなことなのかはわからなかったが、いつも親切にしてくれるロラの助けになれば、と思い、「あたしにできることなら、よろこんで」と答えた。
そして、結婚式当日の早朝、ロラは娘にこう頼んだ。
「この手紙を、内緒でラヴィ新聞社に届けてほしいの」
「ラヴィ新聞社ですか」
それはどこだろう、と娘が考えていると、
「ええ。キャリコ亭がある通りに、ブティックエレナというお洋服屋さんがあるわ。そこの二階にあるのがラヴィ新聞社よ」
ロラは畳んで持っていた地図を地面に開いて、そう説明してくれた。
「そこならわかります」
娘が言うと、
「ラヴィ新聞社のあたりを通るのは、どのくらいの時間になりそう?」
ロラはそう尋ねた。
「お昼くらいになると思います。そのあたりを通るとき、いつもお昼の鐘が鳴っていますので」
「そう」
ロラは頷くと、
「ちょうどいい時間ね」
にっこりと笑顔でそう言って娘に手紙を渡した。
「じゃあ、お願いね」
「かならず内緒で届けます」
分厚い手紙を受け取った娘が言うと、ロラは、「ありがとう、約束よ」と微笑んで、娘のことをぎゅっと抱きしめてくれた。そして、お菓子といっしょに、金貨を一枚、銀貨を五枚くれたという。
「こんなにたくさんもらえません」
そもそも駄賃などもらうつもりのなかった娘が驚いて言うと、
「いいの。どうかとっておいて。もう私には必要のないものだから」
ロラはそう言った。娘が恐縮しながら礼を言ったところで、仕事の終わった父に呼ばれ、帰ることを告げられた。
「どうか、元気でいてね。あなたには、幸せな人生を送ってほしいわ」
別れ際に、ロラはそんなことを言った。それを聞いた娘は、もう二度とロラとは会えないのではないかという予感めいた不安を覚えたが、今日が結婚式だと聞いているし、きっと身のまわりが忙しくなるのだろう、と、その不安を振り払った。
その後の帰路で、娘はお手洗いを借りてくると嘘をつき、父のもとを離れ、ラヴィ新聞社に手紙を届けた。
「ほんとうに、ほんとうに、おじょうさまは亡くなられたのですか?」
娘の言葉に家令は頷いた。
「あたし……あたし、おじょうさまのこと好きでした。おじょうさまとおしゃべりさせてもらえる時間が、いつも楽しみでした……」
娘は泣き出し、泣きながら、ロラから受け取った駄賃を返そうとするのを家令は断った。それはいざというときのために大事にとっておくようにと娘に言い、青果業者にも少しの謝礼を包んだ。
報告を聞いたベルトラン子爵が、ラヴィ新聞社に使いを出そうと手配している最中に、使用人たちからさらに報告が入る。
今朝のラヴィ新聞の号外にロラの手記が掲載されているという。
ラヴィ新聞は、新聞というよりも情報誌に近い。どこそこのご婦人がある分野で賞をとったことや、カフェの女性店主へのインタビューなど、女性の活躍を報じることの多い、比較的新しい民営新聞で、月に一度だけ発行されている。そんなラヴィ新聞が号外を出した。
その号外に、『嘘つきな私の本当の話』という見出しをつけられ、ロラの手記は掲載されていた。
*
嘘つきな私の本当の話
私は彼と結婚しないことに決めました。もともと、気の進まなかった婚約でした。いえ、「気が進まない」などというやさしい表現では足りません。嫌で嫌で仕方のなかった婚約でした。
父にいくら嫌だと訴えても聞き入れてもらえず、ずるずるとここまできてしまいました。貴族に生まれた娘は、父の決定には逆らえません。なので父には頼らず、私は自ら、彼と結婚しない道を選びます。
私には幼なじみがいました。アルノー伯爵家のポール様です。幼なじみとはいえ、私とポール様は仲が良いとは言えませんでした。
ポール様と初めてお会いしたのは、お互いが八つのころでした。ポール様は、父のご友人であるアルノー伯爵のご次男でした。父が、アルノー伯爵とお茶をしながらカードゲームをするというので、連れて行かれた先に、ポール様がいらっしゃったのです。
ポール様は、金色の髪に濃紺の目をした美しい男の子でした。でも、それは後になって客観的に見てそうだと思っただけで、当時の私は人の美醜というものをあまり理解していなかったように思います。私にとって、ポール様はただの初対面の男の子でした。このときは、まだ。
父とアルノー伯爵がカードゲームを始めると、
「庭へ行こうよ」
ポール様は私をお庭へ誘いました。私は、伯爵家のお庭がどのようなものかわくわくしながらポール様の誘いに応じました。
しかし、ふたりきりになった途端、ポール様は、私の髪の毛を強く引っ張り、吐き捨てるように「白髪ババア」と言いました。
私は、髪を引っ張られた痛みも忘れ、ぽかんとポール様を見つめてしまいました。
白髪も、おばあさんも別に嫌ではありませんでした。ただ、その言葉に侮蔑を込めて初対面の人間に平気で放つことのできるポール様を、私はこの瞬間に大嫌いになりました。
私は、亡くなったお母さまと同じ、この髪の色が好きでした。自分で言うのもなんですが、カスミソウみたいできれいな色だと思っています。
ただ、ポール様にとっての私は、「白髪ババア」だったというだけのことです。
ただの初対面の男の子から大嫌いな男の子となったポール様は、ニタニタと笑って、「白髪ババアには友だちなんていないんだろう。仕方がないから僕が遊んであげるよ」と言いました。
私は、ポール様のその笑顔を醜悪だと感じました。
これが、私たちの出会いです。
名前を見るのも書くのも嫌なので、ここからは、ポール様のことを「彼」とだけ呼びます。
私は、初めて会ったときから彼ことが大嫌いです。彼も、きっと私のことがお嫌いだったのでしょう。会うたびに、よく意地悪をされました。ぬかるみでわざと転ばされたり、小さなカエルを口の中に放り込まれたり、粉せっけんをまぶしたお菓子を食べさせられたり、そのたびに泣いてしまう私を見て、彼は楽しそうに笑ってしていました。
彼は口がうまくて外面が良く、私の父もすっかり騙されていました。
