アンリエッタ・シャルマン公爵令嬢の恋
ああ…あの茜色をした夏空の下で貴方とお話したあの時はわたくしの宝物でした。
でも、もう時は戻らない。
なんて時は残酷なのかしら…
アンリエッタ・シャルマン公爵令嬢は、今、ジュエル帝国の留学から馬車で帰国の途についていた。
彼女は失意の下、過去を思い出してため息をついていたのだ。
アンリエッタは遠い昔、恋をした。
マディニア王国の美しい騎士団長、ローゼンシュリハルト・フォバッツア公爵にである。
ただ、彼は王弟殿下の次女、マリアンヌの婚約者だった。
兄であるシャルマン公爵家の3男であるルイスが騎士団で近衛騎士を勤めているのだ。
兄に差し入れと言う形で強引に騎士団事務所へ顔を出しに行った。
愛しのローゼンに会いたいが為である。
そして、ローゼン騎士団長を見つけると、近づいて行って強引に話しかけた。
「今日もお美しいですね。ローゼン様。夏雲と夕陽が綺麗ですわ。一緒に見ませんか?」
「いや、私は忙しいから…」
「お願いです。ローゼン様。」
ローゼンの手を引っ張って、騎士団事務所の外へ出て、一緒に空を眺める。
茜色に染まった空を彩る夏雲、藍色に夜の帳が降りてくるその色合いが美しくて。
「ほら、一番星が見えますわ。」
「本当だ。夕方の夏空は又、美しいな。」
「そうでしょう。たまには空を眺めてみるのもいい物ですわ。」
キラキラとした時間。
人の婚約者だと解っていても、恋する気持ちを止められなかった。
でも…
所詮、マリアンヌの婚約者。盗る訳にはいかない。
失意の元、ジュエル帝国へ留学を決めたのはわたくし…
ジュエル帝国のカルバルト公爵家の長男と婚約を結んだのも、わたくしの意志。
でも、彼は浮気をしていた。
身分の低い男爵令嬢と…許せなかったのだ。
だから、婚約を解消して、それと同時に留学も終え、アンリエッタはマディニア王国へ帰国の途についたのだが。
久しぶりのマディニア王国。シャルマン公爵家。
家のメイドから驚くべき話を聞いた。
「ローゼン様はマリアンヌ様との婚約を解消して、フォルダン公爵令嬢と婚約なさったそうですね。」
「なんですって?」
婚約者が王弟殿下の娘だから諦めた。諦めてジュエル帝国へ留学したのに…
フォルダン公爵令嬢と婚約していたなんて…
何で何で何で????何でわたくしでは駄目だったの?
涙がこぼれる。
よくよく調べてみれば、相手は16歳の小娘。この国の法律では18歳まで女性は結婚出来ない。ローゼンは27歳。公爵として27歳で独身は世間的にまずいはずだ。早く結婚したいだろう。
自分ならば22歳である。彼とすぐに結婚出来る。
フォルダン公爵令嬢なら同じ公爵家として互角。
彼女からローゼンを盗って見せる。
「お久しぶりですっ。ローゼン様。アンリエッタです。懐かしい。」
「アンリエッタか?帝国から帰って来たのか。」
王宮の廊下で久しぶりに見たローゼンは柔らかな金髪を背まで流して、相変わらず美しかった。
ああ…ローゼン様。わたくしはローゼン様と結婚したいのよ。
王宮の廊下で見かけたローゼンを王宮内に設置してあるカフェに誘って話をする。
ローゼンはジュエル帝国の事を聞いて来た。
「私はジュエル帝国に行った事はないのだ。あそこはどうだ?マディニア王国と違って開けているのか?」
「この国も開けていると思いますわ。でも、ジュエル帝国はもっと賑わっておりますの。
人も大勢いて。街も大きいですわ。」
ローゼンと色々と話をする。
アンリエッタは幸せだった。
あの夏の日、騎士団に行っていた頃を思い出す。
アンリエッタは紅茶を飲みながら、
「ローゼン様はマリアンヌ様と婚約を解消して、フォルダン公爵令嬢と婚約なさったのですね?」
「国王陛下の命令だから我がフォバッツア公爵家は受けたまでだ。」
「まぁ。国王陛下の命令だったのですか。」
ローゼンの手に手を重ねて、アンリエッタは熱く囁く。
