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嵐の島の一夜  作者: 志名波諸智
6/12

その前日 午前

じりじりと「その日」に向けて時間は進んでいきます。

今回は一話のみの投稿です。

「志藤君、鯛が食いたいとは思わんかね」

「教授」


 何を言っても無駄だな、と志藤はうなだれた。


「わかりました、わかりましたよ。仁科君、お借りします」


 明け方の不吉な夢から志藤竹久が目覚めてみると、そこは道奥大学の漆原研究室ではなく、多々見島のペンション「ル・オシオン」の三号室だった。台風が近づいてきているのか、窓の外の天気は重たい雲が垂れ込めていて風が強い。そのうるさい風の音に漆原教授の笑い声がだぶって聞こえたような気がして、志藤は身震いした。


「そうか、この風の音のせいで、あんなろくでもない夢を」


 縁起でもない夢を振り切るように身支度を調えると、志藤は一階へ降りていった。


 午前五時半。


 階下では、朝の早い森村哲が食事の準備を始めていた。香澄の夫で、ペンションの食事を一手に引き受けている料理人だ。


「ああ、おはようございます。釣りですか」

「ええ、まあ」


 教授が鯛を期待しているようなので、と思わず続けそうになって、志藤は曖昧な笑みを浮かべた。


「朝食までには戻ります。釣果の方は期待しないでください。何と言っても初心者ですから」

「いやいや、あてにしていますよ。何か釣れたら台所の方に持ってきてください。昼か夜の食卓に出させてもらいますから」

「どうですかね。あ、そうだ、うまく釣れるお勧めの場所とかありますか」


 志藤の質問に哲は苦笑した。


「ああ、それを教えちゃダメだ、とオーナーから言われてるんですよ。ポイント探しも釣りの醍醐味の一つだから、だそうです。頑張ってください」


 間違っている訳ではないが、初心者相手に厳しくないか、と志藤は思った。どうも、このペンションのオーナーは勿体をつけるのが好きなような気がする。


「じゃあ、行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい。風が強いから気をつけてくださいね。今日は波も高いようですし」




 妙な胸騒ぎとともに佐藤千枝は目を覚ました。枕元の時計は六時を指している。どうも悪夢にうなされたらしい。目が覚めてしまった今では何も思い出すことができないが、じっとりと冷や汗をかいていた。


「少し早いけど、起きてしまおう。お風呂に入ってさっぱりしたい」


 白のサマードレスに着替えながら


「昨日着てきた服も汗をかいちゃったし、今日は洗濯しないと駄目ね」


と、脱ぎ捨てたパジャマを見てため息をつく。

 浴室の入り口のところに全自動の洗濯機と乾燥機が置いてあるのは知っている。男湯と女湯それぞれに一台ずつあるから安心のはずだった。


 こんなところで下着泥棒も出ないだろう。


「朝ご飯を食べて一段落したら、お父さんに電話しなきゃ」


 今日も一日蒸し暑くなりそうだった。




 志藤の釣りは思ったより成果が上がっていた。


「いや、おかしいだろ、これ。こんなうまくいくわけないよな」


 台風が近いせいか今日は海の色がいつもと少し違うような気がした。あちらこちらと釣り針を落とす場所を変えているうちに、アイナメが十尾に鯛が一尾、わずか一時間の釣果としては異常とも言えるほどだ。


「いや、これ、絶対、どこかに落とし穴があるぞ、間違いなく」


 そろそろ引き上げようか、と志藤が考え始めた、まさにその時、またしても釣り針に何かが引っかかった。

 引きが強い

 釣り竿が手から持って行かれそうになるような強い引きだった。とんでもない勢いでリールが回転する。


「そらきた、落とし穴。いや待て、何がかかったんだ」


 志藤は、瞬間、唖然となった。すぐに我に返る。

 今かかっている獲物はただ者ではない。なんとか釣り上げてみたい誘惑にかられるが、初心者に過ぎない自分には不可能だ。多分、釣り竿がもたないし、このままでは自分が海に引きずり込まれてしまうだろう。この岩だらけで波の高い海に落ち込んだら命に関わる。

 志藤は釣り糸を切った。それと同時に、回転の勢いに耐えかねて釣り竿からリールがはじけとんだ。


 「いったい、何がかかったんだ」


 落ちたリールを拾いながら志藤は呟いた。




 甘葛が朝食のために階下に降りていくと、昨日到着した若い女性が大広間の絵の前にたたずんでいるのが見えた。確か佐藤さんと名乗ったはずだ。画商という話だった。昨日の自己紹介を甘葛が思い出していると、彼に気がついたらしく、その女性は「おはようございます」と挨拶してきた。


「あ、おはようございます」


 甘葛も挨拶を返したところで、台所の方から志藤という青年が出てくるのが見えた。ライフジャケットを着けているところを見ると朝釣りに出かけてきたらしい。あまり顔色が良くないのは釣果のせいだろうか、と甘葛は考えた。


