その前夜
残酷な描写があります。ご注意ください。
――ひいいううう……ごおおおお……
――がた がたがた……ぎしぎし……
――ばらばらばらばら……
暗闇の中、嵐のたてる音がひときわ大きく響きわたる。エアコンのタイマーは一時間ほど前にきれた。寝苦しい夜。
志藤竹久はうなされていた。
漆黒の闇の底、すすり泣きが聞こえる。
「ああ、いやだ。俺はいやだ……」
「お許しを。お許しをおおお……」
「しくじった。……くそ、しくじっちまった」
「せめて……せめて、この子だけでも」
日本語ではない、少なくとも日本語だけではない、多くの声。声。
「畜生、最っ低なバッド・トリップだぜ。んだよ、こりゃあ」
「主よ。主よ、これが我らに下される裁きとおっしゃられるのですか……」
「信じない、わたしは信じない……」
「やめてくれ、助けてくれ……お願いだ……」
「アンナ、おいアンナ……助けてくれよ、悪夢から抜け出せねえ」
「ああ、こんなことなら……」
「Nの……」
何かが志藤の耳を打った。意識が絶望と悔恨とに満ちた暗黒から浮き上がり始めるのがわかる。あまたの声が遠ざかり、次第に聞こえなくなっていく。
「……悪夢はいつか覚める。覚めるが故に夢なのだから。
だが、永遠に覚めぬ夢、それこそが真の悪夢である。
神は目覚めることなく、故に永劫の夢を見る……」
「……逃げられはせぬ……決して」
そして志藤は目を覚ました。部屋の中は夢の続きのように暗闇に満ち、風の音、雨戸を殴り続ける雨の音、
「ノオ、ノオ、ジャーック、ノオ」
悲鳴が鳴り響いていた。
「うわ、やばい」
志藤はベッドサイドのライトに手を伸ばし、明かりをつけた。
「勘弁してくれよ、頼むよ。やっぱりやばいことになるのかよ。最悪の事態か、これ」
「ああ、もう。台風なんて勘弁してほしいわ」
ウイスキーグラスを手に小松栄子は呟いた。
「うるそうてうるそうて、寝る気になんかなられへん」
そうやって夜更かしをするから朝に起きられなくなるのだが。
ふと、外の台風の音に混じって、廊下の方からドアの開く音が聞こえたような気がした。時計を見ると午前一時頃。女の声が何かを言っているようだ。嵐の音が邪魔をして何を言っているのかまではわからないが「ナスティ」とか「ダーティ」とか「バス」とかが聞こえたような気がする。
なんだ、今日、来た外人さんか。そりゃあ、あの後、ずっと寝てたんなら汚いわねえ。
安堵して栄子は飲み続けた。アルコールには強い方だ。
手の中のグラスを転がせば、グラスの中でアイスキューブが小気味よい音を奏でる。
そうするうちに部屋の時計がカタリと音をたてて二時を示した。さすがに部屋へと持ち込んだ氷がほとんど残っていない。酔いがほどほどにまわって心地よくなってきたこともあり、ボトルのキャップをしめて栄子はぱたりとベッドに横になった。
「寝よ、っと」
部屋の明かりをグローランプだけにしてまどろみの中をさまよい始めた矢先――突然響いた悲鳴がそれを粉みじんに打ち砕いた。
「何なん、いったい」
やむをえずベッドから身を起こし明かりをつける。
「ノオ、ノオ、ジャーック、ノオ」
外人さんか。何があったんやろう。病気やろうか。
「しようがあらへんわねえ……ったく」
ついうっかりかけたまま寝ていた眼鏡をかけなおし、栄子は二号室のドアを開けた。
甘葛政彦は女性の悲鳴を聞いて跳ね起きた。午前二時。異常事態に即座に反応するよう訓練されてしまった自分に苦笑いしかない。
悲鳴はまだ続いている。甘葛の部屋の前だ。あのアメリカ人の女性だろう。何があった。用心しながら部屋のドアを開けて外を見る。
五号室の開かれたドアの前で、あのアメリカ人女性が立ちすくんでいるのが見えた。五号室内からの明かりに照らし出されてシルエットになっている。
――ごおおおおお……ひいいいいいいおううううううう……
一号室にいる時より嵐の音がひどい。風が甘葛の顔先をかすめていった。五号室内の窓が開いているのか、雨戸を閉めたのではなかったのか、まさか窓が破れた……叫び続けている女性のわきから甘葛は室内をのぞき込んだ。
部屋の中では、ベッドの上で人が死んでいた。アメリカ人の男性。口から吐瀉物と血を吐き、胸をかきむしるようにしながら苦悶の表情著しく、不自然なまでに身をよじりながら動かなくなっている。
甘葛の胸に苦いものが一杯になった。結局、このようなところまで来ても事件は起きるのだ。
窓が開けられているせいで、すさまじい風雨にカーテンがちぎれそうなほどはためいている。この状況で外からの侵入者。あるいは誰かが外へ逃げたのか。正気の沙汰ではないが、人殺しに正気を求めても仕方がないのかもしれない。無論、下手くそな偽装工作の方が可能性は高いだろう。