「それなら、わたくしがお父様を通じて、国王陛下にお願い致しましたら、フォバッツア公爵家は我がシャルマン公爵家と、貴方はわたくしと婚約して下さいますか?」
「アンリエッタ。私はフローラ・フォルダン公爵令嬢を愛している。」
「なんですって?」
マリアンヌと婚約していた時、そのような言葉は聞いた事が無かった。
それを…愛しているだなんて。
アンリエッタの胸は嫉妬で渦巻いた。
「わたくしは貴方と結婚出来る年齢ですわ。貴方は早く結婚したいでしょう?フォルダン公爵令嬢は16歳だと聞いております。後、2年、結婚出来ないわ。だから、わたくしと。」
ローゼンは吐き捨てるように、
「私の言葉は聞こえなかったのか?フローラを…フォルダン公爵令嬢を愛している。
それに、フォルダン公爵家と結ぶ事は我が公爵家にとっても得だ。フォルダン公爵は国王陛下に気に入られて側近を勤めている。」
「我がシャルマン公爵家だって、政治の中枢を担っておりますわ。わたくしは貴方の事を忘れた事はありませんでした。だから…どうかわたくしと。」
「断る。私はこれで失礼する。」
行ってしまった。
あんなに好きだったローゼン。
彼を怒らせてしまったのだ。
それでもアンリエッタは諦められなかった。
ローゼンを好きだと言う貴族令嬢や平民は多い。
彼らを集めてファンクラブを作った。そしてその会長になった。
本当に本当にローゼンの事が好きだったのだ。
とある日、勇者披露パーティが王宮で開かれる事になった。
そこにローゼンが婚約者のフローラ・フォルダン公爵令嬢と共に現れるとの事。
アンリエッタは桃色のドレスを着て思いっきりお洒落をし、フォルダン公爵家が馬車で到着するのを王宮の入り口で待っているローゼンに付きまとった。
「ローゼン様、アンリエッタですわ。何て今日も麗しい。」
他の令嬢達もローゼンを見つけて、話しかけている。
「ローゼン様。素敵ですわ。」
「ローゼン様、是非、わたくしとダンスを。」
ローゼンは困ったような様子で、
「私はフローラ以外と踊らない。それに今、ここにいるのはフローラの到着を待っているからだ。申し訳ない。」
フォルダン公爵家の馬車が到着して、中からフローラが出て来た。
金髪ですみれ色の瞳の若き公爵令嬢は、ローゼンにエスコートされて、王宮へ入って行く。
悔しい。悔しい。悔しいっ…
あまりにも悔しかったから、アンリエッタは化粧室へ向かったフローラの後をつけてとっ捕まえ、フローラに文句を言った。
「貴方にローゼン様は似合わないわ。フォルダン公爵令嬢。」
フローラはアンリエッタを睨みつけて来た。
「何故、そう言えますの?」
「私とならすぐに結婚出来ますわ。ローゼン様も27歳、早く結婚したいはず。貴方は後2年、結婚出来ないでしょう?」
「貴方は婚約者が帝国にいると聞いておりましたが。」
「ローゼン様が忘れられなくて…婚約破棄をしてこの国に戻って参りました。相手がマリアンヌ様ならあきらめもつくでしょう。王族ですから。でも、貴方は公爵令嬢。互角ですわ。」
立場的には互角である。互いに公爵令嬢。しかし…フローラに断言された。
「貴方にローゼン様をお渡しする訳には参りません。私の婚約者なのですから。」
言い争っていると、ローゼンが心配して見に来たのか、声をかけてきた。
「フローラ、どうしたのだ?」
アンリエッタは必死にローゼンの近くに行き、胸元に縋りついて。
「貴方の事を私は忘れられません。どうか、私と結婚して…あんな女より私の方がすぐに結婚出来るわ。」
ローゼンはアンリエッタをそっと引き離して。
「すまない。私はフローラの婚約者だ。フローラの事を愛している。」
そう言うとフローラの傍に行き、
「化粧室へ行っておいで。私は廊下で待っていよう。」
「有難うございます。ローゼン様。」