彼は、私の父には、私がぬかるみで勝手に転んだのを自分が助けたかのように報告し、カエルに驚いた私を助けたかのように報告し、伯爵家で出されたお菓子を私が「おいしくない」と言って吐き出した、と報告しました。そのたびに、私は父に、「お行儀よくしなくては駄目じゃないか」と叱られました。いくら、ちがう、そうではない、彼に意地悪されたのだと訴えても、「嘘をつくんじゃない。人のせいにしてはいけないよ。彼がそんなことをするはずないだろう」と叱られ、「そもそも彼が、そんな無意味な嘘をつく理由がどこにあるんだい?」と問われます。理由なんて、私だって知りません。
それでも、彼とたびたび遊ばせようとする父に、どうして彼と遊ばなくてはいけないのか尋ねました。
「彼が、ロラと遊びたがっているからだよ」
父はそう言いました。
「でも、私は彼と遊びたくないの。もう彼に会いたくないの」
勇気を振り絞ってそう言った私に、父は笑って、「素直にならないと彼に嫌われてしまうよ」と言ったのです。素直な気持ちを訴えて、そう返された幼い私は混乱しました。
「本当よ。本当に、私は彼と遊びたくないの。だって、彼は私に意地悪ばかりするんだもの」
自分でもわかるくらい顔を真っ赤にして、さらに必死に訴える私の言葉を、「あの年頃の男の子はみんなそうさ」と、まともに取り合ってはくれませんでした。
このとき、私の本当の気持ちなんて関係ないのだと知りました。
父にとって大事なのは、私と遊びたい、という彼の気持ちで、彼と遊びたくない、という私の気持ちなど、理解する価値もないのだと知りました。それは、彼の家がうちより格上の伯爵家だったことも関係していたかもしれませんが、そんなことはもうどうでもいいことです。父は、娘の私よりも彼を優先したのです。そのときには気づきませんでしたが、その事実は、幼い私の心に確実に傷を残しました。
そんなやりとりもあり、彼に髪飾りを奪われたとき、私はそれを父に言えませんでした。
アルノー伯爵といっしょにうちに遊びにきた彼は、ふたりきりになった隙をついて言いました。
「その髪飾り、似合ってないよ」
私は父からの誕生日プレゼントであるこの髪飾りをとても気に入っていました。父と私の瞳の色と同じ薄紫色の石は、父が私のことを思って選んでくれたことが伝わってきたからです。そんな私の気持ちをポール様がわかって言ったのかどうかは知りませんが、彼がその言葉を、私を傷つけるために言ったのだということはわかりました。だって、髪飾りは私の白い髪に似合っていましたから。
「ロラより僕のほうが似合うよ」
彼は、髪飾りを私の髪の毛からむしり取るようにして奪い、自分のベストの胸にあてて見せました。
「返してください! お願いです、大事なものなのです!」
そう訴えても、彼は返してくれませんでした。
「ロラが僕のほっぺにキスしてくれたら返してあげる」
彼はニタニタとあの気持ちの悪い醜悪な笑みを浮かべてそう言いました。
絶対に嫌でした。そんなことをするくらいなら、カエルを口の中に入れられたほうがましだと思いました。彼は、私が嫌がることをよく知っていて、たびたびこのような取り引きを持ちかけました。そのたびに、私は、私の大事なものを諦めざるを得ませんでした。
その日、私は髪飾りを諦めました。
いまになってみるとわかります。他人のものを問答無用で奪っておいて、選択肢が「キスしてくれたら返す」と「返さない」の二択しかないことがそもそもおかしいのです。
返してほしいと言われたら返す。
この選択肢は彼の中にはないようでした。そもそも彼は、他人のものを奪ってはいけない、という倫理感すら持ち合わせていないようでした。
私は、彼に得体のしれない恐ろしさを覚え、こんな頭のおかしな人とは距離を取りたいと思うようになりました。しかし、父親同士が仲が良いためにままなりません。
数日後、私が髪飾りをしていないことに気づいた父に、髪飾りはどうしたのか、と問われ、なくしたと嘘をつきました。彼に奪われたなんて、本当のことを言うと叱られると思ったのです。ですが、嘘をついても叱られるのではないかとも思いました。嘘をつくことは、いけないことだと私は知っていました。父はいつも、彼に意地悪をされたと訴える私を、「嘘をつくんじゃない」と言って叱るからです。
本当のことを言うか、嘘をつくか。どちらを選択してもどうせ叱られるのならば、
「嘘をつくんじゃない。彼がそんなことをするはずないじゃないか」
この言葉を聞かなくてもいいほうを。父から発せられる、私よりも彼を信じているという事実を突きつけられるようなこの言葉を聞かなくてもいいほうを選ぼうと思いました。私は、嘘をつくことを選びました。
「髪飾りは、なくしてしまったの」
すると、父はそれをあっさりと信じ、仕方がないという感じで、「今度から気をつけなくてはいけないよ」と言っただけでした。
本当のことを言うと嘘をつくなと叱られるのに、嘘をついたときには叱られなかった。その事実に、私はまた混乱しました。そして、私は嘘をつくようになりました。本当のことを言うのが怖くなりました。どうせ本当のことを言っても、「嘘をつくんじゃない」と叱られるだけなのです。
おもしろいことに、私が嘘をつくと、父はそれをいつもあっさりと信じました。本当のことを言っても信じてくれないくせに。
私と彼が十二歳になったころ、彼との婚約が決まったと父に聞かされました。
決まった? 「打診があった」ではなく、「決まった」と父は言ったのです。
「……決まってしまったのですか?」
信じたくないという思いで問うと、
「ああ、もう返事をしたからね、書類を交わして正式に決定したよ。彼はうちに婿入りしてくれるんだ。この上なくいい話じゃないか」
父は満足そうな笑顔でそう言いました。一瞬、なにを言われたのか理解できなくなりました。
「我が家になにか利になるようなご縁なのでしょうか」
おそらくそうではない、と半ば確信しつつも尋ねると、
「そういうことではないけれど、ロラはそんなことは気にしなくていいんだよ」
この婚約は、共同事業があるだとか、資金援助のためであるだとか、そういう話ではありませんでした。家のためでも国のためでもない、ただ親同士が仲が良く、そして彼が子爵家への婿入りを強く望んでいるから、という理由でした。
