表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

1996年夏 天国の旅

作者: 吉田幸三

序 文

 1996年7月、初めてポーランドへ行きました。その時、実に様々なことを体験しました。24年もの歳月を経た今になって、その体験から得た真実を追い続けることが、自分にとって一生のテーマなのだと自覚するようになりました。

 この春先、その旅の先々でメモしていたものを見直すうち、この時、フォークダンスを媒介として得た様々な体験。これらのことは、文字として残す意味があるのではないか、と思うようになりました。

 そこで、書くべきことを、大きな刺激を受けた16日間の旅の中の一日に絞りました。それは、心の奥深くにまで、最も強いインパクトを受けた一日の体験で、これからも自分にとって間違いなく、フォークダンスを踊り続けるエネルギーとなるものだと思います。その真実を「小説」の形で再生し、多くの人々に伝えてみようと筆を起こしました。しかし実際、当時のことを細部まで思い起こすことが難しく、何とか一つの形あるものに仕上げるのに、予想以上の時間を費やしてしまいました。当初は「小説」の形に仕上げるべく「創作」にかかったのですが、結果として、当初意図したものとはほど遠い、「フォークダンス紀行」になってしまいました。

 フォークダンスというものはただ、オバサン方が集まって楽しそうにワイワイやっているだけの、イマイチ理解できないもの、ワケのわからないもの、というような誤解を解いていただくための、何がしかの手がかり、参考になればと思うばかりです。

第1章

§1

 大学入学から半年以上が過ぎ、まだ11月だというのに、故郷・新潟では真冬でさえかつて襲われたことのないほどの寒さの支配する、弘前・津軽の初冬である。行きがかり上と言ってもいいのだろう。半ば強引に、最も不得意な分野、「踊り」の世界に引き入れられてしまった。

 それまで、中学校から7年あまりテニスに没頭して過ごしてきた。だから、体力にだけは人並み以上の自信を持っていた。かといって場の雰囲気を読み取るような融通のきかない、ガリガリの運動部・体育会系タイプの男だった。|それが、ホントにほんのちょっとしたキッカケから、あろうことか、すべて真逆のフォークダンスの世界へ飛び込んでしまったのである。

 大学祭後夜祭の後、たまたま教養部の英語クラス同級の男と、帰り道が途中まで一緒になった。この男は、クラスで名簿も近いこともあり、入学間もない頃から見知った顔の仲である。学祭実行委員もしており、前夜祭・後夜祭のファイヤー・ストームでは、燃え上がる大きな火柱を囲んで踊る大きな輪で、先頭に立って中へ入り、参加者の多くの者が見ながら踊れるようにリードする立場にもあった。

「どんだ? フォークダンス、面白かったベ?」

訛りの強い南部弁(?)で、ストレートに訊いてくる。

「とうとう最後まできちんと踊れなかったけど、なかなか面白かった。」

と返事をしようとする言葉を塞ぐように、

「どんだ? 明日のバンゲ、フォークダンス・クラブの例会あるはんで、来てみなか?」

と、かなり強引な誘いである。

 続けて、先ほど踊ったフォークダンスの踊りにはそれぞれどのような背景があり、どのように伝えられ広まってきたのか。さらに、フォークダンスを踊ることにはどのような意義があるのか。熱く、語り始めた。これは今まで何回か聞かされていたので、いささか食傷気味になっていた。しかし、この夜に限って、彼の熱心話しぶりから、どうした訳か、そもそもフォークダンスとはどういうものなのかということが、何となく理解できたような気がした。

 おおよその形も見えない、非常にうっすらぼんやりとしたものの存在を確認した時のような感覚の中に、ファイヤー・ストームでかの同級生の男が、学祭の前夜祭・後夜祭の時しきりに口にしていた「フォークダンスは、世界平和に貢献します。」という言葉が浮かんできた。その時、何とはなしに、それまで全く定まっていなかった自分の生き方・進む道が見えてきた。そんな気がした。

 そして、

「伝承されているフォークロアの踊りの数々、踊りに込められた人々の思いを、できることなら身近に感じてみたい。やがては、行ったことすらない地域の、ありとあらゆる人々の感触を、自分自身も直接感じることができるようなってみたい。体験してみたい。」

と思った。

 しかし、それらの「踊り」をきちんと身につけるには、まず基礎的なことから身につけなくてはならない。踊りを形作る様々な要素。「動き」「ステップ」「スタイリング」「音楽」そして「歌」。全て、そこに生活する人々の普段の暮らしを知ることにつながっている。専門的に言うと、それぞれ「民族性」に触れ、遡ることになり、「民俗学」の勉強にもなるのではないか。そこまで考えると、民族性の濃い「フォークロアの踊り」を踊ろうとすることは、これらのことを実地に体験し、知った上でなくては、一個の人間のあり方として不遜なのではないか。何より大切な、その後ろにある背景。踊りを形作った、見知らぬ数多くの人々の歌声、吐息、ぬくもりを自分の肌で感じ取ることができなくてはならないのではないか。

