ep.3 航海は後悔と共に
こんばんは。連載早々遅刻しました(嘘やろ…)【第三話】です。
先週の時点で予約投稿しようと思っていた話を、修正中に寝惚けて消してしまい、泣く泣く書き直す羽目となり今の今まで執筆していた次第です。
何なら元の文章が思い出せず話が膨らみに膨らんで、収拾がつかなくなり……予定していた話が遠ざかり、分割しました。ナンテコッタイ。
確認がまだなので、後で修正するかも?
いつからそこに居たのだろう。
黒塗りの世界。明かりもなければ輪郭もない、ただただ一色の視界。
最早瞼は開いているのか、閉じているのかすら区別は付かない。
自分が今何処に居るかもわからないまま、闇の中をさ迷い続けてもうどれくらいか。
一時間だったか、一日だったか。それとも一年……。
もしかしたら、もっともっと長い期間をそこに居続けていたような気すらする。
当て所なく歩き続けて、何処へ行こうとしているのかすら忘れて、進み続けて。
立ち止まることを忘れてしまった自分は、いつからか身体までこの世界の色に染まってしまっていた。
名前も、姿も、元がどうだったのかすらもう思い出せない。
目的すら亡くしてただただひたすらに、暗闇の中を歩き続けて幾星霜。
一体自分は何処へ向かおうとしているのだろう?
何処へ向かって進んでいるのだろう?
今では何もかもわからなくなっているけれども、唯一、暗闇の中で出逢った“それ”が自分の行くべき先を示してくれていた。
鳥だ。
いつだったか、何処だったかで出逢ったその鳥は、図体のでかい自分とは真逆にとてもとても小さくか細くて、けれど同じようにこの世界に染まってしまったのか真黒い身体をして、地べたをひょこひょこ跳ねていた。
それは常に自分の前を歩いていて、ちっこい上に辺りと同化して見辛い。ちょっとした拍子にも見失ってしまいそうになるから、時折うっかり踏みそうになったりして、非常にヒヤヒヤする。
幸い、この大きな身体は遅鈍だったので鳥の歩く速度に追い付くことはそうそうない。だからそのお陰か、或いはそのせいと言うべきか、そんな不幸は起こらずにいた。
お互いの距離は常に空いている。こちらが足を止めずとも、直ぐに差は開いていく。
だが、そんな時は決まって鳥が立ち止まり、振り返る。
その時に見える鳥の瞳は、暗闇の中で一際輝く銀色だった。
だから、ここがどんなに暗く、何度鳥を見失ってしまいそうになっても、その光を頼りにすれば鈍足に進む自分でも大きな身体を揺らして迷わずに進めた。
鳥の行動の一つ一つがこちらを気遣っているものだと、気が付くまでにそう時間は必要としなかった。それが何処かへ案内しようとしてくれていることも。
……流石に何処に向かっているのかまではわからないが。
けれど、進む目的と理由を失くしてしまっていた自分には、鳥の存在は丁度良かった。
暗闇の中、同化してしまいそうな中。ふと考えることがある。
あの鳥のことだ。
暗くてハッキリとは見えないけれども、どうやら鳥は怪我をしているらしい。
暗闇の中でキラキラと輝いていて、目印代わりになっているのは左目だけ。
右目はずっと閉じているのだろうか? 暗い影の中では見えない。
それに、ひょこひょこと飛ぶ様は幾度とフラついているようだ。端から見ていても何とも危なっかしい。
歩くことになれていないのなら、何故翼を使わないのだろう?
その疑問の答えは、鳥の後を追うように進む自分の足元にあるように思えた。
鉄臭い匂い。濡れた床の感触。
それらは鳥から続いているようだった。
■と鳥。二つは暗い世界をまだまだ進み往く。
疲労を忘れ、空腹を忘れ、歩き方すら忘れて。■はそれでも大きな身体を揺らしながら、這うように往く。
どうしてだったか、それはもう思い出せない。ただひたすら盲目的に、強迫的に「行かなくては」と感じて突き進んでいた。
立ち止まることを許さずとしていたのは、他の誰でもなく■自身だった。
あれからどれ程経っただろう?