彼にとって私は、憂さ晴らしにちょうどいい玩具のような存在でしかありませんでした。それなのになぜ婚約など、と思いましたが、すぐに理解しました。次男である彼は、婿入り先を探すなり就職先を探すなり、なにかしらの身の振り方を考えなくてはいけない立場でした。そんな彼が選んだのが、子爵家が手に入り、憂さ晴らしもできる、ちょうどいい私だったというわけです。
「ロラは自分の幸せだけを考えたらいいんだ」
そう続けられた父の言葉に、それならば、と意を決して、彼との婚約は考え直してほしいと訴えました。彼との婚約は、私の幸せではないからです。しかし、わかってはいましたが案の定、父は私の言葉を聞き入れてくれませんでした。
「照れなくてもいいだろう」
「照れてなんていません。お願いです。彼とは婚約したくありません」
政略でもいい、他の誰でもいい、うんと年上の男性でもいい、それが家のためになるのなら。でも、彼だけは絶対に嫌だ。私は、父にそう訴えました。
「いい加減にしないか。そんなに意地を張っていては、彼に呆れられてしまうよ」
私は、父がなにを言っているのかわかりませんでした。同じ言語で会話をしているはずなのに、話が全然通じないのです。どっと疲れが襲ってきました。勇気を出して伝えた言葉が、届かなかった。同時に、ああ、もうどうにもならないのだな、と諦めの気持ちも抱いたのです。涙が勝手にあふれてきました。父はそんな私の肩を優しく抱くと、「ロラが、彼と幸せになてくれることを願っているよ」と、言いました。
父はすでに、ポール教の熱心な信徒に成り下がっていました。
つまり、そういうことなのです。父は、「私の」幸せを願っているわけではないのです。私が幸せになることではなく、私が「彼と」幸せになることを願っているのです。私の気持ちよりも、彼の要望のほうが父にとっては大事なのです。彼の願いが叶うなら、父には私の気持ちなんて関係ないのです。当然です。父は、敬虔なるポール教の信徒なのですから。教祖様が絶対、教祖様のためならば、娘をも差し出すつもりなのでしょう。
あの日のことを思い出しました。私が彼と遊びたくないと言ったときの、私の気持ちよりも彼を優先した父への絶望を思い出しました。教祖様への生贄になるよう命じられた私は、この日、再び父に絶望したのです。
学園に入学する年齢になると、学園に通うために王都のタウンハウスへ移り住むことになりました。私は、さらに絶望することになります。アルノー伯爵家のタウンハウスと、ベルトラン子爵家のタウンハウスは、とても近くに建てられていたのです。
毎日、アルノー伯爵家の馬車で彼と共に通学しなくてはいけなくなりました。私が断っても、父がそれを良しとしているので、どうしようもありませんでした。さらには、休日のたびに彼は、私に意地悪をしにやってきます。彼は、私に意地悪する以外になにも楽しみがないのでしょうか。他になにか興味のあることを見つけれてくれればいいのに。私は常々そう思っていましたが、そんなことを彼に言えば、なにをされるかわかりません。
体調が悪いから誰にも会いたくない、と嘘をついたこともあります。実際、彼が来る、と思うといつも気が重く、お腹が痛くなりました。ですが、このころには、父だけでなくタウンハウスの使用人たちもポール教の信徒と化しており、彼は難なく私の部屋までやってくるのです。
ここでは、私は異教徒でした。皆が信じているのは、彼なのです。
私は諦めて体調が悪くても、そうでないふりをしました。部屋にこもると彼が部屋にやってきます。彼を自室に通すことを、私は不快に感じていました。それならば、元気なふりをして、客間や庭で対応したほうがましでした。
彼は、容姿と外面がいいので、学園ではご令嬢たちにたいそう人気がありました。私は、彼女たちに期待をしていました。
「お好きな方がいらっしゃいましたら、その方とご婚約を結ばれたほうがよろしいかと思います。私のほうはいつでも婚約を解消させていただきますので、どうぞおっしゃってください」
期待をこめて、懇願するようにそう伝えても、彼は私との婚約を解消してはくれませんでした。
家でドレスの布地を選ぶときにも、なぜかいつも彼がいました。
「おまえみたいな地味で暗い女には、こういう明るい色は似合わないな。こっちの色のほうがお似合いだよ」
彼は私にだけ聞こえるように耳元でそうささやいて、地味な色の布地を勧めてきました。私の好きな白色や薄紫色、淡い桃色や黄色、水色などを、彼は絶対に私に着せませんでした。意地の悪そうな醜悪な笑みを浮かべ、彼は私に、茶色や灰色、濃紺色などを強く勧めてきました。きっと、嫌いな私の好きな色を彼は嫌いだったのだと思います。ただの憂さ晴らしの玩具である私が、好きなものを選んだり、好きなことをして過ごすことを彼は厭いました。
特に彼のお気に入りの色は濃紺色でした。私が濃紺色を選ぶと、彼の機嫌はよくなり、そういうときはあまり意地悪なことを言われたりされたりしなかったので、私は進んで濃紺色を選ぶようになりました。彼の瞳の色だということを除けば、濃紺色は嫌いではありませんでした。茶色や灰色も嫌いではありませんが、私には似合わない気がしていました。彼の瞳の色を身に着けることには抵抗がありましたが、似合わない色のドレスを身に着けるよりも、似合う色のほうがましだと思うようにしました。なので、彼が地味な色を私に押しつけようとしたときには、いつも濃紺色を選ぶようにしました。彼は、濃紺色が私に似合うことには不満はあったようですが、それでも、一応地味な色味のドレスを私に着せることができて、満足そうにしていました。
なにも知らない商人や侍女は、私に似合う華やかな色を勧めてくれましたが、彼は、「ロラがこれでないと嫌だと言うんだ」と、まるで私が我儘を言っているかのように困り顔で言うのです。
