表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

渡辺時代に至るまでの民衆の心性の変化

作者: 鱈井 元衡

雑誌「天・史・人」に対する小西こにしアブーバクルの寄稿より


 2020年代の民主主義の限界の露呈、気候変動の始まりに起因する世界的混乱は、数世紀に渡って続いた民衆中心の歴史を再び権力者の歴史に巻き戻すに至った。二百年以上に渡る渡辺家による統治は、その動乱の中で起こって来たささやかなうねりでしかない。

 国家は明らかに限界に達していた。

 あの理想とされる平成の時代――もっともその実像は今日の日本と同じく殺伐としたものだったが――から令和に入り、治安は紊乱していく。

 インターネット上にも悪意がはびこっていた。

 特殊鉄鋼は、収益のためにこのような現状を放置していた。注目を引き、見られれば見られるほど、莫大な金が入って来るからである。

 国家が何のために存在しているのか、国民は忘れていた。ただ自分自身の安心を満たせれば良い生き方が肯定され、社会という概念そのものが、国民から忘れ去られていたのである。

 ただこの過酷な現実に対してうまく力のある者に取り入って乗り切ろうとする現実主義と、力への信奉だけが漠然と存在していた。

 天皇家の権威もこの頃になると地に落ちていた。

 天皇制に代わって新しく日本国家の存立基盤となりえたかもしれない徒花あだばなが、『縄文主義』である。日本の最初の文明が花開いた縄文時代は、高度な科学力を持った豊かな時代であるとこの主義にかぶれた者たちは主張した。

 ついには日本民族の優越性と異民族の劣等性を声高に主張するにいたり、しばしば移民排斥に繋がった。

『縄文主義』そのものは後世にほとんど影響を残すことなく終わったが、その信奉者の一部は政権に深い親近感を覚え、後の哲雄崇拝の形成に一役買った。


 2047年、京都本社の爆破によって特殊鉄鋼の代表取締役社長蜷川にながわ平助へいすけ(1921-2047)が死亡し、当時浜松支社に駐屯していた防衛部長渡辺哲雄は京都へ進軍を始めた。政府の権限を乗っ取る勢いで社会の様々な分野に触手を伸ばしていた特鋼は、その本丸が消え去るやいなや急速に空中分解を起こした。もしこのまま特鋼の解体と日本の無秩序化を許せば、たちまち諸外国からの侵略を招くとの危機感が哲雄にはあった。

 この際哲雄に対して義勇兵として協力を申し出る者たちが続出した。特鋼から離反し、彼らの金権主義に対し反旗を翻した義士としての哲雄に魅力を覚える者たちが大勢いたのだ。だがその大半は、愛国心というよりはむしろ明日の食い扶持のために兵士としての生活を望んだのだった。それを選べない人間は、ひたすら犠牲者となった。

 内戦が始まってからわずか十年足らずで列島は人口の三割を喪失したが、死因の大半は飢餓である。物流が止まり、インフラが停止した。特に2050年八月から続いた猛暑は無辜の民を蒸し殺したのだった。


 このような危機的状況にあっては、この世ならざるものへの期待が高まるのが人間という種の摂理だが、日本においてはそれが通用しないほど、見えざるものへの感性は減退していた。それを提供してくれる施設や団体が、ことごとく消え去っていたからである。特に仏教の檀家やキリスト教の教会の衰亡は著しいものがあった。

『渡辺時代日本の市民生活』で香野こうの氏が指摘するような、一般民衆への宗教への関心の高まりは、一部ではそうであっても決して当時の社会の主流ではない。どれだけ神に対する欲求があっても、結局指導者が無力ならば、信仰心を深める契機にはなりえない。

 結局どれだけ不本意でも、実在するかどうか怪しい神よりは五感で感じ取れる哲雄に対して国民は帰依せざるを得なかった。

 独裁者が時代を作ったのではない。民衆が独裁者を望んだのだ。さらに言えば、混乱によって生じた『指導者への期待』という空虚なくぼみの中に、たまたま哲雄がぴったり当てはまったといってもいいかもしれない。


 2052年、特鋼本社のある京都を制圧した哲雄だが、まだ日本全体の戦争を終わらせたわけではなく、東北以北には佐藤さとう鋼鉄メタルが割拠しており、戦争が終わったとは言い難い状態だった。政府は超法規的措置として哲雄に対し、交戦許可を降ろした。哲雄には日本を統一する使命があり、国内の武装勢力を根絶するのは最低限の使命だった。