這いずり続けた■の身体は至るところを擦れて、汚れて、崩れて、ぐずぐずになっていた。
痛みはない。忘れたから。
辛くはない。忘れたから。
弱音を吐く為の言葉はとうに忘れた。
無音の世界では言葉も必要がない。耳なんてものがあったことすら、■はもう覚えていなかった。
少し離れた先で、ちらりと光がこちらを向く。
あれは何だろう? ……ああ、鳥か。
朦朧とした意識の中、最早機械的に這いずりながら■は鈍い思考回路で思う。
こうもあんまり近いと踏んでしまいそうだ。
危ないからもう少し離れてくれ──そう伝えたくはあったのだが、■にはもう意思を伝える手段を忘却してしまい、出来ない。
だからせめて追っ払うなり、突き放すなりして距離を取ろうと思い、腕を持ち上げたのだが……。
ドロリ。べしゃり。
もたげた身体の一部は腐り、崩れて落ちて地べたにぶちまけられた。
そして、留まることの出来ない■はそれを踏みつけ、身体の一部へと混ざっていく。
「………、……?」
腕だと思って持ち上げたそれは、どう見たって縺?〒ではなく汚物の入リ交じったヘドロ。
■は、自身の身に何が起きたのか理解ガ出来なかった。
理解出来なくなっていたのダ。
思考する為の頭は既に腐肉に埋もレた。声を上げる口も塞がっている。縺ォ縺が腐り爆ぜたのだろう、気付ケば辺りは不快臭が漂っででっている。
闇に蠢く■の身体縺薙o縺は、いつからかおぞましい肉塊の山と成り果てテいた。
そんな異常でしかない状態ニ、■はただタダ疑問を浮かべ縺溘☆縺代※るだけ。■が■でなく、なく無く亡くナナ7ナなっていく恐怖は、闇に融かされナくしていた。
■はトうに壊れていイたのだ。だっだダ。だ。
落ちるところまで落ちるオチ堕ち堕ち着いて、精神は狂気に、狂気に、狂気きっきききょ狂狂ウキニ侵されレ、レレ、何が、ガ、正常縺イ縺ィ繧翫?縺?d縺?かもワカラな、ななイィくなッていた。
バサバサッ
不意に、下方から小さくも激しい音が聞こえてきた。
釣られて見れば、あの鳥が■を見上げ大きく翼を羽ばたかせていたのだ。
■の意識が鳥へと向く。すると鳥は踵を返し、トットットッと向こう側へと跳ねていった。
鳥の黒い背中を見詰めていた■は暫し沈黙していたが、大きく身を捩ったかと思うと、ずずっ……と重苦しい音を立てて鳥の行く方へと進んでいった。
たった今あった出来事など、忘れてしまったかのように。
暗い、暗い、世界を進む。
もう随分と深いところまで来たみたい。
コポコポ泡を吹き出しながら、■はずんずん奥へと向かう。
真っ暗な世界。何もない。進めど進めど変化もない。
ない。ない。何も、ない。
……と、思ったら、■の周りで何やらちょんちょん跳ねる小さなものが。
何だ? これ。
■は首を捻った──首なんてものはないが。
小さなものは忙しく■の周りを跳び回って、パタパタ身体の一部を振り回していた。
ただそれだけなら良いのだが。
小さなものは時に前方に飛び出て■の行く手を阻んだ。
……鬱陶しいなぁ。
体格差故にそのまま突き通すことは出来なくもない。
しかし、跳ねるそれが■の気を散らしてしまうものだから、■は段々小さなものを煩わしく思うようになっていった。
何より、あれが気に入らない。
暗闇の中で一際眩しい、あの銀の輝きが。
そう思うと、■は身体の一部を持ち上げた。
不定形の山が蠢く。
肉がほどけて渦を巻く。
ずるりずるりと這う音を引き鳴らし、肉塊の山ゆっくりと伸び出たのは絡み合った触腕の群。
■はそれを、あの小さなもの目掛けて叩き付けた。
ずずっ……ぐしゃんっ!