 「音楽」をつかみ、体で「動き」を理解してはじめて、「ステップ」をそれらしく踏むことができる。それに伴い、踊りを繰り返すことを通して理解し、それぞれの踊りの個々に応じた「スタイリング」も身につけることができるようになる。言葉を学ぶことによって「歌」の背景・意味も理解できるようになり、初めて「歌いながら踊る」ことができるようにもなる。これらの一つ一つが、その土地に大切に伝えられてきた「いのちある踊り」=フォークロア・ダンスが広がっていくことにつながる。かつて、狭い地域だけでしか生きることのできなかった人たちが、長い歳月をかけて培ってきた、生きた文化を正しく理解し、身につけることができるようになる。それがたくさんできるようになれば、真剣にそれを目ざして、フォークロア・ダンスを踊る人が多くなければ、世界中の人と人とはもっと仲良くなろうとするはず。そうなれば、人はもっともっと知らない人のことをよく知ろうとするようになるのではないか。フォークロア・ダンサーが多く増えれば増えるだけ、地球上には人と人との相互理解の輪が広がるようになる。それが、先々僕が「世界平和に貢献する」ということにつながっていくのではないか。

 大学1年の初冬、フォークダンス・クラブ入部直前の体験である。



§2

 爾来、フォークダンスに没頭。卒業後も、様々に変わっていく身の周りの環境の中で、人にどう思われようと、かたくなに自らのフォークダンスのアイデンティティーを守り通してきた。

 どちらかと言えば、世間的評価はマイナーな趣味の部類に属する「民族舞踊=フォークダンス」ではある。しかし、今までいかにこだわり、住む土地が変わり、仕事が変わり、周囲を取り巻く人々が変わったり、没頭しても、生活の全てを持って行かれることはなく、27年の間、様々な形で色々なフォークダンスを踊り続けてきた。そのなかで、ポーランドの踊りに対する執着は強かった。


 1年ほど前、結婚10年目となる1995年の夏、自宅から在日ポーランド大使館へ手紙を書いた。

「大学でフォークダンスを始め、踊り続けるに従い、貴国のフォークダンスに深く心惹かれるようになった。ついては、自らの状況の許す今、これらの踊りが生まれて来た、自分のいまだ接したことすらない、人々の息吹きと暮らしに触れてみたい。できるだけ早いうち、貴国の人々の生の生活、民間伝承、民俗慣習・フォークロアに触れる『民族舞踊の旅』を実現したい。1939年、ポーランド全土が、ポーランドの人々の意に反し、おびただしい軍靴に踏みにじられた。その後50年を経た89年。地球の歴史に確実に刻まれるだろう大事件が続いて起きた。ベルリンの壁は崩壊。今、それから10年も経っていない。ポーランドも、長いソ連の支配から解放された。今の、この機会にこそ訪れたい。」

とにかく、切々と訴えた。併せて、

「ポーランドのフォークロア・ダンスに直接触れ、体験することを通して、ポーランドの人々の、真に平和をこいねがう心情・実情に触れる経験をしたい。できることなら、かつてナチス・ドイツの置いていった負の遺産、ビルケナウ、アウシュヴィッツの両ユダヤ人強制収容所跡にも、自らの足で行ってみたい。時に意に反し、人類の織りなして来た理不尽な歴史一端を、この体で垣間見、地球に住む一人の人間として、自戒の意をこの身に深く刻み込みたい。よろしく取り計らっていただきたい。」

と訴えた。思えば、あまりにわがままで強引な要求である。

そして、

「民俗音楽、民族舞踊はじめ、自らの足でポーランドの土地へ行ってみなくては体験することのできない、数々のことを実現したい。学生時代から今まで二十数年の間、ポーランドをはじめヨーロッパに広く伝わっているとされる数々のフォークダンスを、様々な形で踊り続けてきた。自分では、それぞれの踊りの背景を調べ、不明な点については、踊られている土地のフォークロアを自分なりに想像し、学び取るべき伝統的なポリシーに触れて来たつもりである。そのことについて、自分自身の体を通して確認してみたい。こんなわがままが実現できるような、個人的なポーランド旅行をしたいので、協力をお願いしたい。できることなら、行く先々で、その地に伝わるフォークダンスを学び、実際に自ら踊ることを通して、先々、世界平和に貢献できるようにもなりたい。」

と、ひたすら訴える内容であった。少々ブッ飛んでいるのか、あるいはタガの外れた日本人、と思われたのかも知れない。よくある「冷やかし」の一つとしてボツになりかけたらしい。  

 しかし、それが「できることなら、この人物の希望を叶えてあげようか」となった結果、巡り巡って話がやって来たのが、ミレックの旅行社だった。「ミレック」というのは、親しい間柄の人が呼びかける時の呼称。1年前まで、在日ポーランド大使館に文化担当として日本に滞在していた人物、ミロシワウ・フブワシチャク氏である。現在ポーランド在住。ポーランドの田舎に住むエリートである。旅行社を経営し、このようなわがままな個人旅行をプラン・同行できる可能性があるという。今は、ポーランド南部シレジアの小さな町、タルノヴスキ・グウリに住んでいた。当時、「旅行社」の看板を挙げはしたものの、会社は「開店休業」に近い状況だった。後からミレックに聞いた話である。


 在日ポーランド大使館へ手紙を書いてから約半年の後、ポーランドから名古屋の自宅のパソコンに、ファックスが届いた。ありったけの勇気をふるって大使館へ書いた手紙の、返事が直接、ポーランドから来たのである。

