四日前 甘葛政彦
食事がすむと船長はうるさい学生たちをつれてペンションを出て行った。フロントで梱包された段ボール箱を受け取ったようだ。なるほど、あの船長の名前は永瀬というらしい、と甘葛は考えた。
昼食後のコーヒーを飲みながらくつろいでいると、先ほどの女性が近づいてくるのが目に入った。
「お待たせしてすみません。お部屋の準備が整いましたのでご案内します」
客室は二階だった。食堂兼大広間の奥に階段があって、それを上りながら女性が色々と説明を続けた。
「お食事は、朝が六時から九時まで、昼が十一時から十四時まで、夜が十七時から二十時までになります。あと、一階のこの階段の下にお風呂があります。向かって左側が男湯になってます。温泉ですからいつでもどうぞ。朝の九時から十時までの間は清掃させていただきますけど」
「それは楽しみですね。おいしい食事と温泉でのんびりできる、っていうのは本物の贅沢ですよ」
「そう言っていただけるとうれしいですね。一号室はこちらになります」
二階に上がって右側正面の部屋が一号室だった。見渡したところ同じ向きにドアが四つ、一号室の向かいにもドアがある。多分、反対側の四番目のドアの向かいにも部屋がありそうだから客室は全部で六室というところだろうか。くるりと振り向くと、一号室とは反対側の奥にトイレ室があるのが目に入った。
「ありがとうございます、じゃあ、夕飯まで少し休ませてもらいますね」
「ええ、では、ごゆっくり」
階下へと降りていく足音に耳をすませながら、甘葛は部屋の内鍵をロックした。荷物を整理して、窓から雑木林を眺める。部屋にあるのは二人分のベッドとライティングデスク、スタンドとトランジスタラジオに懐中電灯、貴族なのか政治家なのかいかめしい顔をした初老の男性の肖像画。何かあれば部屋のバルコニーから簡単に下には降りられそうだ。
「やれやれ、ほとぼりがさめるまで本当にしばらくのんびりするか」
甘葛は大きくのびをするとベッドに横になった。
三十代半ばに見られることが多いが、甘葛政彦はまだ二十六歳である。
職業は警視庁内藤宿署勤務の巡査部長。ただし、この休職が明けたら異動が待っているだろうから所属はかわるにちがいない。
数日前の事件で甘葛は拳銃を抜いた。
目の前の犯人は帰宅時間帯の地下鉄車内でハンマーと包丁を振り回して不特定多数の乗客を死傷させた男だった。事件発生の連絡を受けて駅プラットホームで待機していた甘葛と相棒は、緊急停車した地下鉄に乗り込んだ。犯人は逃げる乗客を追いかけてハンマーを振りかざしていたが、その前に甘葛たちが立ち塞がった格好になった。
「やめろ。武器から手を離しなさい」
警棒を構えた相棒の声に、犯人は返り血に汚れた顔を笑みの形にゆがめた。
「おお怖い」
そう呟くとハンマーと包丁が床に落ちた。相棒と甘葛が犯人を制圧しようと駆け出した瞬間、
「怖いから、こうする」
犯人の右手が肩からかけられたバッグへと伸び、そのまま激しい破裂音が響いた。
甘葛の前を走っていた相棒が前のめりに倒れる。
バッグから抜かれた手にはまだ硝煙を漂わせた一丁の拳銃が握られていた。
「警察が来たら、これ使おうと最初から決めてたんだよね。それにしても、思ったより早いからびっくりしちゃった。もっと殺せると思ったのにな。どうして、いつもいつも俺の邪魔ばかりするんだよ、ふざけんな」
ふざけんな、と言いたいのはこちらの方だ。
乗客たちはまだ避難中、相棒は撃たれて生死不明の状況で、他にも死者やら負傷者やらが社内に残されている。このまま犯人を自由にするわけには行かなかった。
「銃を捨てなさい。無駄な抵抗はやめろ」
甘葛は拳銃を抜き、即座に安全ゴムと安全装置を外した。握った拳銃はひどく重かった。そのまま引き金を引き、犯人の右腕を撃ち抜いた。
あたかも西部劇のような結末だったわけだが、ここは現代日本だった。拳銃を使用すると警察官の人生が激変するのがこの国だ。
日本ではほとんどの市民が銃を持たない。拳銃を帯同する警察官というのはそれだけで市民生活からは異質な存在と言える。だから人の生死を安易に左右しうる拳銃の使用には厳しい視線が向けられるのが常だった。
客観的には正しいのだが当事者としてはたまったものではない。
「今回は被疑者側が違法な改造拳銃を所持しており、既にその発射で警察官一人が重傷を負っている。また多数の負傷者を人質にとられているも同然の状況であったことから適正な拳銃使用であったと判断している」
というのが警視庁の公式見解であったが、被疑者の弁護士は警察側の拳銃使用を裁判での争点に持ち出す方針であり、一部マスメディアでも「拳銃の使用なしに犯人を確保できなかったのか。警察側の対応に疑問がもたれる」の論点で報道が行われることが判明したため、メディア側の取材攻勢から逃れさせる目的で甘葛は休職を命じられた、という経緯があった。
取り調べにあたった同期からちらりと聞いたところによると、被疑者は
「あの警察官の野郎、絶対に許さない。なんで中途半端に右腕だけを撃つんだ、痛くてしようがないじゃないか。あれだけやったら撃ち殺してくれると思ったのに。まだ殺したりなかったかな。日本記録を狙ったんだけどな」
などと漏らしているそうだ。
人を殺すような人間はどこかおかしな人間が多い、というより、おかしくならないと人なんて殺せるものじゃない、というのが甘葛の認識だった。
そのおかしな奴に自分の警察官人生の先行きが狂わされるのか、と思うとやりきれなかった。
とりあえず、今週はここまで投稿します。
続きはまた来週。