甘葛の背後から他の部屋のドアも開く音がした。悲鳴を聞きつけたのだろう。階下からも二階へと上がってくる音がする。
「どうしました、何が……うっ」
「見てのとおりです、志藤さん。後で少しお話をうかがうことになるかもしれません」
甘葛はふりかえって言った。廊下の常夜灯の下、志藤の顔色は妙に青ざめて見えた。まあ、死体なんて見てしまったら、普通、こんなものか。
その志藤の後ろから、栄子、嶋崎オーナーとその義理の息子である森村哲がやって来るのが見えた。
「嶋崎さん、ちょうどよかった。この女性を頼みます。ここから連れ出して落ち着かせてください。あと、この部屋には入らないようにお願いします。ああ、小松さん、お医者様でいらっしゃいますね。申し訳ありませんが、少々、ご協力ください」
「……何があったん。というか、何故、甘葛さんが仕切ってらっしゃるん」
「どうも、この部屋のお客さんがおなくなりにあってしまったようなんですよ」
甘葛はため息をついて、身分証明になるバッヂを取り出した。
「すみません、所轄違いではあるんですが警視庁の警察官なものですから。甘葛政彦巡査部長と申します。ご協力、いただけますね」
休暇だったはずなのに、と甘葛は思った。例の事件と関連付けて自分のことを思い出す人間もいるかもしれない、場合によっては厄介な話になるか、と嫌な気持ちになる。
嶋崎と森村がアメリカ人女性をなだめながら連れ去るのを見送って、甘葛は一号室に戻り、カバンから鑑識用手袋とアームカバー、帽子とカメラを取り出した。この島に来た時には、何故、こんなものを持ってきてしまったんだろう、と思ったが。まさか、役に立とうとは。
甘葛が五号室の前に戻ってくると、もう一人、佐藤千枝が廊下に出てきていた。
「あの……何かあったんでしょうか」
「ここの部屋の、アメリカ人の男の人がなくなったんよ」
「え……どうして……」
「さあ、それは、今から調べてみんと。ああ、見ん方がいいよ、あまり気持ちのええもんやないし」
「そうですね。やめた方がいいでしょう。佐藤さん、すみませんが後で少しお話を聞かせてください。志藤さん、佐藤さんと一緒に下の大広間で待っていてもらえますか。あと、嶋崎さんか森村さんに警察へと電話するように伝えてください」
甘葛は髪の毛を落とさないよう帽子をかぶり、アームカバーと手袋をつけながら言った。
「小松さん、少し、そのままで待っていてもらえますか」
甘葛はカメラで念入りに室内の様子を撮影した。
クリーム色の壁紙、吹き込む風雨と暴れるカーテン、部屋の奥の方にはライティングデスクと花瓶、目覚まし時計、トランジスターラジオ、壁には三本の懐中電灯、豪華なドレスに身を包んだ栗色の髪の貴婦人を描いた肖像画、三つ並んだベッド、その上の死体。
五号室の中は吹き込んでいる雨と風とでぐしゃぐしゃになっていた。
「本当は現場をそのまま保存したいんだが、このままは無理だろうな」
用心しながら、甘葛は雨戸と窓とを閉めた。もし、この窓から出入りした誰かがいたとしても、その痕跡は嵐によってほぼ拭い去られていただろう。そう思えるくらい水浸しになっていた。
「じゃあ、小松さん。申し訳ありませんがお願いします」
甘葛は鑑識用手袋を差し出して頭を下げた。
「室内の床はほぼ水浸しみたいやねえ」
甘葛は何やらぶつぶつ文句を言っている栄子にかまわず室内の状態を改めて確認した。部屋の隅には大きな旅行用のトランクケースが二つ置かれている。床の上にはコーラのペットボトルとブランデーの瓶、それにガラスコップが転がっていた。まだいくらか中身が残っていたのだろう、絨毯のしみになっている。
この嵐の雨風もあるし、絨毯のしみ抜きやら何やらは大変そうだ。もっとも、こういう死人が出た部屋というのはオーナーにとっても頭痛の種だろう。甘葛は顔をしかめた。
「小松さん、どんな感じですか――」
振り向いた甘葛の目に若い女性の健康的な脚が飛び込んできた。栄子は死体に向かってかがみこんで色々といじり回しており、甘葛の動揺にも気づいた様子はない。彼女はパジャマを脱いだ上にレインコートを着込むという扇情的な格好をしていた。素足にスリッパを履き、それをポリ袋で覆っているあたりから、雨で濡れたり汚れたりするのを避けようとしたのはわかる。わかるが、これは。
「甘葛さん、これは多分毒殺やないか、と思いますよ」
栄子は甘葛の問いにそう答えた。
