第25話 血と泥濘
……なんだ、このひでえ臭いは。
俺は滑る泥沼のような粘液を掻き分けて、必死に息を吸い込む。腐臭を放つコールタールのなかに落とされたみたいだ。なにも見えず、なにも聞こえん。感じるのはただ、すさまじい痛みと臭気だけ。
重たいなにかに押し潰され、息もできない。わけもわからず身動きも取れず、無様にもがく惨めさ。
ああ、最低の気分だ。正確に言えば、俺の人生が最低だったころに戻ったような気分だ。
この臭い、どっかで嗅いだことが……。
「……げ、ぽぶッ」
目の前にあるなにかを押しのけると、それは揺らいで湿った音を立てた。真っ暗だった視界が、赤黒い靄が晴れてゆくようにゆっくりと広がってゆく。
ああ。そうだ。前世で何度も経験した、これは。
“血の池地獄”ってやつだ。
左腕はひしゃげて折れ曲がり、木でできた蛇のオモチャみたいになっちまっている。痛みは限界を通り越して、焼け尽きそうな熱に感じる。右手には、赤黒く染まった短銃身リボルバー。親指でシリンダーを開くと、五発の空薬莢が零れ落ちた。
なるほどな。それでか。俺にのしかかっていた男の顔は、穴だらけで歪んでいる。俺はこいつの血と脳漿を浴びて押し潰されながらもがいてたわけだ。
まったくもって、最低だ。
ベタつく手を男の服で拭って、リボルバーに装弾する。前世じゃ替えのの挿弾器や弾倉を持たない主義だったんだが、それはこんな四十だ五十だってバカげた数の敵を相手に大立ち回りをする趣味はなかったからだ。
いまも、ないんだがな。
“滅せよ”
片手でなんとか弾薬を込めると、ふらつく身体で起き上がる。もう体力も気力もねえし、血も足りなきゃ頭も回らねえ。おまけに片腕もグシャグシャだ。
それでも敵は残ってる。その上“我らが神”は哀れな僕に“神敵を滅せよ”と繰り返し仰せだ。
「……無理だって」
チカチカと点滅しているのは、“所有ポイント”と“LV4の必要ポイント”だ。
いい加減にしてくれ。こんな死にかけの片腕で、これ以上の銃なんていらねえよ。500グラムちょいしかないM36だって放り出したくなってんのに、なにさせようってんだ。
いきなり膝がカクンと折れて崩れ落ち、危うく顔面から地ベタに突っ込むところだった。しこたま膝を打って仰け反った頭の上を、スレスレで鏃が掠める。
運がいいのか悪いのか、だな。
感覚器というより死にかけの獣の勘で、俺は残りの敵が迫るのを感じた。音もなく静かに、包囲網を狭めてきている。
これは、死ぬな。残りの敵は、十か二十か。いくつだろうと同じことだ。もう抵抗なんてできやしねえ。
すまねえな、シェル。“にーたん”は、ここでくたばることになりそうだ。
“滅せよ”
「うるせえって! こんな腕でどう……痛ててててッ!」
折れた左腕が軋んで、メキメキと音を立てる。悲鳴を上げて転げ回りたいところだが、いまそんなことをしたら周囲の敵から狙い撃ちにされる。
歯を食いしばっても悲鳴が漏れる。無事な右腕に噛みついて、必死に唸り声を押し殺す。涙目で見下ろした俺の左腕が、ひしゃげた形から真っ直ぐに戻り始めていた。
……ウソだろ、おい……。
“神の加護”か“神の御業”か“神の恩恵”しらんが、もうチョイやりようがあるんじゃねえのか⁉
真っ直ぐになった左腕から、焦げ臭い匂いが立ちのぼり始める。匂いだけじゃねえ。うっすら灰色の煙が立っている。これが治癒魔法なら魔力光が瞬くらしいが、俺の腕にまとわりついているのは煤けたような煙でしかない。
“滅せよ”
神の声が、俺を苛む。動けと、殺せと責め立てる。腕は無理矢理に修復された。喪われた血は戻らんが、死ぬにはまだ、早い。
名前:バレット
天恵職:銃器使いLV3
所有ポイント:1985P(LV4の必要ポイント:128P)
天恵技能:忍び寄り、押さえ込み、雲隠れ
天恵神器1:隠し持つための銃
所有弾薬:16(弾薬購入ポイント:1P/一発)
天恵神器2:粉砕するための銃
所有弾薬:7(弾薬購入ポイント:10P/一発)
天恵神器3:掃き清めるための銃
所有弾薬:20(弾薬購入ポイント:5P/一発)
天恵神託:神敵を滅せよ
どう考えても無理だな。これ以上の銃は現れたところで扱えん。散弾実包を三十発追加。端数の35ポイントで、リボルバーの弾薬を購入する。
38スペシャルが46発に、鹿用大粒散弾が50発、お守りの50AEが7発あれば、残りの敵も殺せるだろ。その後に俺が生き残れるかは、神のみぞ知るってやつだ。
それが、どこぞの死を望む神なら、どのみちくたばるだけの話だ。
思わず仰け反り笑い声を上げた俺の頭を掠めて、矢が立て続けに飛んでくる。こちらの動きに合わせて時間差をつけているあたり、どこかに殲滅用地点に誘導しているんだろう。たしかに上手いが、いっぺん経験したら獣でも同じ手は喰わねえよ。
あいつら、俺が指揮官を殺したことで統率力を喪ってるな。
「出てこい! スティグマッ!」
わざわざ声を上げるのは、俺を狩り出す勢子だな。その声の反対側に、射手がいるわけだ。
小さな遮蔽に伏せると自動式散弾銃を取り出し、目見当で声の反対側を掃射する。散弾を5発。4発目の位置で手応えがあった。声も出さず動きも見せないまま、小さく息を呑むような気配。
その場所に残弾を撃ち込む。計4発を喰らった見えない敵が、倒れながら姿を現す。
隠蔽魔法か。後衛の要になるはずの魔導師が、なぜ距離を詰めてきた?
俺が指揮官を殺したことで、感情に駆られて突っ込んできた? いや、ここまで統制された集団でそれは考えにくい。指揮権が下位の者に引き継がれたことで配置と連携に問題が出始めているのか。
「これはチャンスか、死兵化する前兆か……」
そのどちらでもない、という可能性が出てきた。ぞわぞわと背筋を撫でる冷えた感覚。なんだ、これは。
「“強制蘇生”!」
遠くで声が聞こえた。
ぐちゃびちゃと湿った音を立てて、転がっていた敵の死体が動き始める。俺が殺した指揮官も、いま殺したばかりの魔導師も、弾けた腹や砕けた頭からボトボトと肉片をこぼしながらゆっくりと立ちあがる。
その胸に、青白く光る首飾りが見えた。そうだ。最初からあった違和感。こいつらだけは、死んだ後も“ガンスリンガーの神”に召されなかった。怪しげな光を見る限り、それは昇天を妨げる呪符のようななにかだ。
「……どうかしてるぜ」
味方の死体を蘇らせて戦わせる? それが邪神と戦おうって連中がやることかよ。
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