そんな彼の胸元には、かつて私から無理矢理に奪った薄紫色の髪飾りが輝いていました。私は、いつも彼の胸元のそれを目で追っていました。とっくに諦めたつもりだったその髪飾りを目で追うことが、いつの間にか癖になってしまっていました。あれを取り返すことができれば、父も私のことを見てくれるかもしれない。そんなことを考えたりもしました。そんなこと、あるはずもないのに。
いつも彼が、私が楽しい気分にならないよう監視しているので、私はなかなか学園になじめませんでした。それでも、次第に彼も学園では友人たちと過ごすようになり、私はひとりでいられる時間が増え、やっと呼吸ができるような心地がしたものでした。
そんな折、音楽の授業が終わった際に、「ねえ」と、あるご令嬢に声をかけられました。
「今日、先生がピアノで弾いてくださった曲、素敵だったわね」
そう言われただけでしたが、私は、泣きそうになるくらいにうれしかった。
「ええ、とても素敵でしたね」
私がそう答えると、
「だけど、作曲家の方は亡くなられているのよね。もう新曲が聴けないなんて、残念だわ」
ご令嬢はそう言って笑いました。私も、同意して笑いました。そして、私たちはやっとお互いに自己紹介をしました。それだけのことでしたが、本当にとても楽しかったのです。ですが、それがいけなかったのかもしれません。私が楽しそうにしている姿を、彼に見られてしまいました。彼は、私が楽しそうにしていると、いつもそれを壊しにやってきます。
「どうせ、いじめられていたんだろう」
帰りの馬車でご令嬢と話していたことを咎め、彼は言いました。
「いじめられてなどおりません。世間話をしていただけです」
私が本当のことを言っても、彼は信じていないようでした。
それから数日後、あのご令嬢が、明らかに私を避けていると感じるようになりました。話しかけようとしても、不自然にかわされてしまうのです。彼女になにかしたのか、彼に尋ねると、
「ロラに近づかないよう、忠告しただけだよ。おまえがうじうじしているから僕が代わりに言ってあげたんじゃないか」
彼はそう言いました。私は血の気が引きました。どうしてそんなことをするのでしょう。私が楽しそうにしているのが、そんなに気に入らないのでしょうか。
「なにが気に入らない。彼女からの報復を怖がっているのか。大丈夫だよ、ちゃんと脅しておいたから」
私は、彼の言葉をなにひとつ理解できません。どうして、ここまでのことをされないといけないのか、理解できません。黙り込んでいると、
「本当に、おまえは僕がいないと駄目だな」
彼は満足そうに言いました。
学園では、私が嘘を彼に告げ口し、あのご令嬢を追い詰めたと噂されました。そのせいで、誰も私に話しかけてくれる人はいなくなりました。こちらから話しかけようにも、避けられてしまいます。もし、また仲良くなれそうな人ができたとしても、彼はきっと同じことをするのでしょう。そう思うと、私はもう誰に話しかける気力もわかなくなりました。
私は、学園で友人をつくることを諦めました。
こんな地獄が一生続くのかしら。生きている限り、ずっと続くのかしら。「生き地獄」という言葉が頭に浮かびました。この地獄から抜け出すには、どうしたらいいのかしら。私は、そんなことばかりを考えていました。そして、このころから、ぼんやりと死を意識するようになりました。ですが、それは最後の手段です。それを実行する前に、家を出てみようと試みました。
夕方、使用人たちが忙しくしているときを狙って、私は小さなトランクに少しの荷物を詰めてタウンハウスを出ました。
まず、彼に街に連れ出されたときに渡された装飾品をすべて売ってしまおうと考えました。
彼はときどき私を街に連れ出し、なぜか装飾品を買い渡してきました。生贄とはいえ一応婚約者ではあるので、きっと体裁を整えるためにその真似事をしていたのでしょう。
「好きなものを買ってやろう」
装飾品のお店で、彼は醜悪な笑みを浮かべ、いつもそう言いました。ですが、そう言うくせに、私が選んだものを購入してくれたことは一度もありませんでした。
「それより、こっちのほうがいいんじゃないか」
彼は、私が素敵だなと思ったものではない別のものをいつも購入し、私に渡してきました。初めて彼がそういうことをした際には、どうしてそんなことをするのだろう、と思っていましたが、最近ではそれが当たり前のことすぎて、なにも思わなくなっていました。彼からもらったものには、なんの思い入れもありません。数点あるそれらが、いつもらったものなのかもよく覚えていません。
いつも、いつだって、私が大切だったのは、彼に奪われたあの髪飾りだけでした。
私は、彼がよく私を連れていく装飾品店の近くを歩いていたご婦人に声をかけ、不要な装飾品などを買い取ってもらえるお店がないか尋ねました。
「あるにはあるけど、お嬢さんひとりで行くにはちょっと治安が悪い場所よ。夜のお店があるあたりなの。もう遅いし、また日を改めて、誰かについてきてもらったら?」
心配そうにそう言いながら、ご婦人はお店の場所を教えてくれました。
「ありがとうございました。また日を改めたいと思います」
私は嘘をつき、そのまま教えてもらったお店へ向かいました。店番をしていたのはやさしそうな老紳士でした。なんとなく怖そうな人を想像していたので少しほっとして、私は買い取ってもらいたいものがある旨を伝え、装飾品をカウンターに出して見せました。私の好みではないというだけで、品物自体は良いものだったので、彼の装飾品は金貨一枚と銀貨五枚に変わりました。
お店を出て、今夜の宿をさがそうと少し歩いたところで、明らかに騎士だとわかる男性の二人組に声をかけられました。王都の警邏をしている騎士団の者だと彼らは名乗りました。そして、どうしてこんなに遅くにあなたのようなご令嬢がこんな場所にいるのか、というようなことを丁寧に尋ねてきました。私は言葉に詰まってしまい、気の利いた嘘もつけず、「今夜、泊まる宿をさがしています」と正直に話してしまいました。
「行くところがないのですか?」
「はい」
「この辺りは危険ですので、一旦、騎士団の詰所にきていただけますか」
そう言われ、素直について行ったのが間違いでした。私は、あっさりと家に連れ戻されてしまいました。もっとちゃんと計画を立てていればよかった、と、いまになっては思います。