 それから半年、ポーランドへ出立する直前まで、ミレックとはファックスで頻繁にやりとりをするようになった。半月以上一緒に旅行をするともなれば、お互い事前に知っておくべきことはいくらでも出てくる。それまで単なる情報交換のやりとりだったのが、お互いに仕事のこと、家族のことなど、深く知るようになるに従い、ともに親しみを感じるようになる。やがては、互いに「幸三さん」・「ミレック」と、ファーストネーム、愛称で呼び合う仲となっていた。



§3

1996年7月 ポーランド旅行初日・2日目

念願叶いポーランドへやって来て、ワルシャワ空港へ迎えに来ていたミレックと、あれこれ話すうち、

「もちろん『ポーランドのフォークダンス』はポーランドの人々にとっては、身の周りにごく当たり前にあるもの。ところが、多くの人々が心躍らせ楽しみ、大切にしている、この魂ある『フォークロアの踊り』の数々が、よその国、例えば日本へ来てしまうと、いつの間にか魂を抜かれて、どちらかと言えば形骸化したマイナー趣味の『民族舞踊』になってしまう。何故そんなことになってしまうのか。そのことに心を痛めているのです。」

と語るこの風変わりな来客を、ミレックはすぐさま大好きになったのだという。

 参考までに、

(1)タルノヴスキ・グウリは、バルト海からポーランド大平原を南へ約500㎞。北緯50.5度。日本近海で言うと、北海道のはるか北、サハリン中央部。オホーツク海・カムチャッカ半島先端と同じ緯度になる。したがって、夏の夜明けは日本の名古屋より1時間半ほど早く、日没は1時間半ほど遅い。

(2)旅する地域の古くから呼ばれていた「シレジア」の呼称が、由緒あるポーランド的名称「シロンスク」に改められた。土地に暮らす人々はほとんど例外なく「シレジア」と言っていたが、行政区分などを見ると「シロンスク県」と表記されている。



1996年7月 ポーランド旅行6日目

午後4:00頃

 シロンスク県タルノヴスキ・グウリ市のホテル「グヴァレック」横に、クルマは停まった。ミレック所有のクルマ、フィアット。ポーランドで代表的な国産車ということである。よく見ると、少々角張ったフォルム。積み木を組み合わせたような形状、と言えばいいのかも知れない。その辺の感想を抱くのが精一杯である。もともと文系タイプの人間で、クルマそれ自体にそれほど興味を持ったことがない。だから、かれこれとクルマを比べての比較などしたこともない。乗用車に関しては、特に外車がどうのという基本的知識もない。今まで日本でしか見たことがない情報のみである。

 フィアットが作られるようになって、ポーランド人の誰でもがクルマを持つことができるようになったという。日本で言ったらカローラみたいなものか。1年前まで日本で暮らし、日常的に数々の日本車に取り囲まれていたミレックにとって、最低限必要な物しかついていない、機能性重視のポーランドの国産車は物足りないのかも知れない。しかし、ミレックのクルマの助手席に座ってみると、改めて、運転席前のパネルなど、要らないものがゴテゴテついている日本車に比べ、このフィアットの方が、はるかに親しみが持てる。余分な装飾がなくても、最低限必要なものがきちんと整っていれば十分ではないか。|そんな気にさせられた。しかし、どうやらこれは僕の勝手な思い込みらしい。


 荷物を持って入り口へ。玄関入ってすぐの段階を数段昇った左に、受付窓口。僕の部屋は8号室。「85ズウォティ(日本円で2200~2500円くらい)」と表示が出ている。そこからさらに長い階段を昇る。2階へ上がって右へ折れると、その右に入り口がある。とにかく部屋へ入る。部屋は、まあまあの広さ。意外とゆったりとしたスペース。


5:00過ぎ

 ミレックが迎えに来た。別荘建造中だという郊外の土地へ行く。タルノヴスキ・グウリ郊外、ミコウェスカという森の中にあるという。家族と一緒にソーセージを焼いて夕食を一緒に食べよう、と誘ってくれる。

 クルマの中には、薄い金髪、やや細身の知的美人。ミレックの奥様マリオラさんと、クリクリした眼を輝かせている金髪の坊やが、2人乗っている。ミレックの家族との初めての対面である。ポーランド語で「ジンドフリ(こんにちは)」と挨拶して、クルマに乗る。クルマに乗ったその途端、クルマの中はミレックの家族の世界になっている。工夫された内装、何気なく飾ってある家族写真。家族のことをとても大切にしているミレックの人柄が、伝わってきた。

 タルノヴスキ・グウリの市街地を離れて北、ミコウェスカへ。やや大きな森を抜け、カーブを大きく左へ曲った先の左側に、囲いをしただけの土地がいくつか区切られている。レンガを積んで家を自分で造るのが、この辺ではよくあるスタイルらしい。

 さらに進むとあたりがちょっと開けた土地に、様々なデザインの新築邸宅が点在している。そして、グネグネ曲がってたどり着いたところ。町外れの大きな森が切り拓かれた土地である。小さな教会とマーケット。人々の集う広場らしきものもある。中央に、マリア様の像を飾った小さな祭壇・ホコラのようなものが、ひっそり建てられている。日本における道祖神やお地蔵様への信仰に、似ているのかも知れない。

 そこから200~300メートル進んだ左。50メートル四方くらいの土地が、柵で囲いができている。奥行きは見た目より距離があるかも知れない。ミレックの土地も、土台ができているところに将来の壁になるとおぼしき間仕切りが、レンガで積まれはじめている。地震のない国では、家を建てる基礎工事から、日曜大工でできてしまうのだ。驚くしかない。

