第二十三話 もう戻らない
こじんまりした宿屋の一室に気だるげな余韻が残っている。
上流階級向けの高級宿は密会に最適だ。
夕暮れを経て夜を迎えたこの時間、宿屋に艶めいた音楽が鳴らない部屋はないだろう。
「なぁ」
裸で横たわる女の頭を撫でながらロレンスは紫煙を吐き出した。
煙草の苦味が舌の奥で心地よく痺れている。
その心地よさと、今日でお別れしなければならないのだ。
「どうされましたか、閣下?」
「もうこの関係は終わりにしよう」
女が息を呑んだ。
散々求めた小さな唇が力なく震える。
「どうしてか、聞いてもよろしいでしょうか」
「決まっているだろう。ユフィリアのことだ」
ロレンスは灰皿に煙草を押し付けた。
「俺はもう彼女を裏切るような真似はしたくない。君には、悪いことをしたと思っている」
「……いえ、分かりきっていたことですから」
後輩騎士は戦争で荒んだロレンスの心と身体を癒してくれた。
侯爵である立場も忘れ、後輩騎士のそばだけは血が好きな自分で居ることが出来た。
ユフィリアの前では出来ないことだ。彼女は暴力を忌避していたから。
だがそれも、もう終わりだ。
今まで散々ユフィリアを放置してきた自分が言えることではない。
思い返せばひどい言葉を散々投げつけてきた。
それでも、やり直せるならやり直したい。
ーーあれは俺の女だ。
「……っ」
後輩騎士はロレンスの体に縋り付いた。
おい、と呼びかける。わかっています、と彼女は言った。
涙で濡れた上目遣いの瞳が、ロレンスの心を射抜く。
「ですがお願いです。今夜だけ……お情けを頂けませんか?」
はらりとはだけた布団の内側には豊満な胸が隠れていた。
胸の谷間に視線を吸い寄せられたロレンスはごくりと唾を飲む。
だめだとわかっている。
それでも理性は本能に勝てず、右手を布団に伸ばした。
「最後に一度だけだ」
「ありがとうございます、閣下」
後輩騎士は花のように笑う。
二人の姿が重なる。
雨音が艶めいた声を覆い隠し、ロレンスは致命的な亀裂の音に気付けなかった。
◆◇◆◇
ロレンスが侯爵家の門扉を潜ったのは真夜中のことだった。
泣き縋る後輩騎士を引き剥がし、馬を使用人に預けて玄関をくぐる。
「おかえりなさいませ、旦那さま」
「あぁ、ただいま」
玄関には執事が出迎えに立っていた。
真夜中まで自分を迎えてくれるのはいつも彼と妻だ。
だが、妻には先に休んでくれと伝えているはずだった。
「ユフィリアはもう寝ているか?」
「いえ」
執事は気遣わしげに首を横に振った。
「奥様は応接室でお待ちです」
「なに?」
ロレンスは口の端を吊りあげた。
「まだ起きていたのか。俺のために?」
ーー愛おしい、と思う。
自分のためにそこまでしてくれる女がいることに、最近になるまで気付かなかったのだから自分は大馬鹿者だ。けれども、まだ二人はやり直せる。もう三十を超えてしまったが、ここから夫婦でやり直して共に生きていこう。
(以前なら鬱陶しいとしか思わなかったが)
こんな風に気持ちが変わったのはいつからだろう。
いや分かってる。母のせいで彼女を失いかけた時だ。
あの時、明確に、ロレンスはユフィリアを失いたくないと自覚した。
(仕方ない。今夜は相手してやるか)
こんな深夜まで待っていたということは、そういうことだ。
ロレンスは外套を執事に預けて応接室に向かった。
応接室の扉からは灯りが漏れている。
そっと扉を開けると、ユフィリアはこちらに背を向けて座っていた。
「ただいま、ユフィリア」
「おかえりなさい」
ユフィリアは振り向いた。
儚げなかんばせには笑みが浮かんでいる。
雨に濡れた花のような美しさにロレンスは思わず彼女の肩に手を回した。
「どうした、何か話でもあるのか?」
「えぇ。そうよ」
「そうなのか?」
ロレンスはわずかに警戒する。
子供が欲しい、と言われると想ったのだ。
(面倒だが……まぁ、そろそろいいか?)
ユフィリアとの関係も見直すべきだと想っていた頃あいだ。
周りから後継者のことについてうだうだと言われるのも煩わしい。
子育てはすべて使用人やユフィリアに任せ、自分は彼女を抱くだけでその煩わしさから解放されるなら子供を作ってもいいかもしれない。数秒で考えをまとめたロレンスは頷いた。
「そうか。なんでも言ってくれ。お前の頼みならなんでもきく」
「……なんでも?」
「あぁ、お前が以前から頼んでいたことでも、な」
案に子供を作ってもいいぞと答える。
ユフィリアは花のように微笑んで「ほんとっ?」と身を乗り出す。
そして自分が彼女を抱きしめ、二人は夫婦仲睦まじい夜を過ごすのだーー
「じゃあ、遠慮なく言わせてもらうわね」
ユフィリアは真顔で言った。
「離婚しましょう、あなた」
ロレンスは固まった。
「…………………………は?」




