怨影決戦(終)
――地の底が裂ける音がした。
石畳が砕け、拝殿が悲鳴を上げて軋む。柱が折れ、屋根瓦が降り注ぎ、境内は一瞬で戦場の色に染まった。
地割れの隙間から黒い霧が噴き出すたび、皮膚の内側まで冷やされる。まるで心臓の鼓動すら止められそうな寒気だった。
そして、その中心から――“そいつ”が姿を現した。
漆黒の衣に包まれた、ひどく人間に近い形。
だがあまりに白すぎる肌、血に濡れたような深紅の瞳、夜そのものを束ねたような長い髪。揺れるたびに周囲の闇を吸い込み、飲み込んでいく。
人間に近いのに、人間から最も遠い存在。まさに、妖の王――。
ただ立っているだけで空気が凍りつく。視線を交わした瞬間、膝が勝手に折れそうになる。
どっちにしろ、間違いなく“とんでもねぇ化け物”が、目の前にいる。
『……眠りは長かった』
低い声が響く。耳ではない。骨の奥、魂の芯を直接叩き割るような声。
喉が震える。呼吸を忘れる。
――怖え。怖えに決まってる。けど、逃げるなんざ論外だ。
『我を呼んだのは……貴様か』
『はい、妖王様』
声の主――くろはが、妖王の前で膝をついていた。
その姿は従順で、まるで忠犬のようだ。だが俺には、震えているようにも見えた。
妖王の紅い瞳がゆっくりと境内を舐める。
ただ視線を浴びただけで、影がざわめき、魂が削がれる感覚に襲われる。
「……っ」
奥歯を噛みしめ、バットを握る手に力を込める。
その時――
「おいおい、どうなってんだこれ!?」
拝殿の屋根を蹴り、眞彦が飛び込んできた。
続いて尊一、伊吹、大嗣も境内に現れる。息は乱れ、衣服は泥と血に汚れていたが、誰の目も決して折れていなかった。
「まぁ、一言で言えば最悪の展開だな」
「何なんだいこいつは、妖? 人間?」
俺たちが言葉を交わすのも束の間、妖王は――笑った。
『なるほど。人と妖が寄り集い、我に抗おうというか。……面白い。ならば――絶望を知れ』
その声が響いた瞬間、境内全体が悲鳴を上げた。
結界の残骸が砕け散り、地面からは黒い影が噴き出す。夜空すら塗り潰す闇に、俺たちは完全に呑まれた。
「っ、伊吹、大嗣っ!! 速攻で人妖町のみんなを避難させろ。多分やばいっ!!」
「わ、分かったの!」
「ちっ、命令すんな!」
大嗣は文句を吐きながらも、伊吹と共に町の人々の避難へと走っていった。
「それで俺たちはこの青白顔面の相手をするって訳だな」
「僕一人でも十分だけど……まぁ、力を貸してあげようかな」
「おう……」
この癖の強い当主たちと、目の前の怪物と――やるしかねぇ。
「一二三、私も加勢します!」
やよいが叫ぶ。
「やよいは太一たちを頼む! こっちは俺たちでやる!」
自分でも驚くほど強い声が出た。
背中を見せられねぇ。ここで折れるわけにはいかねぇんだ。
妖王がゆっくりと片手を掲げた。
ただそれだけで、黒い影が渦を巻き、地を裂き、空を飲み込もうとする。
「くそっ――行くぞ!」
俺はバットを肩に構え、地面を蹴った。
横を駆け抜けるのは眞彦。脇差を抜き、鋭い斬撃を妖王へ叩き込む。
銃声が夜を裂く。尊一のライフル弾が妖王の胸を正確に撃ち抜く。
清海は大鉈を両手で振りかぶり、正面から突撃した。
四方から同時に襲いかかる。
だが――
『遅い』
その一言と同時に、俺たちの攻撃はすべて掻き消された。
眞彦の斬撃は闇の幕に弾かれ、尊一の弾丸は空気に溶けて消える。
清海の鉈でさえ、触れる前に見えない壁に阻まれて止まった。
「なっ……!」
次の瞬間、反撃が来た。
妖王が腕を薙ぐ。それだけで黒い奔流が津波のように押し寄せる。
「ぐっ……!」
俺は咄嗟にバットを振るい、影を弾き飛ばす。だが数が多すぎる。
肩に、脇腹に、鋭い痛みが走り、視界が赤に滲んだ。
隣では眞彦が必死に踏み込んでいる。
「はぁっ、邪魔なんだよ!」
斬撃がいくつも走るが、妖王の傷は一瞬で再生してしまう。
尊一は歯を食いしばり、連射を続けていた。
「効けよ……っ!」
だが妖王は、微動だにしない。
清海は鉈を構え直し、渾身の力で突撃した。
だが妖王が片手を向けただけで、影の杭が地面から突き上がり、清海の足を絡め取る。
「しまっ――!」
呻き声と共に清海の体が宙を舞い、石畳に叩きつけられた。
鈍い音が響き、清海の息が詰まる。
「清海っ!」
俺の声は震えていた。
――強すぎる。
今まで相手してきたどんな妖や退魔士とも格が違う。
あの瑞鳳ですら、この圧倒的な力には遠く及ばない。
―――――それでも。
「負けるつもりはないんだよ! 神打っ!!」
俺は手を合わせ、神打の構えを取った。
全身の血が逆流するような熱さ。
これで一矢報いる――そう信じた。
『ほぅ、今世でも神打を使う退魔士がいたとはな……面白い』
妖王は徐ろに手を合わせた。
その仕草は、俺とまるで同じ。
『喜ぶが良いぞ。この俺にこれを使わせるのだからな』
次の瞬間、妖王の周囲から妖力が噴き出した。
重圧に足が軋む。呼吸が止まり、肺が凍る。
『消え失せろ――妖印っ!!』
その言葉を最後に、視界が闇で塗り潰された。
何も見えない。
何も聞こえない。
ただ、なすすべなく俺は意識がなくなった――。