 小屋の中でマリオラさんが、サラダを作りはじめた。ミレックは枯れ枝を集めて、ソーセージを焼く準備である。

「幸三さんはビール飲んでて。」

と、地元ジビエツのビールを勧められる。

 「ジビエツ」は、南のスロバキアと国境を接する、このシレジア最南端の町。この近辺の国境の町の、多くがたどってきたと同様の歴史を持つ。14世紀以降、実に様々な外敵により蹂躙され続けてきたらししい。

「シレジアへ行ったら、もっとおいしいビールを飲ませてあげます。」

と、ミレックの言っていたものだ。確かに、文句なしにうまい! と同時に、悲しい歴史の事実を知るほどに、苦みの奥に、この地にたくましく生き抜いてきた人々の息遣い、力強さが伝わって来るような気がする。

 子供たちは、道路の向かいの空き地で、シャベルで砂をかけあって遊んでいる。砂場のようなところで、何やら大きな声で叫んでいる。クルマに積んであったおもちゃのバケツとシャベルを振り回している。よく見ると始めのうちはシャベルを剣、バケツを楯の代わりにして、チャンバラのようなことをやっていた。それが時間の経つうち、エスカレートしてきたようだ。やんちゃ坊主のクリクリした瞳が、きらきら光る。とにかく元気な2人の息子だ。そういえば、日本にいるウチの息子どもはどうしているかな。

 石を積み上げて作った大きなかまどに、森から切り出してきた太い木材を入れて火をおこし、バーベキュー。ここまではミレックの仕事。

 ミレック手作りと思われるごっついテーブルを、マリオラさんは大きな白いテーブルクロスで覆う。家から持ってきたパンとスープ。するとそこへ、5人分それぞれの大きな皿に盛られた、心のこもったマリオラさんお手製のサラダの出現である。盛り付けは一見ざっくり、それでいて鮮やかな彩りにデザインされた、いささか華奢な感じさえあるのに、新鮮な野菜の香りがそこはかとなく鼻腔に漂ってくる、お洒落なサラダである。

 マリオラさんの甲斐甲斐しい、気の行き届いたもてなしが嬉しい。特にこの手製のサラダは、言葉にできないくらいおいしかった。この旅行での中で、とうとうこれ以上の料理に、お目にかかることはできなかった。

 ホテルへ帰り、公園を散歩。ミレックと近くのバルでビールを飲む。夜にはテレビを少し見て、ウォッカを飲んで寝る。



第2章

§1

ポーランド旅行7日目

7:00 起床

 昨晩、寝る前に飲んだウォトカが、まだ体に残っている。あと丸一週間、このホテル「グヴァレック」で過ごすんだ! タルノヴスキ・グウリは、シレジアの大都市カトヴィッツェの北に隣接する、かのゲーテが訪れたこともあるという、歴史的建造物の残る小さな古都である。

 あこがれのポーランド。そのフォークロアの宝庫。このシロンスクの地で、何が僕を待ち受けているんだろう。いやが上にも、期待に胸が膨らむ。

 シャワーを浴びてから洗濯。旅の相棒ミレックの奥様マリオラさんがやって下さると言ってくれているが、申し訳ない。ミレックが、ルブリンの宿舎の大学の寮の部屋で僕の持参した洗剤を使って、彼自身の衣類を手まめに洗濯している姿を思い出した。甘える訳にはいかない。

 実際やり始めたら、さあ大変。洗濯をするのは結婚してから16年間、ほとんど記憶にない。まして、自分で、手でゴシゴシもみ洗いし、すすいで干すなんてことは、中学校、いや小学校以来、35年以上はやったことがない。このホテル「グヴァレック」のおかみさん(?)がやってくれるらしいが、チップが要る。お金さえあれば何でもできるというわがままは、旅先では厳に慎まねばならぬ。特にこれは心にきつく戒めてきたことである。ああ! 大変。

 大奮闘することおよそ1時間。靴下はトイレへ、肌着・下着の類はは持参のハンガーで干す。それにしても、最高気温が20度を越す日がない。予想以上に暖かくなならいので、部屋干ししたら、乾くのに丸2日かかってしまった。

8:45

 朝食をホテルのおかみさんが持って来る。ポーランドの旅行に慣れた人ならば、お決まりのメニュー、見飽きた食物の盛り付けといったところに違いない。しかし、目下ダイエット中の僕にとっては、きわめつけの豪華版と言ってもいいメニューに思われる。とにかく、肉類・油脂分の多い食品が目立つ。食品学素人の僕にでもわかる。ポーランドの人たちはこれほどまでに脂っぽいものを毎食、食べないと生きていくことができないのだろうか。チーズ、バターは残す。ハムも半分ぐらい残してしまった。

9:15

 ミレックが迎えにやって来る。16日間、ポーランド滞在の旅に同行してくれた。彼の車に同乗し、彼の事務所「ポーランド・日本交流センター」へ。

10:00ごろ

 そういえば、日本を発って以来一度も連絡を入れていなかったと気づき、名古屋のわが家へ電話させてもらう。今は、日本では夕方の6時頃か。わが家のいたずら坊主、次男坊が電話口に出て来た。こちらへ着くまではっきりしていなかった予定を、後からファックスで送る旨、伝える。