辺りに肉の潰れる音が響き渡る。
触腕は振り下ろした先で原型を留めていられず、潰れた腐肉としてみっともなく地べたを塗りたくられた。
そして、あの小さなものと言えば……忌々しくも無事である。
■の動きが遅鈍であるが故に、触腕が迫るもそれは難なく躱してしまったのだ。今は少し離れたところで立ち止まり、地べたの腐肉を見詰めていた。
ぱさっぱさぱさっ
小さなものはまた身体の両端を大きく振り、■の傍へと寄って行った。
■は忌々しげに身を捩る。近付いてくるそれを嫌がるように、■はずるずると身体を引き摺って異なる方へと進み出した。
それからと言うもの、小さなものは■の周りをうろちょろと跳ねて、時に■の行く手を阻んだ。
その度に■は小さなものを嫌がって、方向転換しては先を急ぐ。
あの銀の輝きから逃れるように。
光を拒み続けるように。
気が遠くなる程の時間をその暗闇で過ごしてきた。
始まりのことはもう思い出せない。
けれど相も変わらずあの小さなものは傍にいた。
■の前を歩いているそれは、いつからかよろよろと歩くようになっていた。
覚束ない足取りでも進み続けてはいるものの、その歩みは遅い。■の遅鈍な速度ですら追い付いてしまいそうだ。
周りをうろちょろと動き回られて邪魔をされなくなったのは良い。
……その様子はなんだか、無性に気になって仕方がない。
「……?」
あれは、何だろう?
長い長い距離を越えて、この暗い世界で初めて変化を見た。
暗闇の地平線から光が差していた。
地平線から漏れ出すように伸びるその輝きは、闇に溶け込むように広がる黒色の発光。
そしてそれは■と小さなもの、二つが向かう先にあった。
やがて、二つは地平線の先へと辿り着く。
そこで黒色の輝きを放つものの正体を見た。
石だ。
暗闇の果てにあったのは、暗闇よりもずっと深い黒色に満ちた輝く石だった。
誰が、いつからそこに置いていたのか。その石は無動作に地べたに転がっていた。
鏡のように磨かれた多面。内側に走る赤い稲妻。眩くも何処か吸い込まれてしまうかのような黒い輝きには、妙に惹き付けられる魅力がある。
その存在を認知した途端、■は目を奪われた。
そして、その瞬間に■は理解した。
これか。
ずっと■を呼んでいたのは──と。
石に見とれて立ち止まる■に、前を歩いていた小さなものが振り返り、そして横に身体をずらした。
どうやら道を譲ってくれるらしい。
■は初めて先頭に立ち、石の元へと進んだ。
石は静かに黒光りし、淡い反射光を至るところへと散らしている。
その輝きは光を嫌う■でも不快に感じられないもので、それどころか迎えられているような気すらした。
石にずっと見とれていた■は、より近くで見てみようと、徐に身体の一部を伸ばして石を拾い上げた。
硬く冷たい感触が身体の一部を通して伝わってくる。
初めて手にした感触に──或いは、遠い昔に覚えがあるような感触に──■は食い入るように観察した。
拾い上げたその上でコロコロと転がしてみたり、じぃと観察してみたり……暫くの間、夢中で石を眺めていた。
「……!」
すると不思議なことに、石を眺めていた視界に見慣れない景色が飛び込んできた。
……否、はたしてそれは本当に見たものなのかは、わからない。
さながら急に頭の中浮かび上がってきたかのように、その景色、或いは映像が浮かび上がったのだ。
「……!?」
この世界の黒色にすっかり馴れ切ってしまっていた■は、突如視界に飛び込んできた極彩色に驚き、思わず石を手放した。
カツーン、コロコロ……。
落とした拍子に石は地べたを跳ね、転がっていく。
コロコロ、コロコロ、向かう先は■の後ろの方へ。
身体が重く遅鈍な動きしか出来ない■は、咄嗟に拾い上げることが出来ず、視線で石を追い掛ける。
転がり行く石はやがて何かに阻まれこつりとぶつかると、そこでようやくぴたりと立ち止まった。
石がぶつかったそれは、あの小さなものだった。
いつからそうなっていたのか、くったりとした状態で小さなものはその場に横たわっていた。
小さなものの異変に気付いた■は恐る恐る近付いていく。
踏まないように少しだけ間を残し、上から覗き込むようにそれを見る。
じっとして動いていないように思えたそれは、良く良く見てみるとほんの微かに身体が伸縮しているのがわかった。
どうやらまだ息はあるらしい。
■はホッと安堵した。それから「はて?」と疑問を浮かべる。
■は一体何に安堵したのだろう?
■にとって、それは邪魔なものでしかなかったから、余計に訳がわからなかった。
呼吸はしているものの、それは全く起き上がる気配がない。
一時は無意識にも安堵した■だったが、微動だにしない小さなものを眺めている内に、得も言われぬ不安感に苛まれるようになっていく。
どうしてこれは起き上がらないのだろう?
