怨影決戦⑤
東神社の境内を縫うように描かれた陣は、灯籠の明かりを呑み込み、月光さえ黒に変えていた。
三重の円。最外には四家の古印が淡く浮かび、内側は“門”を象る方形、その奥には四つの楔が釘のように打ち込まれている。
中心で、太一が宙に横たわっていた。胸に結ばれた黒糸が鼓動に合わせて脈打ち、陣へ淡い光を垂らす。
『いい子だね。すぐ終わるよ』
くろはは指先で鈴を転がし、低く唄う。
声は風のように軽やかなのに、触れたところから体温が奪われていく。
数男は地に伏したまま、影の杭に背を縫いつけられ、必死に身を起こそうとした。
「……やめい……太一から……離れい……!」
『動かないで。老人の骨は折れやすいって聞いたよ?』
唇に薄い笑みを刻むくろはの横で、かすみが血を滲ませながらも膝で這い寄ろうとする。
「はぁ……っ、太一、さん……」
『律儀だね。護衛は護るもの――でも今日は違う。彼は“鍵”。あなたはその“鍵穴”に触れる邪魔者だ』
次の瞬間、陣の第二円にひびが走った。
氷が割れるような音と共に、古文の線が白く砕ける。
――地の底で、何かが身じろぎする。
音ではない。胸骨の裏を素手で撫でられるような冷たい圧が、境内全員を貫いた。
(……来る)
数男は震える指で印を結ぶ。だが影の糸が指を絡め、関節を逆へ折ろうとした。
「ぐ、ぅ……!」
『無茶しないの。もう祈りは届かない』
最奥の楔に刻まれた“封”の字が、一画ずつ消えていく。
―――――
『門は半ば開いた。あとは王の息が触れれば、勝手に開く』
「……黙れ」
一二三は短く吐き捨てた。
「たかし、ここは任せる。やよい――行くぞ」
「はい!」
たかしは無言で一歩進み出て、さざなみの前に立ちはだかる。
『行かせる気か? 妖王様の復活を邪魔していいのか?』
「……あの方は復活させぬ」
拳が静かに構えに入る。
次の瞬間、二人の間で妖力がぶつかり、閃光が路地を裂いた。
一二三はその横を抜け、東神社へと駆ける。
(持ってろよ、太一……!)
―――――
第二円はすでに消え、残るは最後の楔のみ。
太一の胸から小さな白い霧が立ち、陣へ吸い込まれて地下へ落ちていく。
抜け落ちた“何か”に、境内の空気が一段と冷えた。
『……目覚めなさい』
くろはの声が沈む。
地の底から扉が軋むような反響が広がる。耳ではなく、骨で聞く音。
かすみの視界がじわ、と闇に滲む。
見てはいけない――そう思った時には遅かった。
拝殿の影の奥、そこに“目”があった。
形を持たぬ黒の中に、ただ在る“視線”。
ひと撫でされただけで、灯りが一斉に萎む。
「見るな……っ!」
数男が叫ぶ。声は枯れていた。
かすみは歯を食いしばり、肘で身体を起こす。
「太一さん……戻って……!」
その声に、宙の太一の指がぴくりと震えた。
その微かな反応に、くろはの眉がわずかに動く。
『優秀だね。鍵として』
指を陣へ滑らせ――その動きが止められた。
「そこで終いだ、この野郎っ!」
屋根瓦を蹴る音。風の尾。
一二三が飛び込み、護符が白い稲光のように弾ける。
護符は最後の楔の上、消えかけた“封”に重なり、強い光を放った。
『!?』
陣が逆回転を始める。
流れは“開”から“返”へ。方形の枠が収縮し、地下の扉が押し戻されていく。
『この護符……東野千里のものか!』
くろはが毒づき、袖から影の刃を抜く。
一二三はバットを拾い、斜めに構えた。
「勝手に人の家に上がり込むんじゃねぇ!」
刃とバットがぶつかり、金属の悲鳴が夜を裂く。
影は鎌に、槍に、鞭に変じる。だが一二三は最短の軌道で打ち返し続ける。
陣の中心では、護符の光がひび割れた封印文字を“書き直して”いた。
「かすみ! 太一を頼む!」
「はいっ!」
かすみは震える手で太一に駆け寄る。
黒糸を刀の背で一つひとつ断つ。
糸は焼ける匂いを上げ、黒い霧になって消えた。
『離すな!』
くろはが袖を払うと、境内の影が一斉に立ち上がり、かすみの足首に噛みつく。
一二三が横蹴りで弾き飛ばす――その刹那。
――地下から、息が漏れた。
声ではない。
だが意味を持つ“吐息”が、鼓膜の裏へ直接触れる。
――飢エ。
その一語で境内の温度がさらに落ちた。
灯籠の火が細り、葉の裏で鳥が体を丸めて動かなくなる。
「……間に合ってねぇのか」
一二三の視界の端で護符が軋む。
門は押し戻されている。だが縁から、細い指のような影が覗いていた。
『王は届いた。半歩、こちら側へ。もう引き返せない』
くろはの瞳が愉悦で濡れる。
「悪いが、鍵は鍵穴から抜いて返してもらう」
やよいが境内へ飛び込む。荒い息を吐きながらも瞳は澄んでいる。
「遅くなりました!」
「やよいっ! ヘルプっっ!!」
「はい!」
やよいが膝をつき、掌を陣へ向けて一二三をサポートした。
『……しつこいね』
くろはの声が沈む。
袖の内から黒い釘を三本、指の隙間に挟む。
『では、鍵を固定しよう』
投擲――。
黒釘が一直線に太一の胸へ飛ぶ。
一二三が先に動き、二本を叩き落とす。だが一本が抜けた。
紙が舞う。
かすみが身を投げ出し、肩で釘を受けた。肉に沈みかけた釘は、刀の鞘で辛うじて止まる。
「かすみ!」
「……だい、じょうぶ……です」
かすみは痛みに滲む声で笑おうとする。
その瞬間、くろはの足元で陣が悲鳴を上げた。
護符の“返し”が、門の蝶番を押し戻していく。
『……王よ』
くろはがささやく。
二度目の吐息が届く。今度は言葉に似て――。
――名ヲ。
境内の誰もが喉で同じ動きをした。
名を呼ばれた気がして、答えそうになる。
数男が頬を叩き、血の味で意識を繋ぎ止めた。
「名乗るな! 呼ぶな! 聞くな!!」
一二三が叫び、護符を押し込む。
陣の全周が白く灼け、夜空に輪を描く。
光が弾け、“何者”かが門の内へ引っ込んだ。
地が沈黙する。
風が一拍遅れて吹き抜け、灯籠の火がわずかに持ち直した。
『……やるじゃないさ』
くろははまだ笑んでいた。
袖を払うと、今度はゆっくりと後ずさる。
『でも、もう遅い』
その言葉と同時に、地面が割れた。
『妖王様の復活の時よ!』