化粧室の傍までフローラを守るように、ついて行くローゼン。フローラが化粧室に入った隙にローゼンに必死に話しかけた。
「あの夏の日、貴方と沢山過ごす事が出来て、私は幸せでしたわ。忘れる事など出来ない。
どうか私と結婚を…」
「申し訳ないが…アンリエッタ。これ以上、私に付きまとわないでくれ。」
フローラが化粧室から出て来ると、ローゼンはフローラの手を取って。
「席へ戻ろう。愛しのフローラ。」
「ええ…ローゼン様。」
行ってしまった。
悲しみに胸が張り裂けそう…
この恋は叶わぬ恋なのか…
この事があってからアンリエッタはふさぎ込んでいた。
屋敷で自分の部屋に閉じこもるアンリエッタ。
あんなに愛したローゼンへの想いが実らないだなんて。
あんな小娘に盗られるなんてなんて悲しい。なんて悔しい。
あんな小娘、死んでしまえばいいのに…
何でわたくしは選ばれなかったの?
あの夏の日、ローゼンは自分の事を明らかに見ていた。
心を寄せられていると、そうアンリエッタは思っていた。
それが…何で???
もう、結婚したくはない…
アンリエッタはそう思った。
わたくしは一生、ローゼン様を想って生きるのよ。
ファンクラブの会長として、生きるしかないんだわ。
失意の底にいるアンリエッタ。
だが、思わぬ出会いがあったのだ。
ディオン皇太子から、ジュエル帝国の神殿について詳しく聞きたいと、
数人で打ち合わせをしていた時だった。
思い切ってアンリエッタはディオン皇太子に頼みごとをした。
「ちょっと皇太子殿下にお願いがあるのですが。」
「ん?なんだ?」
「私、宮殿の外務官になりたいのです。募集していないでしょうか?いきなり外務官は無理でしょうけれども…」
「何故、外務官に?シャルマン公爵家と言えば、名門だ。公爵令嬢と言えば、釣り合う家の男と婚姻し、両家の為に尽くすのが普通の生き方ではないのか?」
アンリエッタはまっすぐディオン皇太子を見つめて。
「父は私に好きなように生きていいと言ってくれました。だから、ジュエル帝国に留学も致しましたし、そこで知り合った貴族の方と婚約いたしましたわ。でも、破談になりました。
浮気されたのです…。私は、もう結婚したいと思わなくなりましたわ。だから、仕事に生きたいと…」
ディオン皇太子はチラリとアンリエッタを見つめながら。
「ローゼンに執着していると、情報が入っているが?」
アンリエッタは笑って。
「ローゼン様を愛でる会の事ですか?ローゼン様に付きまとった事もありましたわ。
でも、ローゼン様は今はフローラ様を愛していらっしゃるのが良く解りましたから、
ローゼン様を愛する人達と愛でる会を作って、愛でているだけですのよ。
それ位の楽しみがあっても良いではありませんか。」
胸が痛い。でも、もう、自分の生きる道は仕事と、ファンクラブの会長としてローゼンを愛で続けるしかないのだ。
ディオン皇太子は納得したように、
「アンリエッタの言う事はよく解った。俺から、外務官の事務局に入れるように、手配してやろう。」
その時、シリウス・レイモンドがアンリエッタに向かって。
「君は仕事に生きてしまうのか?もったいない…」
「え?シリウス様?」
シリウスと言う男をアンリエッタは知っていた。
騎士団の中でも30名しかなれない近衛騎士の一人で、実力者である。
銀髪碧眼の口髭のある落ち着いた感じのシリウスは、熱烈な口調でアンリエッタに向かって、
「アンリエッタ…。君はあの夏の日にローゼン騎士団長に恋をしていたようだが、恋をしていたのは君だけではない。俺も恋をしていた。騎士団に良く遊びに来ていた、夏空のような明るい令嬢にね。その後、思いはあれども君に結婚を申し込むことが出来なかった。君はジュエル帝国へ行ってしまった。それに、俺はフォルダン公爵派だ。君の家はアイルノーツ公爵派。対立派閥だから。だが、好きに生きて良いと言われているのなら、俺との結婚も選択の一つに入れて貰えないだろうか?
