ep.IF 放棄された使命
これは、もしもの話。
続く筈だった物語。
今はもう過ぎた話ですが、あり得た筈の未来のお話です。
「──何故だ!! 何故神は私達を救って下さらんのか!?」
とある大陸。とある教会にて。
炎上する建物の中に、怒鳴り声を上げる男が空に向かって吠えまておりました。
ミスラを投げ捨て、一人八つ当たる彼の手には、人々が神と讃える“狼竜”より承った宝珠──“竜の目”。
しかし、それはかつての輝きはありません。ひび割れて無色透明な色を映すばかり。
ただの硝子玉になったそれを、男は憎々しげに睨み付けました。
「おのれハイブラシルの糞餓鬼め!! 誰が苦労してあの朦朧爺のフルールを屠ってやったと思っている!!
教団のトップに登り詰め、国を援助をしてやったのも誰だと思っている!!」
ガラクタと化した硝子玉を乱暴に投げ棄てれば、それはパキャンと呆気なく散っていきます。何年も、何百年も、大事に大事にしてきたのにも関わらず。
それでも男は目を血走らせて、キンキン喚くのを止めません。
当然でしょう。
彼らが神と称した獣は、既に人間を見限っています。
だから今更助けに来ることはありません。
人々があまりにも愚かしいばかりに、それは未来永劫有り得なくなったのです。
『──風の向くまま、気の向くまま。
雲が空を流れるように、お前はお前の望むままに。自由に生きなさい。』
かの狼竜が生まれた時、彼は特別な役割を与えられたと同時に、そんな言葉を大事な方から賜りました。
ですから、彼はその言葉通りに──人間を護る事を辞めてしまったのです。
呆れ、憤り、今まで生真面目にこなしてきた役割を捨ててまで、ここよりずっとずっと遠くの地にて。
地上を一切見向きもしないままに、今も、今までも、これからも、ずっとずっと眠り続けているのです。
「糞オォッ!!!」
「……気は済んだ?」
鬼気迫る勢いの男の目は、不意に掛けられた声の主へと向きます。
そこには、荒れる男の姿を捉えた淀んだ目が、無動作に伸ばされた前髪から覗く様が。
痩せこけた身体に重たげな枷をく手足首に携えて、格好こそ多少立派なものを身に付けていますが、手に持つ剣は刃こぼれが酷い。
元からなのか、あるいは褪せてしまったのか、縮れた白髪はボサボサで全く整えられておりません。
そんな風貌の若い男が、いつの間にかそこに佇んでおりました。
教会の男はその人物が一瞬誰なのか判別付きませんでした。
彼の記憶にある過去の姿に比べ、余りに変貌しすぎていたのです。
しかし、それも一瞬のこと。
揺れる蝋燭の火がその姿を照らします。
そこでようやくその人物が誰なのか気付いた男は、同時に「ひっ」と喉を鳴らしたのです。
若い男の身体には、夥しい量の血の痕。
手に持ったボロボロな剣も、浴びたばかりらしい血液が滴り、今も床を濡らしていたのです。
「──化け物め! 忌まわしい帝国の犬如きが、良くもやってくれたな!!!」
余りの様相に思わず怯んでしまったが、恐れよりも怒りが勝った男は唾液を喚き散らしながらまた怒鳴り声を上げました。
すると、古びた剣を携えた彼──巷で“勇者”と呼ばれる彼は、顎を引いてぼそりと呟きました。
「……お前達が言う神というのも、犬なんだろう。良いのか? そう言って。」
「煩いッ! 煩い煩い煩いィッッ!! 所詮あの神も只の魔物の一端!