§2

10:20ごろ

 昨夜来の雨の中、コニエツポールへ出発。

 今日行く予定のコニエツポールは、キリスト教ロシア正教の聖都チェンストホーバから東へ約25㎞。シレジア最大の都市カトヴィッツェから北東へ70~80㎞。「このタルノヴスキ・グウリからは60㎞くらいかな?」と、昨日ミレックは言っていた。

 ポーランドを車で旅行する場合、だいたい「60㎞=60分(1時間)」で計算すればいいので、計画を立てるのがとても楽だ。まず、車自体が少なく、交通渋滞などというものがない。道路は幅広く、大平原(=ポーレ)をまっすぐに延び、いつも見通しがよく、つとめてゆっくり走っても、時速60㎞以下のスピードになることはまずない。1~2時間続けて走ったら少し休んだり、行ったことのない所へは、地図で確かめたり人に道を尋ねたりしても、最終的に「60㎞=60分(1時間)」で計算すればいいのだという。

 雨の中の走行が続く。高速道と見まがうような幅広い道。時折、5~6階建てのアパートの並んでいる古びた色の団地を通り過ぎる。炭坑に勤める労働者向けの住宅地だという。

 いつの間にか雨は小降りになり、次第に視界がひらけてきた。窓の外、右も左も、見渡す限りの草原。一本にのびる道。牧歌的な気分で満たされる。クルマは、決して時速60㎞を切ることのないスピード。ほとんど停まることのないクルマを運転するミレックは、運転に集中し、とても寡黙になっている。話しかけるのも申し訳ない。助手席の窓から見えるポーランドの大地の様相を、この機会に深く刻んでおこうと、外の景色に意識を向ける。

 森を抜ける。いかにも、のんびりとした感覚。北海道の平原を彷彿とさせる光景。すると、森を突っ切って切り拓いたであろう先人の苦役を偲ぶことのできる、数百メートル続く森の中の道にさしかかる。森を抜けると視界が開け、見渡す限りなだらかな、丘陵一見お茶畑かとも思うほど丸く茂った低い落葉樹の灌木が畝をなして連なっている。道路両サイドは、ただ土をかき分けるように掘り進めて、道路を作った跡が残っているのだろうか。その向こうに広がる草原や畑より40~50㎝ほど盛り上がっている所の方が多い。

 百メートル四方ほどの、深い緑の樹々に囲まれた農家の住まいがある。その敷地の外れ。不思議な形をした大きな屋根は、作業小屋なのか。牧草などを貯蔵しているサイロなのか。そのむこうには、養豚場、養鶏場もあるようだ。高く架かる送電線。低く連なる送電線。低い電信柱は、色や太さも様々。よく見てみると木製が圧倒的に多い。工事中の鉄塔の形状は様々、種類が多い。

 地平線までずっと連なり広がる麦畑。耕作地ごとに色が微妙に違うのは、麦の種類が違うのか。耕作物は麦だけではないはず。何が作られ、出荷されているのか。売った収入で、どのように暮らしているのだろう。トウモロコシ畑はないようだ。今年の冬は非常に寒い期間が長く続いたとか言っていたから、そのせいでまだその時期になっていないのかも。

 彼方四方に広がる地平線を遥かに見渡しても、高いビルなど、近代的な人工物は見えない。黄色い絨毯の広がるような、菜の花畑。油を採る菜の花は、重要な天然資源だという。例年なら5月が花盛り・収穫の最盛期なのだが、今年は冬が非常に寒かったので、7月の今にまでずれてしまっている。

 よく見ると、土が剥き出しで広がっている所はほとんどない。また、真っ平らに、同じ状態で広がる草原というのはない。所々、刈り取った草が積み上げられたものか。2~3メートルの人工的な小高い山が散見される。干して牛たちの餌にするのか。

 牧草地や畑などの区切れは、大体が道路の進行方向に対して斜めになっている。つまり、もともとあった牧草地・耕作地の広がっていたところに、町と町、村と村を結ぶ道路が後から計画的に作られた、ということがよくわかる。


 田舎町「シェヴィエシュ」を過ぎ約10㎞。左方向への矢印で「キエルツェ」・「オルクシュ」右方向への矢印で「カトヴィッツェ」と掲示されている標識がある。続いてわりと大きな町「ザヴィエルチェ」。道が交差点から5~6方向に分岐している。きれいに整備された森の中に公園があるような、美しい光に包まれた町。学校の校舎。教会。修道院。ショッピングセンターの傍らを通り過ぎる。

 町外れ、建設材料の生産工場。見慣れない不思議な形の大きな倉庫。町を抜け、再びまっすぐな道路。道幅が広がる。大きな森を抜けると、風景が一転。地平線の彼方まで、麦畑が広がる。道路が非常にゆったりと、上がったり下がったり。大きく右へ左へと弧を描く。途中、町はあったはずなのに、クルマはほとんどノン・ストップ。

 やがて雨もあがった。雨に洗われた直後ということもあろうか、木々の緑にことさら美しくシルエットの浮かび上がる、いくつかの教会の傍らを通り過ぎる。

 通り抜ける両サイドに展開する森の樹々の様相が変わる。密に自生した樹木の群生なのか。とがった濃い緑の葉をつけた、杉に似たたたずまいの、丈の高い樹々が、左右の森を埋めている。