タウンハウスに連れ戻された私は、どうしてあんな場所にいたのか、と、父と彼から責められました。私は、なにもかもがどうでもよくなって、
「私、ポール様のことが嫌いなの。婚約だってしたくなかった。これ以上、彼のそばにいたくない。いくら言っても、お父様は聞いてくださらなかった。だからよ。だから、この家を出てひとりで生きて行こうと思ったの」
もうどうにでもなれ、という思いでイライラしながら本当のことを言いました。
嘘をつくんじゃない、と言って、父は私を打ちました。私の「本当」は、言葉になった途端に「嘘」に変わるみたい。このとき、悲しいとか信じられないとか、そんな気持ちはまったくなく、ただ、やっぱり、と思っただけでした。敬虔なるポール教徒の父には、私はきっと悪魔のように見えていたことでしょう。
「ロラ、そんな悲しい嘘をつかないで。本当に心配したんだよ。貴族令嬢がひとりで街に遊びに出るなんて、不届き者にかどわかしてくれと言っているようなものだ。どこかに売られてしまうかもしれなかったんだよ。そんな危険なことは二度としないでほしい」
父の前なので、彼は気味の悪い猫なで声でそんな優等生な台詞を吐きました。やっぱりまた私が嘘をついたことになるのです。
「ロラを任せてもいいかい? 私は少し頭を冷やしてくる」
父はそう言って、部屋から出て行ってしまいました。自分が打った娘の頬を冷やすよりも自分の頭を冷やすほうを優先するのね、と、冷え切った頭で思っていると、そばにいた使用人が濡らして絞った布巾を渡してくれました。彼は、私が使用人にやさしくされたそれすらも気に入らなかったのか、私を強引に部屋に連れて行きました。いくら投げやりになっていたとはいえ、いくら子爵家のタウンハウス内だったとはいえ、このときの私はもっと警戒するべきでした。後悔してもしきれません。
「おまえは馬鹿なのか。貴族令嬢がひとりで街に出るなんて。おまえみたいな地味で暗い女でも、女だというだけで娼館に売られたりするんだよ」
私の部屋でふたりになると、彼は唾を飛ばしながらそんなことを言いました。
そのくらいわかっていたわ。きっと甘いと言われるでしょうけど、それでもいいと思ったの。彼のそばにいるよりは、ましな地獄だと思ったの。ただ、ここにいたくなかったの。彼のそばにいたくなかったの。この地獄から抜け出して、別の地獄へ行こうとしただけよ。口には出しませんでしたが、私はつらつらとそんなことを思い、顔に散った彼の唾を、汚いと思いながら布巾で拭いました。
こうして、私の最初で最後の家出は、家出とすら認識されず、夜遊びとして片づけられ、失敗に終わりました。
「そうだ、誰にも汚されていないか確認してやろう」
ふいに、彼が言いました。なにを言われたのかわからず、ぼんやりしていると、スカートを強引にたくし上げられました。
「嫌っ!」
驚いて、私は大声を上げました。使用人が扉を開けようとする気配を感じて、
「彼女は錯乱しているみたいなんだ! 落ち着くまでしばらくふたりにしてくれ!」
彼が扉の外に向かってそう叫んだので、誰も部屋に入ってくることはありませんでした。使用人たちもポール教の信徒と化していることを思い出し、私は諦めかけましたが、それでも、たすけて、と何度も叫びました。私は、天国のお母さまに助けを求めました。何度も何度も、お母さまを呼びました。そのたびに、彼は、「大丈夫だよ。落ち着くんだ、ロラ」と、私を宥めているようなふりをしました。力いっぱい抵抗しても、彼の力には敵いません。私を押さえつけるのに両手を使っているためか、彼は叫ぶ私の口を自分の口で塞いできました。
嫌だ、気持ち悪い。それはもう言葉にはなりませんでした。口のなかに彼の舌が強引に入ってきて、私は吐き気をこらえながら、そのおぞましい彼の一部を思い切り嚙みました。彼は私を押さえつけていた手を離し、父に打たれたのと同じほうの頬を打ちました。その瞬間、ひゅん、と、のどから空気が抜けたような気がしました。急に呼吸ができなくなって、身体に力が入らなくなりました。そして、自分が彼のされるがままになっている様子を、外側から見ているような感覚に陥りました。怖かった。とても怖かった。
私は、彼に純潔を奪われてしまいました。
「どうせ結婚するんだ。初夜が少し早くなっただけだよ」
事が終わり、服を整えながら彼はなんでもないことのように言いました。
「うれしいだろう、ロラ。純潔を失ったきみは、もう僕と結婚するしか道はないんだよ」
どういうつもりで彼がこんなことを言うのかわかりませんでしたが、うれしいわけがありません。
勝手に涙が流れました。
そんな私をニタニタといつもの醜悪な笑顔で見て、「落ち着いたら出てきなよ」と、彼は部屋を出ていきました。
女の私は、好きでもない人にこんなことをされるなんて恐怖と嫌悪しか抱きませんが、男の人は違うのでしょうか。相手を傷つけるためだけに、嫌いな相手とそういう行為ができるものなのでしょうか。それとも、嫌いな私が嫌がる様子を楽しむためだけに、こんなひどいことをしたのでしょうか。
私の心は、このときに完全に折れてしまいました。
もうがんばれない。生きていたくない。
私は、死ぬことに決めました。
そうだ、死のう。そう思った瞬間、ストンとなにかが腑に落ちたような気がしました。真っ暗だった目の前が、パッと明るくなりました。絶望の中にあった私の心に、希望が生まれた瞬間でした。
その後、部屋を出て、父と顔を合わせても、父は私が頬を、父の行いを含めて二度打たれたことには気づきもしませんでした。もし私が彼に打たれたと訴えたとしても、「嘘をつくんじゃない」と言われるだけなのでしょう。
それから今日まで、彼と彼の信徒である父に逆らわず、死んだようにおとなしく過ごしました。
「ねえ、わかってる? おまえみたいな女をもらってやろうというのは、僕くらいしかいないんだよ」
