間抜けな死神
人生に悩み、苦しみ続けて、今まさに飛び降りて死のうとしたとき。
不意に僕の目の前に一人の女性が現れた。
「自殺なさるのですか」
問に僕は不思議とあっさりと答えていた。
「そうだよ。邪魔するつもり?」
その人は首を振って答える。
「いいえ。そんなつもりはありません。だって、あなたはきっと」
そう言いながら僕の隣まで歩いてきた。
「とても苦しんだのでしょう。死を選ぶほどまでに」
何故か。
その言葉がとても温かく感じた。
けれど、今更そんな言葉を言われたところで僕の決心は揺るがない。
変な気持ちが沸いてしまう前に事を成そう。
そう思った刹那、彼女が言った。
「実は私、死神でして」
「はい?」
思わず問い返すと彼女は照れくさそうに頭をかく。
「あなたの命を回収しに来たのですが、困ったことに鎌を忘れてしまったのです」
「鎌?」
「ええ。知りませんか? ほら、ゲームとかでも良く出てくるような大鎌です。私達はあれを使って命を刈り取るんです」
僕の脳裏にどうやって使うんだ? と疑問に思うほどに巨大な鎌を持った死神の姿が浮かぶ。
あんなもんフィクションにしかないと思っていたが、死神とやらはどうやら本当にあんなものを使うらしい。
「……で、実に申し訳ないことに鎌がなければ、あなたの命を刈り取ることは出来ないのです」
「ここ、十四階だよ? ここから飛び降りても死ねないの?」
僕の問いに死神は頷く。
「はい。残念ながら。それも死ねないだけでなく、いわゆる全身麻痺という状態になります。二回目を試せずに何十年もかけて死ぬ羽目になります」
「……意識はあるの?」
「ええ。残念ながら」
死ぬのは怖くなかった。
だが、何十年も動けないまま死に至るまでずっと生き続けるのは不思議と怖かった。
「それじゃ、鎌を取ってきてよ」
僕がそう言うと死神は頭を掻きながら笑う。
「すみませんね。本当に。それじゃ、ちょっと待っててください」
そう答えると同時に死神はすっと消えた。
さて、ここからが問題だった。
一時間経っても、二時間経っても、それどころか日が暮れても死神は戻ってこない。
もういっそ待たずに飛び降りてしまおうかとも思ったが、一度まざまざと思い浮かべさせられた末路を思うと二の足を踏んでしまう。
やがて、僕はその日自殺することを諦めて、死神が戻って来ることを待ちながら生きていくことにした。
辛く苦しい日々から逃げるため死を選ぼうとしたのだ。
生が楽しいはずもなし。
ただ、下手に死のうとしてもろくな事にならないことだけは分かっていた。
そんな諦めの気持ちが僕の命を繋ぎ続け、そして。
いつしか僕の人生は上向いていた。
死ぬことを考えたりする暇もないほどに充実していた。
彼女の存在さえ忘れてしまうほどに。
だからこそ。
「すいやせん、お待たせしましたぁ」
なんて、笑顔で大鎌を持って現れた彼女に僕は思わず絶叫していた。
「いや、ふざけんな! 今更戻って来るなよ!」
必死にそう叫ぶ僕に対して彼女は「へ?」と間の抜けた声をあげるとじっと僕を見つめて言った。
「なるほど。生きるのが楽しくなっちゃったんですか」
そう言って残酷なほどに深い笑みを浮かべると彼女は大鎌を振りかぶり、そして。
「えいっ」
と、一言かけて柄の部分で僕の頭を軽く小突いた。
「良かったじゃないですかぁ。楽しくなって」
僕は呆然としたまま尋ねる。
「殺さないのか」
「殺してほしいなら殺しますけれど」
彼女の答えに僕は高速で首を振る。
首が取れそうなくらいな勢いで。
「私も神様の端くれなもんですから、わざわざ意地悪なことしませんよ」
そう言ってにへらと笑って僕へ手を振った。
「そんじゃ、また来ます。えっと、多分七十年後くらいに」
そんな風に笑って彼女は消えた。
そして、七十年経ち。
僕は家族に看取られながら安らかに逝こうとしている。
妻や子供、友人たちの泣き声は既に聞こえない。
目だってもう開けることも出来やしないし、口を開く元気さえもない。
そもそも乾ききった口では声を出すことも出来ないだろう。
それでも、僕は彼女が来ることを知っていたし、きっとその姿が見えるだろうと確信さえあった。
「どうも」
あの日と同じく彼女はやって来た。
やっぱり大鎌は持っていない。
「あの日、死ななくて良かったですね」
そう言って笑うと僕に向かって手を差し出す。
「それじゃ、逝きましょうか」
その手を掴みながら僕は心で彼女に問う。
『大鎌はどうしたんだい』
「あんなもんなくても命は刈り取れますよ。仮にも神様なんだから」
『言っていることが違う』
「そりゃ、あの時嘘をつかなきゃ、あなた自殺してましたからね。こんなに楽しくて幸せな人生が待っているのに」
その答えに僕は呆れ、笑い、そして涙を落して。
照れ隠しに嘯いた。
『神様のくせに嘘をついたんだな』
彼女は微笑んで言った。
「そりゃ、神様は神様でも悪い神様ですからね。私は」
掴んだ手のひらは心地良いほどに温かい。
「それじゃ、今度こそ行きましょうか」
『どこへ?』
「天国ですよ」
彼女の言葉と共に。
僕は心穏やかなまま静かにこの世を去った。