大体そんなものを崇めていたこと自体、そもそもがおかしかったのだ!!」
勇者からの言葉に、男はヒステリーを起こして頭を振り乱しました。
喚き続ける男を眺め「助けを求めてた癖に、良く言う…」と勇者は独りごちるのですが、その声は男には届きません。
しかし、背後から聞こえてきた物音を耳にするや否や、勇者の肩はびくりと跳ねました。
カツン、カツン、と鳴り響くのは一人分の足音。
辺りで燃え盛る火が弾ける音に混じって、それは段々に勇者に近付いてきます。
すると勇者の身体はカタカタと震え出しました。
淀んだ目に怯えの色が濃くなり、視線は泳ぎ出す。
そんな、狼狽えた様子の勇者の後ろで、低い男の声が聞こえてきました。
「──まだ終わらせていないのか? この愚図が。」
カツン。
足音は勇者の直ぐ後ろで止まりました。
緊張と恐怖で呼吸が段々と荒くなっていく勇者は、肩が何度と上下させ。
「あ、う、」
「仕事は早く終わらせろといつも言っているだろう? グズグズするな。さっさと邪魔なそれを殺せ。」
「……ッは、い……すみませ、」
「おい。」
勇者が震える声で謝罪を口にした時、その後頭部に強い衝撃が落ちました。
ガツンッと痛々しい音が教会に響きます。そして勇者の頭からは血が。
「“化物”が人の言葉を使うとは、良いご身分だなァ? ──身の程を弁えろ。」
よろける勇者に、厳しい言葉が投げ掛けられます。
勇者は、目の前が真っ白になりそうになりながらも、必死で歯を食い縛って意識を保とうと頑張りました。
容赦のない一撃は勇者の頭に脳震盪を起こす程。
けれど、ここで気を失えば、目を覚ますまで暴力を振るわれることでしょう。
それをわかっていた勇者は、泣き出したいのを堪えて唇を噛みました。
辛くて、苦しくて、「助けて」と叫びたくても、必死に、必死に、言葉を飲み込みました。
唇に血が滲んでも、勇者は命令された通り何も言葉を口にしませんでした。
いつもなら口癖のように言う「ごめんなさい」も、堪えました。絶対に何も言いません。
背後に立つ男は、それをつまらなそうに見遣りました。
そんな暗がりに立つ男を見て、教会の男は慌ててその場を逃げ出しました。
じとりとした視線が逃げ出す男の背中をねめつけました。
「……追って殺せ。」
暗がりの男は言います。
すると、途端に勇者は走り出しました。
教会の男の背を追って駆け込んだ先にて、断末魔が一つ、辺りに響き渡りました。
これで、教会の人間はいなくなりました。
全て、片付けられてしまったのです。
新たな血潮を受けた勇者は、燃え盛る炎に囲まれながら、呆然とそこに佇んでいました。
淀んで、虚ろになる瞳が、足元の骸を静かに見詰めます。
「……、なさい……」
無人となった教会を燃やす炎の影、あの恐ろしい男の目もここなら届きません。
目の前のそれが物言わぬ骸となったことで、勇者はようやく一人きりになれたのです。
その虚ろだった目には雫、痩せこけた頬は熱を帯びていきました。
人の目がなくなったことで、ずっと押し込んでいた感情が溢れ出してしまったのです。
「……ごめんなさい……っ」
最早口癖となった謝罪は、涙と共に骸へと落ちました。
こんなことをしなくても、他に良い方法があったんじゃないのか──そんな考えが、彼の胸を締め付けます。
話せばわかりあえたかもしれないのではないか。
それが、元は自らの欲望の為に罪無き人々を陥れた悪党だとしても、ここまでしなくても良かったのではないのだろうか。
改心させればそれで済む話だったのでは。
しかし、それもももう出来ません。
自分が手を掛けた。自分が殺めてしまったのですから。
亡くなった者はもう二度と戻ってきません。
「ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……!」
自分の手で殺めたと言う事実が、勇者の心に重くのし掛かりました。
殺めてしまった相手も、その人だけではありません。
多くの、とても多くの命を、勇者は奪いました。
手を真っ赤に染めるそれが何よりも証拠。命を刈り取った証。
それが自分の意思ではなかったとしても、その命を摘み取ったのは自分なのです。
その事実が勇者の心を蝕んでいきます。
深く、暗い闇が、勇者の心をすり潰し、壊していくのです。
そんな勇者に、救いはあるのでしょうか?
いいえ。
そんなもの、罪深い彼には一生訪れることはありません──。
「──フーッ……やっとここまで、か。」
二人の姿が見えなくなった頃のこと。
疲れたとばかりに息を吐いた暗がりの男は、手に持っていたそれで肩を叩きました。
先程勇者を殴るに使っていたその道具は、エメラルドグリーンの水晶体が組み込まれたきらびやかな装飾を纏う王笏。
かつて、その国が発足する原点となった“魔王退治”にて得た秘宝。
恐ろしい魔王を討ち果たした証拠とも言える、“魔王”の角から作られたものでした。
それが今や、かの大国にて、頂点に君臨する者だけが手にすることが出来る国宝となっていたのです。
故に、それを持つこの男こそが即ち──“ハイブラシル”の王座に着く人物。
「忌々しい“蛇”め。ここまでやってもまた元通りだと?
……ッハ! 潰しがいがある遊戯盤だなァ? おい。」
男は言いました。
そして、じとりと天を睨み付けました。
「糞餓鬼が。──待っているがいい。
今はまだでもいずれ、その座から引き摺り墜としてくれる。」
男の名は“アルクレス”。
“アルクレス・B・ハイブラシル”。
ハイブラシル帝国の第一皇子から、皇帝へと登り詰めた男。
▼ep.IF 放棄された使命 終
どうか、覚えていて下さい、我が主君。
これが、いずれ世界を破滅に導く過程の一つだと言うことを。
これが、いずれ世界を破滅に導く過程の一つに過ぎないことを。
そして、これを糧にして“今”を変えるのです。
貴方様はそれを事前に知ることで、悲劇を防ぐことが出来る──回避することが出来る。
火種はまだ多くございます。ですが、貴方様に防げないものはございません。
世界の命運は、今、貴方様の手に委ねられています。