 森を貫く道路の側道の所々に、大小のバケツを並べ、朝のうちに森から採ってきた様々な種類のキノコを売っている人がいる。驚くほど安く、実に様々な種類のものが売られているらしい。しかし、森には毒キノコもたくさんあり、毎年のようにキノコの毒で死ぬ人がいるので、キノコ狩りには資格が必要になったという。

 標識に土地の名称「レルフ」の表示。再び、菜の花畑が広がる。ゆったりとした平原。地平線の彼方まで広がる牧草地には、草を食む大小の牛がシルエットのように浮かび上がっている。

 牧畜農家の家か。数十メートル四方ほどの囲いの柵。牛は実に様々な大きさ。黒白の(まだら)模様から、輝くような焦げ茶の体毛のものまで。色も様々。動きは非常にゆったり。実に長閑(のどか)。牛たちはもちろん、ここに起居する人々の時間の流れは、実にゆったりとしているのだろう。何故か羨ましくなってくる。道路の右側、白黒まだらの大きな牛を追い立てながら、うつむきがちに歩く人を追い抜く。

 道ばたに咲乱れる小さな花々が、先ほどまでの豊かな雨の精を浴びて、キラキラと輝いている。愛称「スノー・ドロップ」と呼ばれる、白い小さくお辞儀するように咲いている、鈴蘭のような花弁の花。垂れるようにわずかに揺れている。日本的に言うと「マツユキソウ」ということになるらしい。さらに良く目をこらしてみていると道の側道の所々、紫色の頭が密生して並び、目立たぬように固まっているのは、クロッカスなのではないか。素人目の勝手な判断なのかも知れない。草原の中に、グリムやアンデルセンの童話に出てくるような、三角屋根に四角い煙突。マッチ箱のような形をした小屋が、そこここに点在している。

 道路はゆったりとした下り坂になって来た。道路沿いにゴツい建物が続く。レンガ造りのように見える。農業用倉庫かも知れない。急に、工場の建物。さっき通り過ぎたのとは、少しタイプが違う。何を作っているのだろう。

 道路の道幅が狭くなる。ゆったり、右へ左へとカーブ。見通し悪い田舎道のよう。とは言っても、日本とは桁違いに先を見通すことができる。一段とスピードを増したクルマが進む右に、見渡す限りの草原が、白っぽくたゆたうように広がっている。と思うと、左には、点在する森の合間に薄白く輝く麦畑が、幾畝にもわたって続いている。放牧されている白い牛、黒い牛。

 雨が降っていたせいもあってなのか、人の姿はほとんど見えない。たまに通り過ぎる人たちは一様に、とにかくゆったりとしていて、日常生活に追われているようには、とても見えない。

 道路に沿ってずっと細い電信柱が延々と続いている。両側が小さく盛り上がった丘の間の道を縫うように進むと、眼前に薄緑色に光を蓄えた耕作地が広がっている。何を育て、収穫しているのだろう。

 茶色の体・栗毛のがっしりとした馬に、トラックの後ろのような形をした荷台、背丈の倍ほどもの高さの大きな箱が引かれている。そこには収穫したものなのか、刈った草なのか、ヤマほど積み上げられ、後に人がついてゆっくり進む。

 窓の右には、牧草地のような草原が広がっている。ゆうに時速70~80㎞ぐらいのスピードを出しているので、日本の道路をドライブする感覚、距離感、広さの把握・理解の肉体的反応からしたら、基本となる感覚そのものが、かなり違っているのではないか。まさに、北海道の平原を進むような距離感覚である。

 植物に詳しい人なら瞬時に判断・識別できるのだろう。道路からやや離れたところに点在する、灌木の塊・群生。緑の濃いもの、茶色の幹の色の目立つものなど、黄緑の葉の実に様々な植生を展開していることが観察できる。


 ついこの50年ほど前まで、見知らぬ国の軍隊に蹂躙され続けた、この土地の人々のたどった、悲惨な歴史に思いを致す。言葉を選びながら、

「豊かなこの土地は、外国の軍隊にとって、戦争にはつきもののおいしい戦利品。何とかして手に入れたい、ぶんどり合戦のご褒美だったんですね。」

と質問すると、

「ポーランドの土地はいつも外敵に狙われていました。」

ぽつりと語るミレックの言葉。一瞬間を置いた返答を聞いて、つい考えてしまう。

「国民性がもともとお人好しがゆえ、いつも人から騙されてばかり。戦う力を持っていなかったから、いつの間にか、軍事力のある外国勢力からいいように土地をぶんどられ、国を壊されても、ただじっと耐えているしかなかった。ここは、心優しい人々の住まう国、ポーランド。しかし、この生き方こそが、これから、世界中の人類の全てが真に見習うべき、平和を愛する者の生きる姿なのではないか。」

 側道には、列をなして黙々と歩く巡礼の人々。グループで固まって、聖地チェンストホーバのヤスナグラ修道院を目指しているという。ちょうどその時節なのだという。心なしか、四国88カ所の寺を巡って歩くお遍路さんの姿を彷彿させる。