「おはようございます、甘葛さん、佐藤さん」


 挨拶をかわしているうちに朝食が運ばれてくる。今朝のメニューは焼きたてのクロワッサンにポテトの冷製ポタージュスープ、具だくさんのオムレツにサラダというものだった。


「あの、小松さんは」


 昨晩の夕食に比べて一人足りない食卓を見て千枝が尋ねると


「ああ、なんでも朝が苦手という話で、朝食はとらないらしいんですよ」


志藤がちらりと甘葛の方に視線をやりながら答えた。甘葛は会話は任せた、という意思をこめて志藤の方に向かって右眉を上げて見せた。伝わっただろうか。


「お医者さんにしては不養生ですよねえ」


 伝わったようだ。会話を引き受けてくれるつもりらしい。


「そういえば、佐藤さんは画商でいらっしゃるとか。このペンションの絵も佐藤さんの方で」


「ええ、取引させていただいたものもあります」


 千枝はビジネス用の微笑を浮かべた。


「どうです、志藤さんも何枚か」


「いやいや、いやいやいや、僕の方はしがない貧乏学生ですから。アパートの狭い部屋には分不相応ですよ。それはそうと、今泊まっている三号室にも、一枚、肖像画がかかってるんですが」

「ああ、あれはクララ王女の肖像画ですよ。わたしも好きな絵なんです。ウィーンで活動していたクラウスという画家の作品で、結構、古いものなんですよ」


 志藤は目を丸くした。


「え、じゃあ、あれ、オリジナルなんですか。複製とかじゃなくて」

「ええ、そうですよ。嶋崎さんはオリジナルしか飾りませんから。だから大切にしてあげてくださいね」


 会話を志藤に任せて甘葛は黙々と朝食をとり続けた。

 何とはなしにずいぶんと浮世離れした会話だと思った。オリジナルの、本物の絵を飾る、とは不用心なことだ、そう考えた。盗難にあうとは思わないのだろうか。


「すると、あそこにかかっている大きな絵も本物ですか」

「そうでしょうね。多分、そうだと思います。うちで扱った作品ではないので、よくはわからないんですけど」


 志藤が言ったのは、朝食が始まる前、千枝がその前でたたずんでいた絵だった。

 横に長い、百二十号ほどのサイズの作品である。横に二メートル、縦に一メートルくらいの大きさはあるだろう。

 画面の中央を向いた数十人ほどの人間が思い思いのポーズをとっている。背景は赤茶けた色の荒野で、その人間たちは皆小人のように小さい。その小人たちが向いている画面の中央には荒れ果てた石造りの神殿が描かれており、空は星のない夜空のような暗闇色に塗られていた。


 ずいぶんと暗い絵だ、と甘葛は思う。悪趣味としかいいようがない。


「嶋崎さんにうかがってはみたんですけど、詳しい話は教えていただけなくて。絵の題名は『降臨』というらしいんですけど、作者が誰かもわからないんです、すみません」

「いや、そんな。どうもありがとうございました」


 食後のコーヒーを飲み、それで朝食は終わった。志藤は大学の課題がとうなりながら二階へと上がり、千枝が大広間の椅子に座ってスマートフォンを取り出したのを見て、甘葛はペンションの庭へと出て行った。徹底的に骨休めに徹するつもりだった。




「もしもし、お父さん。わたし……千枝。……うん、平気、台風が近づいてるらしいけど……うん、気をつけます……大丈夫だから。心配しないで。もう、子供じゃないんだから。


 あのね、お父さん、ちょっと気になることがあるんだけど。……うん、絵のことで。嶋崎さんが飾っているんだけど『降臨』というタイトルで、百二十号くらいの大作なの。聞いたことあるかしら


 ……ううん、後期フランドル派のタッチ、そうボッスとかブリューゲルとかに近いとは思うんだけど、誰の作品かはわからないのよ。画材も杉板のようだし絵の具もあの時代のものっぽいんだけど。……うん、嶋崎さんが合衆国の知り合いから……うん、とても気に入ってるみたいなの。ただ、ちょっと気になるのよ。


 それにね、嶋崎さん、その知り合いの方から、その他にも絵を買ってるらしいの。今日、その最後の絵が届くって楽しみにしてらっしゃるのよ。

 ……うん、ごめんなさい。何かわかったら、また、電話します」




 遠くの方で雷が鳴っているのが聞こえる。

 空は、一面、鉛色の重たい雲に覆われている。じっとりと湿った空気がまとわりつくように暑い。


「おはようございます」


 風呂に入って強引に目を覚ました小松栄子が大広間に入ってきた時、ボツボツと重たい音が屋根や壁を叩き始めた。


「……降ってきた、みたいですね」


 アイスミルクティーの入ったグラスを片手に千枝が言った。


「台風、来るのかしら」

「来るみたいですよ、あ、小松さん、おはようございます」


 資料を前に悩むのに疲れた志藤が栄子の独り言に答えを返した。


「すいません、わたしにもアイスティーください。……そろそろ、ニュースの時間やないですか。台風なら何かあるでしょう」


 無言で甘葛がテレビのスイッチを入れた。


「……模様です。次のニュースです。マリアナ諸島近海で発生し、迷走を続けていた大型台風十三号は、次第に勢力を増しながら北東に進路を変え、今夜半から明日にかけて大島付近を通過、明後日の昼頃には首都圏を直撃するおそれが出てきました。今後の続報に注意をしてください。なお、気象庁の……」

次は「その前日 午後」の予定です。来週までお待ちください。

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