■は恐る恐る小さなものへと手を伸ばしてみることにした。……否、正確には触腕をだ。■に手などない。
うぞり、と蠢かせた身体の一部をくったりとしたその身体に触れさせようとして……しかし、寸ででそれはピタリと止まった。
小さなものは余りにか細く、脆そうだったのだ。
ふとした拍子に、簡単に潰せてしまいそうな程に。
■は迷った。これは■が触れて良いものかと。
■は悩んだ。うっかり■が傷付けやしないかと。
悶々としてしまう■だが、どうしてそんなに躊躇してしまうのか■自身にもわからなかった。
思えば、こうも物を考えるのは久しい気がする。
常に”なんとなく“で気の向くままに行動していたばかりいたのだ。久しく使わなくなっていた思考回路は錆びでも付いているかのようで、動きが鈍い。
そうして■がまごついていると、不意に小さなものが身体を震わせた。
「……!」
その時、■はハッとした。
ここは余りに寒い。吐いた息が白く凍り付く程に。
■はとっくに慣れてしまったが、小さなものには酷な環境であることに気が付いたのだ。
こんなにも弱っているのに、身体を冷やしてしまってはいけない。
そう考えた■は、今度こそ小さなものに触れた。
ふわり。柔らかな羽毛に触れる。
ほんのりと熱を持っているそれはほんわりと温かかった。
その感触は酷く懐かしく思えて、■の遠い遠い記憶を呼び覚ました。
…
『お父さん。』
仕事帰りの父は、いつも疲れた顔をしていた。
けれど、自分が一言それを口にすれば、決まって父は自分の傍まで近寄って、目線の高さを合わせるようにしゃがみこむ。自分と話す時は、必ずと言って良い程に父はそうしてくれる。
人より大柄で剣のある目付き故か、父は人から誤解されるようなことが多かった。
当人もそれを気にしているらしく、その分、自分に対しては特に気を遣っていたようだった。
『うん。どうした?』
普段から口数の少ない方なのに、丁寧に選びながら言葉を増やし、低く響く声のトーンはいつもより柔らかく、優しいものに。
元々子供は得意な方ではないんだが、と溢すこともあった父だが、その分、自分と接する時には不器用にも真摯に向き合ってくれていた。
そんな父は自分にとって、周りが言うような恐ろしい人ではない。
誰より優しくて強い、自慢の父だった。
『……これ……』
そんな父の前に、自分はおずおずと抱えていたものを差し出した。
それは、小さくふわふわとした黒い毛玉。
父はそれを見るなり柔らかだった表情を少し曇らせた。
『……拾ってきたのかい?』
父の言葉に、自分は小さく頷く。
すると父は切れ長な眉をハの字に傾けた。
『ごめんな。家じゃあその子と暮らせないんだ。可哀想だが……元の場所に返してあげなさい。』
大きな手が自分の小さな頭を柔らかに撫でる。
自分達が住む家は、少々年季の入ったぼろアパートの一室だ。しかもペット厳禁。
なので父がそういうのもわかっていた。
わかっていたのだが……。
『……でも、この子、おなかすいたって……さむいっていってたよ? このまま、お外にいるのは、可哀想だよ。』
温和な父に諭されながらも、自分はそう言って、抱えていたそれをぎゅっと抱き締めた。
小さな自分よりもずっと小さなそれは寒空の下で随分と長い間凍えていたようで、ブルブルと小さな身体を震わせていた。その姿が酷く憐れで、憐れで……少しでも温めてあげられたらと考えた自分は抱えていた腕で風避けの壁を作り、より密着させた。上着越しに小さな温もりが伝わってくる。
『そうだとしてもな、家は動物を飼えない所なんだ。お前の気持ちも良くわかるが、こればっかりは父さんにはどうにも出来ないことなんだよ。』
『でも、でもぉ……!』
『一織。』
父の言うことに尚も納得出来ないで次第にぐずり始める自分。
すると父はハッキリとした口調でその名前を呼んだ。
びくり、と思わず肩を震わす。我が儘を言い過ぎただろうか……?