 哲雄は『上級行政官』という称号を政府から送られ、国政を壟断した。元から特鋼の意向に従順だった国会は、立法機関としての正確すら捨て去り、単なる哲雄の協賛機関に堕した。

 日本国憲法に照らし合わせれば明らかにあるまじき状況だが、民衆は、哲雄の支配を受け入れるしかなかった。力への信奉だけが確固たる思想となったこの当時にあっては、哲雄をどうやって批判すればいいか、哲雄の思想を否定すればいいのか誰も明確な回答を見いだせなかったのである。だが当惑しているのは哲雄も同じだった。自分に課せられた使命の大きさに、哲雄はいまだに途方に暮れていた。

 当時の日誌では、哲雄は今後の国家運営に関して深く悩んでいたようだ。敵は哲雄が率いる部下の中にもいた。

 旧特鋼での立場を利用して、哲雄とは別の派閥を作り栄達しようとする輩がいまだにいた。そのような反乱分子をことごとく抹殺したのが広場事件であり、哲雄は将軍として即位する以前の十数年を、特鋼残滓の蒸発に費やしたのである。

 2065年、北海道全島を飢餓状態に追い詰められ、多大な餓死者を出してなお頑強に抵抗していた鋼鉄もついに哲雄の軍門に降る時が来た。

 列島を統一した渡辺哲雄はいよいよ国家の最高権力を脅かし始める。マスコミも、文化人も、政府の無力を批判し、哲雄こそが総理大臣にふさわしいとはやし立てた。その中に、かつては特鋼に飼いならされ、哲雄を非難した者がどれだけいたことか。

 哲雄はまだこの時点では日本の最高指導者となる意図はなかったようである。少なくとも当時のインタビューでも、哲雄はさらなる権力への渇望を口にしてはいない。哲雄にとっても、未知の社会体制を作り出すことは甚だリスクを伴う事だと知っていたから、極力戦争以前の秩序に戻すだけで十分だと考えていたのだろう。

 しかし、そのような見通しを許さない事件が起きた。

 大雪が降りしきる2067年十二月十四日、ついにあの、言語道断の哲雄暗殺未遂事件が起きる。戦没者遺族の慰労のため、東北を巡回中の哲雄にある男が手榴弾を投げつけるが、失敗した。加害者の名やその行く末は明らかになっていない。(2)

 哲雄は警察の無策を批判した。政府に対する信用はさらに低下し、哲雄に対する期待はますます高まった。この間にかの高坂たかさか強一きょういちが内閣総理大臣に選ばれたが、彼にはもういかなる実権もなかった。

 高坂強一は最初から周囲の要請によってやむを得ず選出されたような存在だった。彼は枯れたような容貌をしており、実年齢よりも老けて見えた。彼は若い頃から読書家として知られ博覧強記であり、学力は優秀であったが、未曽有の危機的状況を打開するには全く凡庸な男だった。

もうこの時点で、哲雄に批判的な発言をした人物が公人や私人問わず不可解な死を遂げる例が頻発していた。強一は誰にとっても無害な人間であったために哲雄から見逃されたのである。

 日本初の移民系知事となった神奈川県知事マスウード・アブー・ジャアファル(和名は熊谷くまがいいわお)のように哲雄の専横に対して毅然として反対する者もいたが、そういった存在は大多数の沈黙によって無力化されたのである。議員ですら、哲雄が次の元首だと公言してはばからない者がいるほどだった。傀儡として存続させられ続けることは、彼らからあらゆる責任感を奪ってしまった。

 ただ哲雄が民主主義の保護者として現在の大権を行使しているという大義名分を維持するために、彼らは生かさず殺さずの状態に置かれていたのである。権力機関が並行して存在しているというこの異常な状態を整理するのは哲雄しかいなかった。江戸時代以前であれば議会をそのまま朝廷のような形骸化した機関として残す余地もあっただろうが、もはや21世紀にあってそのような歴史の流れを再現する余裕などもう日本にはなかったし、その選択肢は許されなかったのである。もはやこの頃から、哲雄が日本政府の最終的処分を企図しているのは明らかだった。

 翌年、2068年三月、哲雄は初めて、日本政府に対して現政治体制への最終的な解決の用意があることを告げた。

 それから四か月間、政府と哲雄の間にいかなる駆け引きがあったか不明である。両者とも事態をどう収束させるかをめぐって、甚だ葛藤したに違いない。

 七月二十八日午後四時半、内閣総理大臣高坂強一は電話での会談で、哲雄に対して永久に内閣と国会の権限を放棄することを約束した。彼はその後周囲からの罵声に一切反応せず、くたびれたようにうなだれるだけだった。

