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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

羅終門

作者: 神田コスモ

現国で学んだ、あの

羅終門



或る日の昼方のことである、一人の老婆が羅終門の下で途方に暮れていた。

大柱には蟋蟀が一匹頭を上に斜めにして止まっていた。

普通、この太陽の位置ならば、葛色の装いや、袈裟の坊主がいるようなものであるが、

それは最近の未曽有の飢饉や富士の山の小規模噴火が、少なからず影響した。

老婆は羅終門の中心に寝ころび、雨雲がちらほら出たがまだ青空と呼べる空を仰いだ。

なぜ老婆がこんな、狐狸や盗人が棲む治安の場所に導かれなければならなかったのか。それを知るには老婆の半生に触れなければならぬ。

一見何事もない、普通の老婆に見えるが、一転後悔ばかりの惰性的人生を送らざるを得なかったのだ。



老婆が道を間違えたのは何十年前かの夫との結婚である。

まさに疫病神との結婚であった。

最初こそ善意と幸福で舗装された人生であったが、夫が徐々に疫病神と化していった。

夫は博学英才で、顔もよかった。喧嘩もめっぽう強く、非の打ちどころがないように、周りからは思えた。だが望まず長年連れ添った妻は違った。


裏では借金を背負い、何人もの妻を作り、何人もの子供をはらませた。なお彼と別れなかったのは、最妻の意地だろうか、己の根性で子どもを育て上げた。

その後、家を出ていった子どもは異国の女と結婚したらしい。後に届いた手紙には「М、T」と書かれていた。読み方を知るすべはなかった。

彼女は勝手に「曲がり角」と呼んでいた。


子どもとはその一通の手紙以来、音信不通だった。


そうして、息子との連絡を亡くした老婆は、日々を惰性で生きるようになっていった。

そしてその毎日は、一日一日を区別させるのを困難にさせていった。


そのなかで、漸く疫病神が死んだ。実にあっけない最期だった。

酒を飲み、川に落ちて溺れ死んだそうだ。

それは実に三日前のことだった。


こうして、一人の疫病神に取りつかれた生活は終わりを告げた。そして逃げるように生家を出た。数時間前のことである


体に従ってここ、羅終門へたどり着いた。

なぜここに来たのか、嫌でも理解できた。

行きたくて来たわけじゃない、体が羅終門へと向かっていったのだ。

終わりの地へと。

若者にも理解できよう、死ぬわけもないのにそろそろ死ぬのではないかという不安、死にたいと思う反面健康な体。死にながら生きているということを。

恐らくこう思うのだ。壊れた心は生きることを一旦放棄する、その結果先のことを考えることをやめ、体は生き続けるが、心はどうでもよくなってしまう、と。

その結果三大欲求だけを求める廃人へと変貌する。



のっそりと体を起こした老婆は、皺が無数に刻まれた腕を見た。

その腕にある傷は、何して負ったものかはすべて思い出せた。

立ち上がり、ゆっくりと自分の疋で歩き出した、日が出てきて目が眩んだからである。

こうして自分から日陰に進んでいくのも皮肉に感じた。


羅終門の下へと戻ってきた。

確かにさっきまでいたはずの蟋蟀は、どこかへ行ってしまっていた。

そして単純な好奇心で上へ上ることにした。

これからの自分の行く末を予め見ておきたかった。

梯子をひとつひとつゆっくりと上がっていいた。

すべて上がり終えるころには息が切れていた。

異臭がであふれたそこは、まさに地獄を具現化したような場所だった。腐食した肌、露出した骨、白濁して液体化した眼球、そこら中に散らばった髪の毛、まさに灼熱地獄のそれだった。