しかし、父はそれからめっきり口を閉ざしてしまい、困った顔をして自分を見詰めていた。
父は叱らなかった。
どんなに無茶な我が儘を言っても、いつも困った顔をして黙ってしまうのだ。どうしたら良いのかわからない……そんな様子で。
父は優しかった。
どんなに下手に失敗しても、疲れた顔のまま許してくれた。
「仕方がない」「そう言うこともあるだろう」って言って、それで会話は終わり。
……寂しかった。
父の関心はいつも母のことばかりだったから。
ダメなことだとわかっていても、悪い子になって父の気を引けたならと良いと思っていた。
自分のことも、もっと見て欲しかった。
『ごめんね。ぼく、きみとね、一緒に暮らせないんだって。』
説得の甲斐があってか、悩みに悩んだ父はついぞ折れて「これでご飯を買ってあげなさい」と少しの小遣いを握らせてくれた。そして最寄りのスーパーへ連れていってくれて、缶詰めを一つと自分一人分だけの弁当を一つ購入すると、父は小さな段ボールと「もう要らないから」と古着を自分に与え、それから買って貰った弁当を食べる自分に「その子の為に私達出来ることはこれくらいだ。だから、元の場所へ返してやりなさい」と言い残し、忙しくもまた次の仕事に出掛けていったのだった。
父が家から居なくなり一人残された自分は、食事を終えると父から言い付けられた通りに段ボールに古着を詰め、黒い毛玉と缶詰めも押し込んで、近所の公園へと向かった。
『ごはん、おいしい?』
そう訊ねる自分の目の前では、黒い毛玉が与えた缶詰めの中身はハグハグ必死に食らい付いている姿があった。
黒い毛玉はちらりと視線をこちらに向けるが、一向に止まる様子はない。どうやら相当腹を空かせていたようだ。
『んまんま、んまぃんな~』
『わ、しゃべった!』
与えたツナ缶が余程お気に召して貰えたらしい。がっつきながら黒い毛玉が間の抜けた鳴き声を上げる。
それが何とも絶妙に人の言葉に聞こえるもので、自分は驚くと同時に可笑しく思えてくすくすと笑い出してしまうのだった。
『今日から、キミのお家はここだよ。これでね、さむくないでしょ?』
腹を満たしたら、今度は居住地だ。自分は横向きに倒した段ボールに、毛玉と一緒に古着を詰め込んだ。
始めは何をされているのかわからず、被せられた古着の山から抜け出そうともがき出す毛玉だったが……やがて、そこが冷たい風を凌げる場所だと理解してくれたのだろう。
ふんふん匂いを嗅ぎながら暫し段ボールの中をうろうろと回っていたのだが、最終的には古着の中へ潜って丸まり、落ち着いた。
するとさほど経たずして段ボールの中からはぷうぷうと言った寝息が聞こえ始めた。
『……よし。』
これで大丈夫だろう。
そんな毛玉の様子を見て、自分は満足げに呟いた。
遠くから。夕刻を報せる音楽が聞こえてくる。
『……帰らなきゃ。』
空を見上げてみれば、真っ赤な夕焼け空を夜空の紺色が侵食していく様が見える。
そのグラデーションを暫し眺めながら、やがて町内放送の“赤トンボ”が鳴り終わると、自分は自宅に帰ろうと踵を返して……
『そうだ。』
くるりと毛玉の方へと向き直した。
『夜になったら、もっとさむくなると思うから、これもあげるね。』
そう言って差し出したのは、たった今まで自身が身に付けていたマフラー。自分の体温が移ってほんのり温かい。
『(マフラーなくしたって言ったら、お父さん、また一緒におでかけしてくれるかな?)』
胸の中ではそんな稚拙な企みを考えながら、段ボールの中を最早過剰気味に衣類で詰めていく。
毛玉もぬくぬくで満足なのだろう。寝心地良さげな溜め息で鼻をぷぴーと鳴らしていた。
そして自分は今度こそ用事を果たし、帰路につくのだ。
『ばいばい、猫さん。』
振り返り様に大きく腕を振って、自分はその場を後にした。
次の日。
誰が回収したのか、段ボールはあの場所から無くなっていた。
代わりに、公園にあるゴミ捨て場には踏み潰された段ボールと、土や泥に汚れた衣服が粗雑に突っ込まれていた。
あれからと言うもの、黒い毛玉みたいなあの小さな仔猫は、以降、一切姿を見せることはなかった。
…
触れたそれは動かなかった。
徐々に冷たくなっていく身体に、弱くなっていく心音。触れた箇所を伝ってその命が風前の灯であることを知る。