 七月三十一日未明、参議院議員をつとめた時任ときとう翔一朗しょういちろうは自宅で、拳銃をのどに咥えて発砲し自ら命を絶った。

 八月一日正午、京都二条城で高坂強一から渡辺哲雄への権力譲渡という厳かな茶番が繰り広げられた。明治維新以後始まった両帝政時代の終焉である。国木田くにきだ報道官は、「今回の権力移譲は天皇と臣民の関係から国民を解き放った。つまり、これは民主化なのだ」と誇った。

 先の革命の賛同者は、渡辺時代が両帝政時代以上の年月を過ごすのを阻止したと誇るが、将軍を名乗っていない時期を含めれば、渡辺家による統治はゆうに二百年を越えている。これは確かに、民主主義から専制主義への反動が成功してしまった例と言わざるを得ない。

 飢餓と騒擾に苦しめられ、今日明日の命も知れない状況では、閉じた場所での政治家同士のやりあいなどささやかなものでしかない。

 世界各国は、これを無視した。どこもかしこも騒乱や異常気象への対応に追われ、遠い国の出来事にかかずらう余裕などなかったから。

 第八次中東戦争からのイスラエル崩壊やアメリカ分裂、といった大事件に比べれば、日本一国の騒動は天下の大勢にほとんど影響を与えなかった。


 翌2069年一月十三日、全在外邦人への帰国禁止令を出すと同時に、外国からの入国を首都近郊に制限した。これには、一時はあらゆる民族集団によって混濁をきたした日本をもう一度文化的に純粋な社会にしようとする思惑があった。この年にはまた、衆議院と参議院の廃止があり、国民議会という一院制の機関が成立した。政策の迅速な決定と施行が目的だった。

 新たに無から湧いて出た国家像が、怒涛の勢いで形成されていったのだ。経験したことのない無秩序を取り去って安心したいという意図もあったが、功も罪もあまりに多い。

 こうして見ると、哲雄が傍若無人に国家を私物化したとは思えない。むしろ、民衆がこう暴れたく、振舞いたかった姿を哲雄が実現したものと考えられないだろうか。

 恐らく哲雄は、民衆の期待に応えるべく全力で道化を演じたのだろう。しかし、哲雄の後継者は哲雄が不本意にも演じざるを得なかった道化を、本来のあるべき姿だと思い込んでしまった。そしてその滑稽な役柄を真に受けるように、国民にも強制してしまったのである。そこに、彼の不幸があった。

 2070年二月某日、当時の天皇を始めとする皇族が国外逃亡を行う。天皇家の日本からの消失という未曽有の大事件は、歴史家の予想に反し、驚くほど国民の注目を集めなかった。三月二十日午前四時、皇居外苑で原因不明の失火が起き、数百メートルに渡って延焼した。二十二日午後十一時二十分には明治神宮で同様の火災が起きた。当局は大して対策をとらなかった。八月、かねてから綿密な日本国憲法の改正案が施行される(3)。


 哲雄に反対した者たちが非業の死を遂げたのに比べて、彼を称揚した者がどれだけ栄達を遂げたことか。

 高坂強一の娘が哲幸の妻となり、第三代将軍を身ごもることとなり、強一が渡辺家の血筋に組み込まれる。大陸からの亡命者かたなまことの子孫にも渡辺家の男子に嫁ぐものが現れた。渡辺家はこうして、多様な民族的出自の人間を抱え込むことになり、それはしばしば外交においても働いた。

 ようやく復興の兆しが見えた頃から、先の戦争について人々はようやく冷静に考えることができた。それがあまりにも途方もない悲劇であるがゆえに、全く無意味な悲劇であると国民は考えるわけにはいかなかった。

 事実2060年代初頭から、東京都知事麻浦ナナヲを始めとして、東京に救国戦争の戦没者の追悼施設を建設する要望があった。靖国神社を取り壊して、上に新しくそのための祭殿をかぶせるべきだ、という提案すらあった。そこには、太平洋戦争での敗戦後帝政時代の不名誉な始まりをなかったことにできるという利点があった。社会の基盤となる価値観を、形成せねばならないという共通の危機感があった。

