三日前 小松栄子
部屋に入ると荷物を床に投げ出して、小松栄子はため息をついた。
「サイッテー」
壁にかけられた白人青年の肖像画をにらみつけながら呟く。
右隣の一号室の客は目つきの悪い中年男、左隣の三号室にはむさ苦しい小太りの学生。
別段「ロマンチックな夏の出会い」など期待してはいなかったが、これでは話し相手もいないではないか。
フロントにいた女の人は、明日になればもう一人若い女性の客が来るから、と言ってはいたが、その女性とも必ずしも話があうとは限らない。
部屋の鍵をかけ、窓のカーテンを閉めて、栄子は服を着替えることにした。下の船着き場からこのペンションまで歩いてくるうちにさんざん汗をかいてしまった。しかも珍しいことに船酔いつきで。
「疲れてるんやろか」
確かに船長は、今日はいつもより波が荒い、とは言っていたが、それにしても乗物酔いなんて生まれて初めてのことのような気がする。
帰ってこい、という父親の言を無視して、このような孤島にやって来はしたものの、もしかすると実家に帰った方が良かったのかもしれない、と気弱に考え、慌てて栄子は首を振ってその考えを追い払った。
栄子の実家は関西でも有数の大病院を経営している。両親そろって医者であり、栄子も小さい子供の頃から医者になることを疑いもしなかった。
「くそ兄貴のどあほ」
胸のむかつきがおさまりそうもないので、栄子は少し横になることにした。眼鏡をサイドテーブルにのせ、目を閉じると身体がまだ揺れているような感じがする。
栄子の両親の医者としての技量は確かだと思う。しかし、何より優れているのは経営手腕だった。両親にとって「医は算術」以外のなにものでもなかったわけだ。
栄子が高校に進学した時、三歳上の兄がドロップアウトした。怒り狂う父を相手に一歩も引くことなく、進路を法学部に変えることを告げたのだった。
結果、その時から栄子が病院の跡継ぎに決められたのだ。
もともと医者にはなるつもりだったし、成績だって悪くはなかった。狭き門とはいえ医学部に進学するには問題のない水準。
というのに、両親は栄子の能力には何の期待も持っていなかったらしい。
栄子の見るところおべんちゃらと金勘定くらいしか能のなさそうな男との婚約が高校三年にして唐突に決められてしまったのだ。無論、本人への事前の打診すらなく。
当然、栄子としては反発するしかなかった。
「どういうことなん。わたしの一生の問題を何を勝手に決めてるんよ」
「わがまま言うな。うちの病院を存続させるのが最優先にきまっとるやろ。彼はええ男や。何というても父親が県議会の有力者やし母親の方は銀行頭取一族の出身やぞ」
「かんじんの本人がどないもならんやないの」
「本人のことなんかどうでもええ。それはお前も同じや、栄子」
親の目の届かない東京の医大に入学したのも、卒業しても大学に残り大学病院で複数の科にわたって研修と勤務を続けているのも、その反発のせいだった。
泣き言を言っていられるような余裕はない。
実家に戻ったらあの阿呆と結婚させられる。それだけは真っ平ご免だった。
兄は、今では、独立して弁護士事務所を構えている。相談をもちかければ間違いなく助けてくれるだろうが、そもそもの元凶がその兄だ。そこに助けを求めるのもしゃくに障る。
ため息をつくと栄子はベッドから起き上がった。
じっとしているのも時間の無駄だ。このペンションには温泉があるという話だった。一風呂浴びて気分を変えるのが良さそうだ。おっさんやら兄ちゃんやらはともかく、ここの坊やと遊んでもいいかもしれない。