「外傷は見たところなし。出血も口からの吐血が主。ま、病気やなければ、の話ですけど。今のとこ、はっきり断言できるんは、クランケは急性心不全、つまり、いきなり心臓が止まって死んだ、いうことだけですわ。まだ、体温がちょっとは残ってるし、硬直も進んでないから死後一時間前後ってとこやないですか」
「……ここのオーナーと知り合いだったようですから、何か病気を持っていたかどうかは、聞いて確かめられるとは思いますがね」
「そやね、女性の方に聞いてもわかるんやないですか」
甘葛は眉間にしわを寄せた。
「で、小松さんはこれを毒殺と見ているわけですね」
「ええ。アーモンド臭がないところからすると青酸化合物のセンはないと思います。この吐瀉物と吐血から考えて、多分、ヒ素系の毒物やないですか」
――ひいいいいいううううううおおおおうううううごおうううう……
――ばらばらばらばら……ごろごろごろごろ……
「雷まで鳴りだしたみたいやね」
甘葛と栄子は室内を見回した。甘葛が床に転がっているグラスを指で指して
「毒は、この中に入っていたのか、それとも……」
「調べてみんと何とも言えませんけど、ね」
言ったのに対して、苦々しげに栄子はベッド脇のくずかごを指さした。甘葛がのぞき込むと、中には使用済みの避妊用具が小さな山をなしていた。そして、奇妙な色の紙切れが幾枚か。
「……多分、ドラッグのたぐいをやってたんやと思いますよ。こういう紙にしみこませたんをコーラで溶かしだしてたんと違いますか。なんで死因は薬物中毒か毒殺。病気の人がこんなに元気とは思われへんですし」
「……もっともですな」
その時、五号室の外から森村哲の声がした。
「すみません、甘葛さん。大島本島の警察署の署長さんがあなたと話したいことがあると」
「はい、お電話かわりました。内藤宿署地域課の甘葛政彦巡査部長です」
「大島署署長の鈴木です。お話は、今、嶋崎勲さんから伺いました。ですが、この台風のため、船を出すことができません。休暇中のところ。本当に申し訳ないと思いますが、この台風が通り過ぎるまで、現場の保存等、対応をお願いします」
大島署の警察署長と言えば警視正だ。会社で言えば係長と常務くらいの階級差がある。「了解いたしました。甘葛巡査部長、現場保存に注力いたします。ここまでの資料はメールでお送りさせていただいてもよろしいでしょうか」
午前三時半。甘葛は子供である森村達彦とアメリカ人女性を除く全員を大広間に集めた。
「まず、嶋崎さんからお話を伺いたいのですが。あの女性はどうしました」
嶋崎オーナーは沈痛な表情を浮かべていた。
それはそうだ。色々なことが起きすぎて頭の痛いことだろう。
「……睡眠薬を飲ませて眠らせました。言っていることが支離滅裂で、他にどうやっても落ち着かせることができなさそうだったので。六号室です」
「ふむ。彼らの身元はご存じですね」
「なくなった男性の方がジャック・アプトン、女性の方がアンナ・ニールセン、アメリカのボストンからのお客様です」
嶋崎オーナーの言葉に志藤が少し身じろぎをしたのを甘葛は目にとめた。
「あなたとの関係は。彼らはただの旅行客なのですか」
「……私が買った絵を届けてくれたのです」
「絵ですか」
甘葛はちらと佐藤千枝の方に視線を向けた。
「その絵はどうしました。今、手元にありますか」
「いいえ、実は、まだ受け取っていません。彼らは到着してすぐに五号室に閉じこもってしまったので」
確かに昨日の昼の状況はそのような感じだった。
「なるほど、そうでしたね。五号室にブランデーとコーラの瓶があったのですが、これはこのペンションで出したものですか」
この質問には森村哲が答えた。
「……いいえ、何も出していません。食事もです。第一、日本酒やビール、ワインなんかは置いていますが、ブランデーは料理に使う用しかありません。それも今は使い切ってしまって、今は在庫なしです」
とすると持ち込みということになる。
「小松さん。もし、彼の死因が毒殺だと仮定して、毒は何に入っていたかというのは調べられますか」
きちんとパジャマ姿に戻って階下に降りてきた栄子は首をひねった。
「設備と人員と時間があれば。今あるのは時間だけです。でも努力しますわ」
「お願いします」
結局、ちょうど良い空き部屋がない、ということでジャックの死体は上から新しいシーツをかぶせて五号室に残しておくことになり、鍵は甘葛が預かることになった。
「志藤さん、すみませんがPCをお借りしても。写真や捜査のメモを所轄に送りたいんです」
「ああ、いいですよ。どうぞ使ってください」
続きは翌朝ということで解散となった。
午前四時にはペンションの明かりはすべて消え、寝苦しい夜が再開された。
とうとう最初の犠牲者が出ました。
続きはまた来週。よろしくお願いします。