 まだかろうじて、上の世代は平成や令和初期の平和教育に浴していたから、国民の中には戦争を賛美することへの忌避感を持つ者が少なくなかった。しかし、多感な時期に内戦を経験した者にとっては、それは人生の半分だった。人生の半分が愚挙であったと言われて、素直に肯定できる人間など存在しない。

 哲幸が実質的な第二代将軍として即位した時には、もう救国戦争から三十年が経っていた。戦争を知らない人々が増え始め、日本を窮地から救った神君の活躍ばかりが取り沙汰され、犠牲になった無数の人間の悲哀はなかったことになった。

 周知のとおり、2084年に哲雄は死去し、わずかな間長男哲靖ひろやすに権力が移った後、政変で次男哲幸ひろさちがこれを奪う。(4)。哲靖を滅ぼしてすぐ、哲幸は兄をさしおいて哲雄の正統な後継者であることを名乗った。

 世襲は、ある意味で初めての試みであり、渡辺家の人間にとっても内外から様々な反応があった。権力の民主化を唱える者もいたが、現実に巨大すぎる権力をそうやすやすと無力化して一族以外の者に譲渡するなど不可能だった。

 哲雄から哲靖、哲幸への世襲に関しては、国民からも批判があったが、哲雄の絶大な権力をうかつに無関係な他者に譲り渡せるわけもなく、その親族に継承されるのは自明の理だった。総理大臣でもなく天皇でもない存在に対し、それを民主主義的ではないと批判することは筋が通らないことになった。なぜなら、将軍とは権力を執行するための機械であり、機械が権力を行使することは人間の営みではないから。

 そして、哲雄という人間の実像は忘れ去られた。彼は神格化され、生身の感情を持たない、国家の大権を敷設する装置と化した。そしてそれが人工的に作り出されたという事実も、元からあった秩序だと思われた時に、渡辺家の新生日本が完成した。


 注


(1)縄文文化振興協会に所属する数十人の職人により、遮光器土偶の姿を模し、三つのパーツを繋ぎ合わせ、全長12メートルもある大仏ならぬ大土偶が建立された。2035年に竣工が始まり、完成には四年かかった。大土偶は国家を鎮護する神像とされ、内部に秘めた霊力を起動する儀式(無論当時の宗教について資料など存在しないので、現代人の想像による創作に過ぎない)を受けた後新宿の縄文ミュージアムの広場の中に設置され、毎年五十万人以上の人間から崇敬を受けた。大土偶は戦災を避けて奥多摩に運ばれ、終戦後また東京に戻るが、縄文主義団体の解散もあって持ち主を転々とした果てに2070年代、シンガポール人のある資産家に売却され、その後の行方は不明。


(2)この男が顔から血を流しながら、官憲に集団で引き倒される写真は有名だが、この男の名前に関しては諸説ある。当時のSNSの投稿を印刷した断片からは、男の苗字は「天野」「天木」ともされるが、いずれも確証がない。この後も哲雄に対する暗殺計画を企てるものがいたが、すぐさま時の情報局長長谷川はせがわ炭治郎たんじろうに摘発された。


(3)すでに国事行為を行う天皇が不在である上、日本国の国民として生まれ、日本の法を順守すべきであるという考えを破るわけにはいかなかった哲雄には、これが法に背く暴挙だとみなされないための大義名分が必要だった。

そこで憲法施行の議決過程には代理人として、藤原氏の血を引く九条くじょう重方しげかたという人物を摂政に任じた。渡辺時代にあっても天皇制は法的に有効であり、皇位が空位であっても摂政や国外皇族を通じて天皇家にまつわる儀式が遂行され続けた。


(4)あくまでも哲靖一人が制裁の対象となり、哲靖の息子哲盛ひろもり(2052-2104)を始めとする身辺の者は不問に処された。ただし一族内部の抗争を避けるため、哲盛は新潟県に所領を与えられたうえで中央政界から遠ざけられ、『越後の渡辺氏』という意味で越辺こしべの氏を与えられ、名前も盛嗣もりつぐに改められる。こうした賜姓の例は数多く、渡辺家の特別性を国民に強調する例があった。渡辺家以外の有名家門も分家が異なる苗字を創出することが多く、これは前後の時代にない例である。

越辺盛嗣の子孫は代々軍人として将軍に仕え、将軍渡辺たくみは養子として越辺家から迎えられた。現代でもその子孫にeスポーツ選手の越辺盛豊もりとよなどがいる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