言葉は違えど、そういう意味のことを彼は何度も私に言ってきました。こんな醜聞にまみれてしまった私なので、その言葉に間違いはないでしょう。けれど、それなら、彼だって私のことを捨て置いてくれたら良かったのに。地味で暗い私との婚約なんてなかったことにして、華やかで明るいご令嬢と婚約してくれればいいのに。そんな夢みたいなことを考えながら、だけど、叶わない夢だと理解しながら、私は心を殺して過ごしました。
なにを言われても微笑んで、「ええ、そうですね」と言っておけば、彼らは満足そうでした。
「ロラ、結婚式が楽しみだね」
「ええ、そうですね」
「ロラ、彼との結婚が楽しみだろう」
「ええ、そうですね」
「ロラ、僕と結婚できるなんてきみは幸せだよ」
「ええ、そうですね」
「ロラ、彼と結婚できるなんて幸せだろう」
「ええ、そうですね」
「ロラ、僕への感謝を忘れてはいけないよ」
「ええ、そうですね」
「ロラ、彼に感謝しなくてはいけないよ」
「ええ、そうですね」
心の中では、「馬鹿みたい」と思っていました。私の嘘ばかり信じて、馬鹿みたい。
私は、私の頭の中だけで着々と計画を進めていきました。力がみなぎり、心の中に灯った火がめらめらと燃えているようでした。死ぬために力がみなぎるなんて、不思議です。
私が家を出て失敗し、歓楽街で見つかってしまったことはどこからか噂になり、夜遊び癖のある問題のある娘として、学園では白い目を向けられました。それでも、私は学園へ通い続けました。学園内では、彼は友人と過ごすことが多かったので、私はひとりになることができたからです。
このころ、私は休憩時間には図書室にいることが多くなりました。図書室では不要不急の私語が禁止されていましたので、彼も私が図書室で過ごすことにうるさく言うことはありませんでした。
ある日の図書室で、司書の先生が木箱に古い本や地図などを詰めていました。「手伝います」と言うと、司書の先生は「ありがとうございます」と笑顔で言ってくれました。
「この本や地図はどうするのですか?」
尋ねると、
「古い本は孤児院などに寄付します。地図は、もう情報が古くなっているので、保存用以外は処分します」
司書の先生はそう答えました。
「この王都の地図なんかは、先週、内容の更新がされたため下げられたものなので、比較的新しいものですよ。もうないお店なども載っていますが、まだまだ使えそうなので、もったいないですよね」
その言葉を聞いて、私も先生と同じようにもったいないと思いました。なので、その地図をもらえないかとお願いすると、「いいですよ」と、あっさりと地図を譲ってもらえました。
それから私は、タウンハウスの自室でひとりになると、王都の地図を見て過ごすようになりました。彼に連れ出され、歩いた場所や装飾品のお店、私が家出したときに訪ねた買取店、連れ戻されてしまった騎士団の詰所など、目印になる場所から子爵家のタウンハウスまでの道のりを想像で歩いてみました。あの日、家を出た際にこの地図を持っていたなら、またなにか変わっていたのかもしれない、なんて思ったりもしました。
ここはレストラン、ここは銀行、印刷所、市場。そうやって地図をたどります。ここは新聞社。そう思った瞬間、なにかを思いつきそうな感覚が頭を刺激しました。
そうよ、新聞社だわ。
このころ、私は誰に遺書を託そうかと悩んでいました。彼への恨みつらみを書いた遺書を、誰かに託したい気持ちはありましたが、その人物を思いつかなかったのです。敬虔なるポール教徒の父は信用できません。使用人たちだってポール教の信徒です。彼への恨みつらみを託しても意味がありません。学園の図書室の司書先生の顔も浮かびましたが、顔見知り程度の私の遺書を託すのは重いし迷惑でしょう。
困りました。私には、こんなときに遺書を託せるような親しい友人もいないのです。いえ。実は、ひとりだけ友人がいました。彼には知られていない、秘密の友人です。
ですが、彼女に遺書というものを託すことには躊躇いがありました。もしかしたら、彼女が私の死を悲しむかもしれない、と一瞬思ってしまったのです。私は彼女のことを勝手に友人だと思っていますが、彼女が私のことをどう思っているのかなんて知りません。ただの、取引先のお嬢さんとしか思っていないかもしれない。ですが、もし彼女も私を友人だと思ってくれているのなら、私が死ぬことを悲しむかもしれない。彼女のことを考えると、死への決心が少し揺らいでしまいます。なので、彼女に遺書は託せない。
私は、新聞社へ手記という形をとった遺書を託すことに決めました。ですが、私には外出の自由は与えられていませんので、結局、彼女の手を借りることになりそうです。ごめんなさい。他に、信頼できる人がいないのです。
私と彼は、卒業したらすぐに王都の教会結婚式を挙げることになっていました。それまでの日々は結婚式の準備に忙しく過ごしました。それと同時に、私のほうは、身のまわりの整理をしたり、少しずつ手記を書き進めていきました。死という目標ができ、その準備で大変充実していました。
彼が選んだ白いドレスは、彼が選んだとは思えないほど素敵で、私にとても似合っていました。思えば、彼と婚約させられてからは初めて好きな色のドレスを着ることができます。なのに、ちっともうれしくありません。ですが、最後のときを好きな色のドレスで迎えることができる、と前向きに考えることにしました。
私がいなくなっても、きっと父は悲しんだりはしないでしょう。腹は立てるかもしれませんが。
もしかしたら父は、彼の子を産むための生贄を失うことだけは、残念がってくれるかもしれません。父にとって私は、きっと彼の子を産むくらいしか価値がないのでしょうから。
なぜなら父は、彼の子を欲していました。
「彼の子なら、きっとかわいいだろうなあ」
そんなおぞましいことをなにかの拍子に口にしていたのを覚えています。
私を生贄とし、彼の子を産ませんとする敬虔なるポール教徒の父は、教祖様に背いた私を決して許さないでしょう。「彼と」幸せにならない私を責めるでしょう。「彼の子」を産まない、生贄としての責務を果たさない私を悪魔のように思うでしょう。そしてまた、「嘘をつくんじゃない」と打つのかもしれません。