血に塗れた床は、床本人もその色を思い出せないなと思った。

何か踏んだと思ったらそれはあおむけになった死骸の上半身だった。

死骸は梯子に近ければ近いほど多く、腐食も早かった。ようやく端まであるくと、鼻は慣れ、死骸も見慣れた。

一気に情報が頭の中を駆け巡ったため、精神的にも、肉体的にも疲労がおとずれた。

おもむろに座り、意識が途切れた。





再び目を覚ますと、古都の町は雨に包まれていた。

分厚い雨雲が不気味な暗さを保って存在していた。

心情と天はつながっていると考えると自分は神に慣れた気でいた。

だがその考えを嘲笑うような現実が、ここにはあった。


そう思ってうつむいた。そこには女の死骸があった。もう見た死骸だと思ったが、別の意味の「見た」だった。


その女の生前を見たことがあった。

蛇を短く切ったのを魚だと、漢方だと言って城下町の門辺で売りさばいていた。

そうして稼いだ金を遊びに使い、練り歩いた。

それのなれはてがこの腐食がすすみ、蠅が集り、腸があふれ、自分が出した血で板を腐らせた。見るも無残な姿だった。因果応報とはこのことだと、静かに思った。

そしてこんな女と同じ終わりを迎えようとしている自分に情けなさを感じ、自嘲と自責の乾いた笑いが思わず零れた。

そしてこんなところで死んでたまるかという心の叫びが爆発した。そうして長い間堆積しつづけた黒い塊は、この老婆をとんでもない方向へと動かした。

ある決心をした老婆は女に近づき、腐敗が始まっている頭を瞼を爬虫類のように開いてじっとみた。毛穴と毛髪にはわずかな空白があった。

一本、細い指でつまんでみた。するとはらりと毛が主から離れた。

もう一本つまみ上げると、また離れた。

その様子がおもしろくて、しばらく時間を忘れて楽しんだ。

そしてかつらをこさえようと思いついた。所詮罪人、これくらいは許されるだろうと高をくくった。一本一本丁寧に抜いていった。自分の人生を振り返りながら摘み取るように抜いていった。

 その時であった。背後から急に物音がした、誰かが梯子を上ってきたのだ。

とてつもない勢いで。素早く振り返るのと、その「誰か」がゆっくりと歩み寄るのは、同時だった。若い男の右手は左側にある刀に添えられていた。聖柄だった。

まずいここにいては殺されてしまう、やっと生きがいを見つけたというのに、やっと新しい人生を歩めるというのに、ここで死ぬわけにはいかない。と命の叫びをあげた、決して悟られないように。

生きる目的を持っていると感づかれては、快楽目的で殺されてしまうかもしれない

ただこの老婆の第一目的はここから逃げることであった。

 だが梯子を下りるには下人の横を通らなければならなかった。

力の限り突進して突破しようとしたが若い力には勝てるわけもなく、どちらが勝つかは瞭然だった。老婆の全力も片手で跳ね返された。草履の足に蹴られ思わず後ろに倒れた

三寸後ろに女の足があった。


腕と脚に痛みを覚えた。男は同じ速度でゆっくりと近づいてきた。尚も手は聖柄に付いていた。足一つ分にまで近づくと、徐に刀を抜いた。

老婆の心は憎しみと生の執着であふれていた。生きるための糸口を、老婆は探していた

男が眼前に鋭い鋼の白い刃を突き付けた。そして余裕を持った声で言った。「何をしていた。言え、言わぬとこれだぞよ」

老婆は少し落ち着いた。このまま殺されることはない、ここで何をしてたかを語れば助かると、そう思った。気持ちの感度と振幅が激しくなった。少しでも隆起した希望は心の奥でとどまらず、顔にまで現れた。目を見開き、手を異常なまでに震わせ、歯を剥きだした笑顔をした。そして助かるという希望を胸に男にこの足元の死体がやったことを話した。

蛇を売った、男を誑かした、人を裏切った。すべて話し終わると、つい早口になったと思った。二分とかからず話した。男はしばらく思案した様子であった。その静けさは老婆の話の速さを裏目に出させるほど静寂だった。そしてその静寂は自分の鼓動さえ聞こえるほどの純度であった。

男が考えるのをやめると、またゆっくりと動き出した。そうして体を倒していた老婆の藍色の着物をはぎ取った。反射で取り返そうと男の裾をつかもうとしたが間に合わず、蹴倒された。男は暗い夜に溶けて消えた。老婆はしばらく寝ころんだ体制のまま、生き延びた喜び、着物を奪われた寒さ、夫が死んだ歓喜、少しの寂しさ、男への憎悪、女への憎悪、侮蔑、軽蔑、侮辱、そうしたことを整理するには、老婆の脳には時間を要した。全ての整理がついたときにゆっくりと体を起こした。女の着物と、髪の毛をもってゆっくりと立ち上がった。ひざと腰に痛みを覚えた。梯子を一段一段下りていき、最後の一段を踏み外したが、うまく着地でができた。その行為は、自分はなにをしても成功するという自信につながった。昼方にいた蟋蟀は、雨上がりの蛙に代わっていた。

 そうして自信と希望に満ち溢れた老婆の第二の人生が始まろうとしていた。一歩一歩歩き出し、黒い夜に吸い込まれていった。老婆が水死体で見つかったのは、翌の朝のことである。


{終}


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