両親を早くに亡くし、公爵になった俺にとっては、領地経営もせねばならず、結婚相手を探すところでは無かった。生憎、姉妹もいない。俺程、社交界に縁遠い男もいないだろう。
君が俺と結婚してくれれば、社交を君に任せる事も出来る。何より、明るい君が俺の傍にいてくれたら、どんなに素晴らしいか。」
アンリエッタの胸はどきりとした。
自分のような、ローゼンに付きまとうような令嬢にこんな熱い想いをぶつけてくれる。
必要としてくれる。嬉しい…とても嬉しかった…でも…
「近衛騎士は騎士団で30名しかなれないエリート騎士。オモテになるでしょう。信じられませんわ。私の兄なんて、とっかえひっかえ女性と付き合っておりますもの。」
ディオン皇太子が、
「アンリエッタ。外交官の仕事は大変だぞ。公爵令嬢のお前に務まるかどうか。かなりの覚悟が必要だ。シリウスと付き合ってみたらどうだ?それから決めても遅くはない。」
アンリエッタは頷いて。
「解りましたわ。シリウス様。お付き合い致しましょう。それから、結婚するか決めたいと思います。シャルマン公爵家の事は気にしないで…。私は好きに生きて良いと言われていますから。大丈夫ですわ。」
「アンリエッタ…有難う。必ず、俺と結婚したいと言わせて見せる。」
一生、結婚するつもりは無かった。
仕事に生きようと思っていたのだけれども。
シリウスはアンリエッタにとても優しかった。
「騎士団長の事を忘れられなければ、忘れないでいい。ファンクラブの会長なのだろう?」
「ええ。ローゼン様を愛でながら、色々な身分の女性達と交流できるとても素敵な場ですわ。」
「それなら、続けたらよいと思う。ただ、騎士団長の迷惑にならない範囲でだが。」
「有難うございます。シリウス様。」
「アンリエッタは明るい女性だな。そんな伴侶が俺は欲しかった。君が俺と結婚してくれたらどんなに俺の人生が明るくなる事か。」
「わたくしは、こんなに誰かに必要とされた事があったかしら…きっと今までの人生で無かった事だわ。ローゼン様もジュエル帝国の婚約者だった男性も、皆、わたくしを必要としてくださらなかった。」
「だったら、これからは俺の為に生きてくれないか?俺は君の事を必要としている。アンリエッタ。愛しているよ。」
シリウスに抱き締められる。
アンリエッタの心は温かな物で満たされた。
ああ…わたくしはやっと幸せになれる。
ローゼン様を忘れる事は出来ないけれども、わたくしはシリウス様の為に生きていきたい。
いえ、生きるわ。
「わたくしも貴方の事を愛しております。シリウス様。どうかわたくしと結婚して下さいませんか?」
「勿論。俺と結婚して欲しい。アンリエッタ。愛しているよ。」
それから、しばらくしてアンリエッタはシリウスと結婚し、レイモンド公爵夫人となった。
アンリエッタは社交界で華やかに咲き誇り、フローラ・フォルダン公爵令嬢とも仲直りをし、
共に社交界を盛り上げた。
シリウスとの間に沢山の子が出来て、アンリエッタは幸せに暮らしたと言われている。