でも、もういいのです。死んだあとにどんなに打たれても、痛くはありませんから。
お母さまが亡くなってから、楽しい思い出なんてひとつもありません。もしかしたら、父とそういう思い出があったかもしれませんが、もう忘れてしまいました。
だって、私のそばにはいつも彼がいましたから。
彼にさえ出会わなければ、私の日常はもっと穏やかで幸せなものだったかもしれません。彼にさえ出会わなければ、父がポール教に入信し、私を顧みなくなることもなかったでしょう。
彼にさえ出会わなければ。
いつ意地悪されるのかとびくびくすることなく、好きな色のドレスを着て、華やかに髪を飾って、他のご令嬢たちと楽しくおしゃべりして、いつか、政略でもいいから望まれて婚約して、そのお相手と少しずつ愛を育んで……そんな平凡だけど幸せな未来があったかもしれない。
彼にさえ出会わなければ。
彼さえいなければ。
本当に何度そう思ったかわかりません。でも、もう考えても仕方のないことです。
あれから、何度も彼を殺すことを夢想しました。ですが、あの、無理矢理に純潔を奪われたときの彼の力を思い出し、恐怖がぶり返すと共に敵わないという諦めの気持ちもわきました。きっと返り討ちに合ってしまう。
死ぬこと自体は別にいいのです。ただ、彼に殺されることだけは、絶対に嫌でした。
私の最後まで、私の命まで、彼の好きにはさせたくない。絶対に、させない。
だから、私は、自分で自分の命を終わらせます。
この死に、価値なんてないことはわかっています。ただ、私が楽になるためだけの、すべてから逃げるためだけの、ただの手段に過ぎないのです。だけど、やっと彼から離れられる。
思えば、彼にはいろいろなものを奪われました。髪飾りも、父も、友人も、純潔も、平穏な毎日も……。
でも、私の心までは絶対に渡さない。私の心は、私だけのものです。嘘でも彼への愛を誓いたくないのです。
もう誰にも、私の尊厳を奪わせない。
やっとお母さまのもとへ行ける。私に残った希望は、もうそれだけです。
私の心は、きっとすでに壊れてしまっているのでしょう。これから迎える死が、とても輝いて見えるのですもの。
これが、嘘つきな私が死ぬ本当の理由です。
神様に嘘の誓いを立てる前に、なんとかやり遂げてみせます。
あのとき、声をかけてくれたご令嬢へ。
あなたが声をかけてくれたこと、本当にうれしかった。私が弱かったせいで、嫌な思いをさせてしまってごめんなさい。迷惑をかけてしまったけれど、私はあなたのことが、ずっと好きです。
私の、たったひとりの大切な友人へ。
大変なおつかいを引き受けてくれてありがとう。あなたとお話するのはとても楽しかった。どうか、幸せになってください。大好きよ。
お父様とポール様へ。
どうか長生きしてください。
私、もう二度とあなたたちの顔なんて見たくないの。だから、どうか、長生きしてください。
それが、私の最後の、そして心からの願いです。
憎悪と絶望をこめて。 ロラ・ベルトラン
最後に、ラヴィ新聞社様へ。
この度は、このような手記を読んでくださり、ありがとうございました。
子爵家の娘の自死などという些末な出来事を取り扱ってくださるかどうかはわかりませんが、この手記をラヴィ新聞社様に託します。私の信頼するたったひとりの友人の通り道にあるというだけで選びましたが、調べてみると女性のための新聞を発行されていると知り、学園の図書室で、いくつか過去の新聞を読みました。その上で、私の本当の話を、こちらに託すことに改めて決めました。
ラヴィ新聞社様が取材されたどの女性も自立されていて、輝いていらっしゃって、強そうに思いました。素敵な女性たち。いまの私には眩しいばかりです。もっと早くラヴィ新聞に出会っていたら、私はまた違った選択をしていたかもしれません。ですが、もう遅いのです。目の前の死が輝いて見えるようになってしまった私は、彼女たちみたいに輝ける気がしないのです。
こんな、なにもできない、ただ泣くことしかできない女のことなんて、きっとすぐに忘れられてしまうでしょう。
ですがそれでも、私はこの手記を書きました。私にできる、彼らへの最後の抵抗です。
彼らへの恨みつらみを誰かに聞いてほしかったのもありますが、私のような女性をこれ以上出さないためにも、この手記がなにかの役に立つとうれしいです。
この手記を書いたのが、確かにロラ・ベルトラン本人だという証明になるかどうかはわかりませんが、学園の卒業証明書を同封しておきます。ご確認ください。
*
家令が手に入れてきたラヴィ新聞を読んだベルトラン子爵は、目の前が真っ暗になったような気がした。新聞を持つ手が震える。
そこには、生々しいまでのロラの心の叫びが書かれていた。感情に任せて書かれただろう遺書とも言える手記は、ベルトラン子爵の心を打ちのめした。
ロラの目を通して見た自分の姿は、滑稽以外のなにものでもなかった。
ロラの手記には、「敬虔なるポール教徒の父」という言葉がたびたび登場した。娘の目に、自分はそんなふうに映っていたのか、とベルトラン子爵は愕然とした。娘を生贄として教祖に差し出す、おかしな宗教に傾倒する父親。比喩ではあったが、その姿こそが、ロラにとっての自分だった。
なによりショックだったのは、ロラがポールに乱暴された際に助けを求めたのが、生きている父親である自分ではなく、もうこの世にいない母親であったことだ。そのくらい、自分はロラの信用を失っていたことを初めて思い知った。
ここに書かれていることが本当ならば。いや、きっと本当なのだ、とベルトラン子爵は思う。信じたくない。目をそらしたい。だが、自分がいままで聞き入れてこなかったロラの言葉が、ロラの死という説得力を持って自分を責め立てる。
どうしてロラは死を選んだのか。ずっと疑問に思っていた。どうして、などと、どの口が言うのか。どの面を下げて、疑問になんて思えたのだろう。照れて意地を張っているだけだと思っていたロラの言葉が、ポールの気を引きたくてやっているのだと思っていた行動が、すべてがそのままロラの真実だったのなら。
