二日前 佐藤千枝
大島本島からの船旅は波が荒れてひどいものだった。
「大丈夫かい、お客さん」
船長に手を引かれて、ようやく佐藤千枝はペンション「ル・オシオン」にたどりついた。本島まで乗ってきた飛行機もかなり揺れたこともあって重症の乗物酔いでめまいがする。
「どうやら、どこかに台風がいるみたいだなあ。天気予報じゃまだどこにも載ってなかったが」
いつもなら「ル・オシオン」の昼食は楽しみなのだが、今回ばかりはどうにも無理だった。少し動くだけでも吐き気がする。
「香澄さん、ごめんなさい。わたし、お昼、無理」
めまいをこらえてチェックインの準備をしながら香澄に話しかけた。
「かなりひどいみたいね。わかった、主人に話しておくから」
「ありがと。あと、あそこの絵、あれ、いつ買ったの。去年の年末に来た時にはなかったよね」
千枝が見ていたのは大広間に飾られた宗教画めいた絵だった。雰囲気はヒエロニムス・ボッスかピーテル・ブリューゲルの作品みたいだけれど、誰の作品なのかしら、見たことない絵よね……千枝は記憶を探ってみた。しかし、体調の悪さも邪魔をしてうまく集中ができない。どうにも思い出すことはできなかった。
「ああ、あれね。父がアメリカの知り合いから譲ってもらったのよ。昔の駐在員時代に知り合った方らしいんだけど。でも、ちょっと気持ちの悪い絵でしょう。前の花畑の絵の方が明るくって私は好きなんだけど」
「そうね。あまり食堂向けではないかもね。でも、あれも迫力があって目を引きつけられる良い絵じゃない」
印象派風の絵は日本人に親和性が高い。香澄のいう花畑の絵もその一つだが、この南の島のペンションにはやはり合わない、と千枝は考えていた。
むしろ、荒々しい海の風景を写実的に描いた作品の方が良いかもしれない。最近知り合った画家志望のイラストレーターにでも話を持ちかけてみようか、と思案しながら、宿帳への記入を終えた。
「じゃあ、わたしの部屋はいつもどおり三号室ね」
「あ、ごめんなさい、三号室、ふさがっちゃってるの。大学の学生さんが延長で泊まってるのよ。四号室じゃダメかしら」
香澄の片手で拝むような仕草を見て、千枝は軽くため息をついた。
「わたし、あのクララ王女の肖像画、気に入ってたのに。残念。しようがない、イザベル王妃のおばさまでも良いわ。そのかわり、乗物酔いのお薬、ちょうだい」
「いいわよ。でも、それなら二号室のお客様にもらった方がいいかも。お医者様なのよ」
「ペンションの前の椅子で昼寝してる人がそうなの」
三十代半ばくらいの男性の姿を千枝は思い出しながら言ったが香澄は軽く首を振った。
「いいえ、今、うちの子と遊んでくださってるわ」
「え、あの女の人。わたしと同じくらいか、もしかしたら年下みたいじゃない」
「でも、本当みたいよ。大学の学生さんも何かで薬をもらっていたみたいだし」
「へえ」
ともあれ、荷物を置いて身体を休めるために、千枝は二階の四号室に上がっていった。
じりじりと「その当日」に向けて進みます。
続きはまた来週。よろしくお願いいたします。