あの忌々しいばかりだった銀の輝きは、今や瞼の向こう。こちらを向かない。
「(……いやだ。)」
瞼を閉じたそれを見て、なんだか身体の中にぽっかり穴が空いたみたいな心地がした。
……いや、それはきっと以前からだ。
胸に空いた穴は、今の今まで、この小さなもので埋められていたのだから。
■にとって、この小さなものはもう何でもないものではなくない。
「(ひとりは、嫌だ。)」
途端に、この静かな暗闇にもどうしようもなく不安を覚えた。
この腕の中のものの温もりが冷めた時、■は晴れてひとりぼっちとなるだろう。
それを考えると、つんとした熱が視界の元に集まっていくのを感じた。
世界がじわりと滲み出し、景色が崩れて歪んでいく。
「(いかないで。)」
思えば、この子はずっと■の傍にいてくれた。
どんなに拒んでも、どんなに時が経っても、今までずっと一緒にいた。いてくれた。
それがもうすぐいなくなってしまうのだと気付いた時、■はようやく自覚する。
ああ、■はずっと助けられていたんだ。
■は──”俺“はまた、間違えていたんだ。
あの時みたいに。
”あの人“の時のように──。
…
『ねえ、一織。最後にひとつだけ、アナタにお願いしても良い?』
彼女が亡くなる前、最期に会った時のこと。
いつもヘラヘラ笑ってお気楽な性格だったその人が、初めて俺に弱音を吐いた。
『……は? 何、言って──』
『アタシね、一度くらいはアナタに呼ばれてみたかったのよ。”お母さん“って。……まあ、母親らしいことはあんまりしてあげられなかったけどね。』
そう言って掌を後頭部に当て、たはーっと困ったように笑う彼女。
『アタシには母親としての素質は、確かにない。アナタと一緒にいて、それだけはよーぅく勉強させて貰ったわ。……でもねぇ、せめてくたばる前に、ちょっとだけでも良いから良い思いはしておきたいじゃない。』
初めて会った頃から、両親を失い塞ぎ込んでいた俺に「アタシのことはお母さんって思ってくれていいのよ」とか「アナタと家族になりたいの」としつこいくらい接してきていた彼女は、何度も俺から拒絶される内に次第にそれをやめていった。
その時の名残か、或いはまだ未練があるのか、俺と話す時に自分のことを”お母さんは~“と言うことだけは止めなかったが……やはり彼女の母親願望はなくなっていなかったらしい。
昔にも何度とお願いされら嫌がったそれを久しぶりに聞いた俺は、さながらいつもの世間話と対して差のない温度で言い出したそれに、俺はただただ絶句した。
この人は急に何を言い出しているんだ?
つーか最後って何だよ。その言い方じゃあ、まるで……。
『だから……ねっ? お母さんの為にさ、良い想い出を作らせてよ。』
『……ンだよ、それ……縁起でもないこと言うなよ。』
両掌を合わせて「お願い!」と言う彼女に、俺は震える声でそう返す。
『今、この状況でなら、俺がアンタの言うことを聞くとでも思ったのか?』
彼女一人の為に用意された病室に、いつもより低くなった声が静かに響く。
俺の言葉に、彼女は驚いたように首を振る。
『んん?! あっ、いやっ……そう言うつもりじゃあなかったんだけどっ……!』
『じゃあ、何で今?』
『ええと、そのぅ……ううーん……』
悩むような唸る声を聞きながら、彼女の方を向けないでいた俺は俯きながらに拳を握る。
確かに、彼女の”母親願望“は普通ではない。
やることなす事が稚拙で、単純で、まるで年端のいかない女の子が”母親役“を望んでいるだけの拙い飯事のようなものだった。
だから、昔の自分はそれを幼いながらも感じ取り、不審に思って長い間彼女のことを信用することが出来ないでいたのだが……。
それでも、彼女との付き合いはもう十二年も経つ。そこまで同じ時間を過ごしていれば、彼女の人となりもそれなりにわかってきたつもりだった。
だから、彼女からどんなに母親扱いを求められようとも、時に躱し、時に諌め、応えてやらない理由を突き付けてきた。
そうしている内に、彼女もそれに応えてくれるようになっていったのは、やはり彼女も成長がない人ではないからだろう。
俺から指摘されれば悪い癖は直そうと努力をし、拙いながらも出した成果に、自慢気に笑っていた彼女を何度も見てきた俺もまた、彼女を見る目を変えてきたのだった。のだが……。