 敬虔なカトリック教徒の多いポーランドでは、とりわけ聖母マリアへの信仰があついという。17世紀、スウェーデン軍がポーランドへ侵攻した時、ワルシャワ、クラクフまで占領しようとしたが、ヤスナグラだけはスウェーデン軍に屈しなかった。この時、修道院に火がつけられたが、聖母マリアの顔を描いた板だけがススで黒くなって焼け残った。これは聖母マリア様のもたらした奇跡と伝えられ、この焼け残った板は「黒い聖母」の異名で呼ばれ、多くの人々の信仰の対象となっている。実際の聖母昇天の祝日は8月15日だが、一目だけでいいから、「黒い聖母」をこの目で見たいと、ヨーロッパ各地から聖地チェンストホーバのヤスナグラを目指して歩く人の数は、数千万人にも上るようになり、7月のうちからチェンストホーバを目指す巡礼者は多いのだという。 


 コニエツポールは、かつてのポーランドの代表的貴族、ポトツキー家の居住地だった、ゆかりの土地。タルノヴスキ・グウリから60㎞少々の距離とのことだった。美しい湖が点在する土地だという。美しい森と湖に囲まれたリゾート地として有名ということで、あちこちに別荘も点在しているらしい。目の前には、眩いほど豊かに緑が輝いている。

 なるほど地図に目をやれば、緑の草原に、大小様々いくつもの湖沼の点在する様子が覗い知ることができる。目の前に展開する木々の葉の鮮やかな緑、ポーレ(草原)の葉の一枚一枚に、天のもたらした雨の精がずっしりまとわりついて、陽の光を浮かび上がらせている。何と言って形容したらいいのだろう。まるで「天国の庭」を進んでいるような心地がする。

 コニエツポールへ向かう途中、地平線まで続くかと思われるほど、どこまでもまっすぐに続く道路を進みながら、夢の中を漂うような気分に浸っていた。すると、不意に視界に飛び込んできた「右 オフィシエンチム」の掲示。右の道を進めば、ナチス・ドイツによる、悪名高き負の遺産、「アウシュヴィッツ強制収容所跡」の爪痕(あと)が残っている。


 レンガ造りの人家が続く。ちょっとした町の入り口らしい。小さな村にさしかかる。すでにコニエツポールの町にさしかかっているところのはず。さらに、古いたたずまいの教会。学校のような大きい公共施設。そしてマーケット。焦げ茶色の2~3メートルの高さの塀が続く。人が住んでいるらしい、三角屋根の白い民家。コニエツポールはミレックも初めて来る町だという。

 子供の歩く姿が描かれた菱形の、黄色い道路標識。三角の黄色い標識。風船を手にした子供の姿が抽象的に描かれている。日本では決して見ることのない、じつに個性的な標識だ。その向こうに高さ2メートル弱ほどの、黄色く縦に細長いポリス・ボックス。親子が手をつないで歩いているような絵の描かれている、黄色の三角標識。

11:40ごろ

  道の右に「ドロフリン」と読み取れる標識。地図を見ながら地名を声に出して確かめていると「あと少しで着きますよ」とミレックの声。あと7㎞ぐらいか。

12:00

 「コニエツポール文化センター」を目指し、道を尋ね尋ねて進む。200メートルほど先に、人の歩く姿が見える。クルマのスピードを緩めながら、ミレックが

「あの人に訊いてみよう。」

と、男性の傍らにクルマを停めた。ブロンド・ヘアーの細身、長身、茶色っぽい赤ら顔の男性である。

僕は助手席のウィンドウを開け、

「プシェプラシャム(すみませんが)!」

と、声をかける。ミレックが助手席に座っている僕の前に上半身倒れ込むように、外へ向かって、

「プロシェン・パナ(ちょっとお願いします)」

と声をかけ、続けて、

「文化センターへ行く道はここでいい?」

と訊いている。すると、おもむろにこちらを向いて、

「ちょっと行ったら右、そしてすぐ左へ進む。暫くまっすぐ行くと、右に見えてくる。橋を渡ったらすぐだ。せいぜい2㎞も進めば着くよ。」

ポーランド語習いたての僕にもわかるぐらいわかりやすい話し方で、ゆっくりと、しかも3回も繰り返して説明してくれた。非常に親切。こちらが理解できたか、繰り返して確認。身振り手振りで、精一杯伝えようとしている。

お礼を言ってクルマが動き始め、彼の丁寧さを僕が感心していると、ミレックが一言、

「あれは、昼間から、かなりお酒を飲んでいますよ。」

とのこと。

「なーるほど」と、変に納得。顔が赤らんでいたのは、酔っ払っていたからなのか。でも、悪い人じゃなくて良かった。


 ほぼ道なりに直進し、郵便局前を過ぎて100メートルぐらいの左角に「コニエツポール社会保障事務所」。突き当たりのT字路を右折して100メートルぐらいでまた左折。細い川に架かる小さな橋を渡る。このか細い川は、ポーランドの大地を南北に縦断する大河ヴィスワの源流にほど近い上流、ピリツァ川だという。市の中心街から少し離れた、小さな住宅街のはずれ。ほどなく右に、目的地らしきがっしりとした3階建て、シックなデザインの白い建造物が見えてきた。

 かつてのポーランドを代表する有力貴族、ポトツキー家の宮殿だったという。ナチスに没収される1939年まで個人による所有だったらしい。落ち着いたたたずまいの石造り。いかにも古風な趣きを漂わせ、幾星霜の歴史を経てきたことを(うかが)い知ることができる。かなり大きな建物だ。敷地全体が楓の林の中。綺麗に刈り込まれた草木を吹き抜ける雨あがりの風が、肌に冷たく心地よい。