「私は、ロラになんて残酷な仕打ちを……」
政略でもないのに嫌いな男と無理矢理に婚約させた。嫌がるロラの言葉を聞かず、挙げ句の果てに、ロラは大嫌いな男に純潔を散らされたのだ。
ポールのことばかりを信じて、ロラの言葉を信じなかった自分が、ロラを死に向かわせた。
「ロラをお願いね」
ベルトラン子爵は、病床の妻の言葉を思い出していた。
「私がいなくなっても、あの子をちゃんと大事にして、あの子の幸せをいちばんに考えてほしいわ」
ロラの幸せをいちばんに考えてきたつもりだった。だが、それは見当違いもはなはだしい行いで、ロラはずっと父親に突き落とされた地獄で喘いでいたのだ。
「……あの髪飾りを取り返さなくては」
ベルトラン子爵は、ロラの葬儀の際にも、ポールの胸に光っていたロラの髪飾りのことを思った。
ロラが、ポールにあげたのだと思っていた。ポールがそう言ったから。だが、実際にはほとんど無理矢理に奪われたという。
「髪飾りを、取り返さなくては」
ロラの信用を失い、ロラ本人をも失ってしまった自分にできることは、もうそれしか残っていない。ベルトラン子爵はぶつぶつと呟きながら、アルノー伯爵家のタウンハウスへと向かった。
アルノー伯爵は、悲痛な面持ちでベルトラン子爵を迎えてくれた。
「約束もなく、申し訳ありません」
「いいんだ」
客間で向き合ったふたりは、しばらく沈黙していたが、
「すまなかった。ラヴィ新聞に書かれていることが本当なら、息子がロラ嬢に、あんな、ひどいことを……」
真っ白な顔をしたアルノー伯爵が先に口を開いた。
「読んだのですか」
「ああ。息子がどんなふうにロラ嬢に接していたのか、私たちは知らなかった。いや、知らなかったなんて言い訳だ。いくらでも気づけたはずだった」
「……それは、私も同じです」
父親なのになにも気づいてやれなかった。ロラはなにも言わなかったわけではない。はっきりと拒絶を示し、助けを求めていた。その言葉を曲解して受け取り、なにひとつ信じなかったのは自分だ。
「ポールくんは?」
「ロラ嬢の葬儀のあと、領地に戻っている」
「そうですか。ポールくんが持っていた、娘の髪飾りを返してもらいたいのですが、いまから訪ねてもいいでしょうか」
「ああ、もちろんだ。先触れもいらない。殺しさえしなければ、なにをしてもかまわない。私も後から向かおう」
アルノー伯爵はそう言った。
ベルトラン子爵はアルノー伯爵の言葉に驚いたが、急いで馬車の準備をし、アルノー伯爵領へと向かった。
*
ロラがいなくなってから、食事がのどを通らない。
ポールは領地の屋敷で、窓から見える庭を、ただぼんやりと眺めていた。この庭で、初めてロラと話をした。ロラが遊びに来た際には、いつもこの庭で遊んだ。思い出ばかりがよみがえり、泣いて眠ってを繰り返している。
自分を見つめる、ロラの薄紫色の瞳を思い出す。
ロラのいない世界でなんて、生きている意味がない。ふとそう思い、ああ、そうか、と気がついた。
自分も死ねばいいのだ。
いまから後を追えば、あちらでロラに会えるかもしれない。ポールが、まともに働かなくなった頭でそんなことを考えていると、使用人が来客を知らせに来た。ベルトラン子爵が来ているという。
「先触れもなく申し訳ない」
客間に通されたベルトラン子爵は、硬い表情で言った。
「きみが、ロラの後を追うのではないかと心配になってしまって」
図星を突かれ、ポールは黙ってうつむいた。
「あの子は、ロラは、きみの死を望んでいない」
ベルトラン子爵は、泣きそうな表情でそう言った。
「きみは、生きなくてはいけないんだ。長生きしなくてはいけない」
ベルトラン子爵の言葉に、ポールの目からは涙があふれた。確かに、やさしいロラは、ポールの死を望まないだろう。
「その髪飾りを、返してくれないか」
ポールの胸元に視線をやりながら、ベルトラン子爵は唐突にそう言った。
「ロラの髪飾りを、返してほしい」
「なぜでしょう」
これはロラが自分にとくれたものだ。ロラがいなくなったいま、ポールの心の拠り所はこの髪飾りしかない。ポールは思わず、髪飾りを隠すように胸ポケットに手を添えた。
「私はあの子との思い出の品を持っていないんだ。あの子は、いつもきみと一緒にいたからね」
そんなふうに言われてしまえば、渡さないわけにはいかない気がした。そもそも、この髪飾りはベルトラン子爵がロラに贈ったものだ。購入した本人が返してくれと言っているため、拒否しづらい。ポールはしぶしぶながら髪飾りを子爵に渡した。
髪飾りを受け取ったベルトラン子爵は、ほっとしたように眉を下げるとそれを大事そうにハンカチで包んで内ポケットにしまった。その様子を見て、ロラを亡くして悲しいのは自分だけではない、父親であるベルトラン子爵も同じなのだということを、ポールは思い出した。
「これは、王都で発行された新聞だ」
そう言って、ベルトラン子爵は小さく畳んで持っていた新聞をポールに差し出した。
「ロラの手記、いや、遺書だ」
その言葉に、ポールは、「なぜ、新聞に?」と疑問を口にする。ポールの言葉を無視して、ベルトラン子爵は続ける。
「きみが知りたがっていた、ロラの気持ちが書かれている。きみのことも、私のことも。ロラがどうして不安定だったのか。ロラがなにを思って行動していたのか。これを読めばわかる。読んでみるといい」
そして、ロラと同じ薄紫色の目でポールの目を真っ直ぐに見て、
「ロラは、きみに生きてほしいと願っているよ」
ベルトラン子爵は静かにそう言った。ポールは流れる涙を拭い、新聞を受け取った。
*
誰にも届かなかったロラの声は、彼女がいなくなってから、多くの人に届いた。
ラヴィ新聞社は、第二のロラを出さないために、教会と協力して、女性のための相談窓口を設けたことを報じていた。その維持のための寄付金を募る記事が、ラヴィ新聞には掲載され続けている。
ロラの死以降、ベルトラン子爵とポールが社交の場に姿を見せることはなかった。
ベルトラン子爵は領地での仕事に邁進し、その後、子爵家を親戚に譲ったとされている。
ポールのその後は、誰も知らない。
了
ありがとうございました。