暫しうんうんと首を捻り続けていた彼女は、やがて気まずげに視線を逸らしたかと思うと、こう言った。
『……ごめんなさい。正直、今ならイケるとは、思ったわ。』
その言葉を聞いた瞬間、俺は頭に血が上る感覚を覚えたと同時に、愕然とした。
ああそうか。結局、この人とっても俺は”そういうもの“なのか──と。
『でもね、一織、アタシは本当にアナタのことを──』
『俺は……アンタのことを、確かに母親らしくない人だって思っていた……けどさ……!』
やっとの思いで顔を上げる。
目には一杯の涙が浮かび、今にも決壊してしまいそうだった。
潤んだ視界の向こうでは、彼女が驚いた表情で俺を見ていた。
『これでもっ、少しくらいは見直してたんだよ……! ちょっとくらいは、アンタのことを認めても良いかなって……これでも思っていたんだっ……なのに、なのにっ、アンタは……!!』
彼女は何も言わなかった。
何も言えなかったのだろう。だって、今までそんなこと話したこともない。
彼女自身、俺がそんな風に思っていたことを知らずにいたようで、驚いた表情には気まずげな色も交じっていた。
『なのにさ、アンタにとって俺のことはただのゲームか、その景品だったらしいな? ……ホント、バカみたいだ! こんなことに、俺はずっと付き合っていたのか。』
『ちがっ……違うの! 一織、お母さんはそんなつもりじゃ……!』
『じゃあ何が違うってンだよッ!!』
ガタァンッ
立ち上がった拍子に、俺の足元で椅子が倒れる。
『アンタはッ、俺の機嫌を取って思い通りにしたかった! 自分の思い通りに出来る、都合の良い玩具が欲しかった! そう言うことだったんだろ!?』
『違うの、そうじゃなくて……!』
『何が違うんだよ!! 何も違わねぇンだよッ……!! 下心も見え見えな癖してさァ……』
そう叫ぶように口にした俺の目からは、堰を切ったように涙がボロボロ溢れ出していた。
『そんなんで、何が母親だよ……そんなんで母親だって思える筈がないだろうが……!!』
『一織……』
彼女の伸ばしかけの手が自分へと向く。けれどそれが届く前に叩き払うと、俺は涙に濡れた目でキッと相手を睨み付けた。
『アンタは母親失格だよッ……二度と俺の前で、そう言うな!!』
それから俺は病院を飛び出した。
後ろからあの人が俺を呼ぶ声が聞こえていたのに、全部無視して走り去った。
それが俺の、彼女との最後の記憶。
そして俺は、この時のことを後悔することとなったのだ。
あの出来事があった、その数十分後に……彼女は帰らぬ人となったのだから。
…
「(……海月……)」
ふと頭に思い浮かぶのは、自分の育ての親だった人の名。
親として、家族として、彼女を見ることが中々出来ず、互いの間に壁があることを示すかのように常より名前で呼んでいた俺は、遂ぞ最後まで母と呼んでやることが出来なかった。
もう、殆ど認めていたようなものだったのに。
今更照れ臭くて言えなかっただけの言葉は、もうその人には届かない。
その機会を、俺は自分で棒に振ってしまったのだから。
「(母、さん……)」
ひぐ、と何処からか息が詰まったような音が鳴る。
視界一杯に水気が満ち、溢れ落ちた雫は真下にあった翼を僅かに濡らす。
俺が抱えていた小さなもの──“鳥”の身体は、もう随分と冷たくなっていた。
僅かにあった筈の心音も、息を感じられる腹部の動きも、もうない。
ずっと長い間傍にいてくれた鳥もまた、事切れてしまっていたのだ。
”ありがとう“の一言すら、言えぬままに。
「(ごめんっ……ごめんなぁっ……)」
冷たくなった鳥を抱いて、俺はただただ静かにボロボロと雫を溢す。
泥の身体の何処に目があるというのか。口もなければ生き物として温もりすらなく、今の今まで情すらなかったと言うのに……。
それなのに、俺はわんわんと泣いた。
散々泣いて、身体中の水分が枯れる程に泣いて……。
気付けば俺は泣き疲れて、文字通り泥のように眠っていた。
不定形な身体を丸くして、懐にて静かに眠る鳥に寄り添うように横たわって。
まるで、散々泣き腫らした子供がするように、緩やかに眠りに落ちていった。
*****
「……馬鹿な子ね。まさか、こんなのところまで来てしまうなんて。」
暗闇の世界。光のない世界。
生を否定するものの在処。無窮を保有した極地。或いは、自存する原泉。
あらゆる生命の源で在りながら、あまねく生命を断絶せしめる混沌の海には今、その根底を揺るがす“例外なるもの”が漂流した。
暗闇の世界を穿つ泡沫の灯。
暗きことこそ常たる世界に真白の灯りを差すそれは、元来招かれざる者の筈だった。
辺りを犇めく闇が真近まで迫り、今にも塗り潰さんと牙を剥く。だが、その毒牙は対象物に届くことはなく……。
闇が光を圧し潰してしまうように、闇に融けた者にとっても光は毒に等しいものであるからだ。
そんなただの力量差だけで優劣が定まる関係性故に、それを煌々と放ちながら悠然と漂うそれに劣る闇のもの共は、目障りと思いつつ指を咥えそれが去るのを待つ他ない。
「あぁあぁ、こんなに汚しちゃって。これじゃあ動きにくくもなるでしょうに……」
仕方のない子ねぇ。
そう呟きながら“漂流者”が見詰める先には、奈落の底で横たわる沈澱物。
今は疲れて泥のように眠り動かなくなっていたそれに、“漂流者”はゆったりと細やかな腕を垂らしていくと、山のように盛り上がったその背をそっと撫でていった。
慈しむように、愛おしげに、それから起こしてしまわぬように撫でる手は、互いに嘗てと形が変わっているものの、そこに含んだ情の深さは今も変わらない。
沈澱物の背に、傘状の円形が淡い光を包むように降り注いでいた。
「……あら?」
不意に溢す呟き、沈澱物の懐に腕が伸びていく。
そこにあるのは見覚えのある小汚い鳥の亡骸と、無動作に転がった結晶体の石が一つ。
「まあ、こんなところにあったのね。」
“漂流者”は成る程と頷いて、それから結晶体に触れた。
赤い線が走る人工物らしいその石を手にすると、“漂流者”は言った。
「これはもう、要らないわ。」
壊してしまいましょ。
そんな言葉を口にすると同時に、纏わりつくように無数の細い腕を絡められた結晶体はパキンと小さく悲鳴を上げ、そして砕けた。
するとあれほど深い黒に染まっていた色は途端にくすんで褪せ、その力を失ったかのように輝きもまた失せていく。
最後にはハラハラと塵を吐きながら形を磨り減らし、やがて腕をすり抜け落ちた頃に残っていたのはただの鉱石の破片となっていた。
そんな鉱石の最期を眺めていた“漂流者”。
彼女は塵が何処ぞへ消えていく様を暫し黙って見詰めていたのだが……何処か腑に落ちぬものがあって、はて? と首を傾げた。
「おかしいわね……中身が空じゃないの。」
そう、彼女は一人呟く。
彼女の記憶によれば、あの鉱石には膨大なエネルギーが含まれている筈だった。
だからこそ、この奈落の奥底にあっても、遠い遠い場所にいた筈の対象物にまで届いてここまで引き寄せることが出来てしまったのだ。
そんなものが、一体何処へ?
彼女が浮かべたその疑問は、思いもよらず早々に解決することとなった。
もぞ……もぞ……
眠る沈澱物の懐で、何かが動く様を見た。
ふるふると小さく震え、そして瞬きを繰り返しながら困惑した様子で辺りを見渡し始めたそれは、先程まで事切れていた筈の鳥だった。
「……ははぁ、そんなこともあるのねぇ。」
彼女は驚きの表情を浮かべ、感心したような台詞を口にしながら頬杖を付く。
その声でようやく気が付いたのか、鳥が頭上へと視線を向けた。
鳥がそこで目にしたのは、暗闇に浮かぶ満ちた月。
反射光の如く淡い光を放ちながら、漂う円形は膨らんだ傘のよう。そこから伸びた無数の細やかな触手が風を浴びたカーテンのように波打ちながら揺れていた。
そんなものの上で、傘の天辺より生えていたのは人間の上半身だ。
薄い茶色のショートヘアに、スレンダーな体格。一目見て明らかな程に女性的なその部分は、真珠のような珠玉を幾つも数珠繋ぎにした装飾を腕に額にと着飾り、必要最低限の素肌は薄絹を纏って隠していた。
良く言えば、それは大きく膨らんだドレスを身に纏う女性のよう。或いは、大きな傘に無数の触腕を携え、ふわりふわりと掴み所なく揺蕩う様は深海を泳ぐ生物のそれ。
だが、それはあくまで美化した表現でしかない。
それを明確に言い表そうとするならば、それは違うことなき人ならざる異形の者の姿なのだから。
そう。
その存在は、上半分が人間でありながら、もう下半分が巨大な海月の象をしていたのである。
次回は、完成次第投稿の予定です。