 庭園の造形が、どのような趣なのかよくわからないが、文化センターは、とにかく古い風格を感じることができる。近くによって仰ぎ見ると、予想以上に重量感があり、大きな建物のように感じられる。この建物の最上階には、舞台のあるホールまで設備されているという。

 正式にはコニエツポールにある「スポーツ文化センター」ということで、コニエツポールでの、市・郡役場管理の役目も併せ持っている。2年前、コンビニも付属の建物の中にできたということで、今日、日曜の午後、教会で礼拝を済ませたらしい、町の人々の姿がチラホラと見える。、市民ならば誰でも、舞台公演は無料で見学できるのだとか。



§3

 3階建ての建物のエントランス前、やや広いスペース。入り口でミレックと立っている

と、薄い水色ワンピース姿の金髪のすらりとした女性が、急ぎ足でやって来る。ここの舞踊団「マグジャニ」の創設者で団長さんのクリスティナ・ミコチャック女史。ひとことふたこと、挨拶を交わす。ミレックと交わした会話の詳しい内容はよくわからないが、彼女が心から歓迎しているという表情が表れている。

 中へ招かれ、上階の所長室へ。何故か、新聞記者がいる。カトヴィッツェにあるポーランド南部の代表的新聞「ジェニング・ザホドニ」社の「トリビュナ・シュロンスカ」紙で、全国四大紙の一つでもあるという。ミコチャクさんとの話より、女性記者によるインタビューの方が中心となって話が進む。

インタビュー#1

「どうして、日本からやって来たのですか。」とか、「ポーランドの何に興味を持っているのですか。」など、次から次へと質問が続く。

 所長さんがとても優しい。にこやかな笑顔で、コーヒーを勧めて下さる。そう言えば、来る途中クルマの中で<ミレックからは、新聞のインタビューがあるかも知れないと、あらかじめ知らされていた。それで多少用意していた返答を、まとめて一気に話す。

 「ポーランドの音楽と踊りがどうしてこんなにすばらしいんだろう。心を打つのだろう。学生時代、弘前大学FDCで28年前にポロネーズ、26年前にクラコビアクに触れてから、僕の人生は大きく変わりました。それ以来ずっと、世界中の民族舞踊=フォークダンスを踊り、趣味として来ているのですが、死ぬまでに一度でいいから、その魂のふるさとポーランドへ、何としてでも来たかった。どうしてこんなにまで音楽は美しく、この素晴らしい踊りには、心が震わされてしまうのだろう。実際にポーランドへやって来て、ずっと追い求め、捜して来た答えが、少しわかりかけて来ています。本当にどこまでも人のいい、良心の塊みたいな人たち。豊かな大地と自然。今まで不思議でならなかったのですが、それにしても、どうしてこんなにまで、ポーランドの踊りを踊るポーランドの人たちが、誇り高いのか、今、わかりかけてきています。つまり、これぞまさしく、ポーランドの人々自らの持つ文化への絶大な自信の現れ、とでも言うべきもの。これまで、自分たちポーランド人が織りなしてきた歴史にこれからの人類の規範ともすべき自尊心。愛国心なのだと、強く心に刻み込まれて来ています。」

というようなことを言った。


1:00

所内の喫茶室でコーヒーをいただき、団長の指導者、ミコチャク女史と話をする。ミコチャクさんは、大学で比較民俗文化を専攻され、研究されている。そのかたわら、このセンターに週2回通って来て、若者たちにダンスを指導しているとのことである。

 この舞踊団の名前「マグジャニ(MAGURZANIE)」は、ポーランド語の「昔の」の意の「マ(Ma)」と「山」の意の「グラ(Góra)」から来ているという。1984年にできたばかりの舞踊団で、8人の専属楽団の他に、中心の団員は14才~26才の若者が30名。そのOB、OGも加わり、興味を持って踊って加わっている43才~60才のメンバーもひっくるめて、全部で50人ぐらいで構成されている。中学生・高校生は週に2回、学校のクラブ活動の時間帯、学校で勉強しているのと同じ扱いを受けることができるのだという。この土地の人が皆協力し支えてくれている甲斐もあって、ダンスの実力を養い、展望性のある日々の活動が展開できているのだという。

 細かくは、7クラスに分かれていて、原則的には、14才から結婚するまで、ということらしい。誰かが結婚するときなどはもちろん、みんなとっておきの民族衣装で着飾って祝福し、楽しんで踊るという。年に2~3回、国外公演へも出かけているらしい。

 詳しい説明の一つ一つが、確実に僕の心のカメラに映し出されているか確認するかのように、僕の目の奥を覗き込むように、しっかりと見つめながら、ていねいに、そしてかみしめるように話す。水晶のように薄青く透き通って美しい、ミコチャクさんの瞳。日本の人たちに、自分たちの文化としての踊りをこんなに大切にし、踊っている集団がいることを伝えてほしい、ということを言われる。

 3階、ホール外のエントランスに、三々五々、団員が集まって来る。僕が来るということで、メンバーも張り切って、今日は早めに集まって来ているらしい。喫茶室のある反対側の少々広いスペースで、ラフな格好をした若者たちが、てんでに椅子を引っ張り出してきて、またがり、もたれかかったりしながら、ビデオを見始めた。皆ワーワー言いながら夢中の様子。一昨年、ベルギーでの公演(?)のビデオだという。ふと、聴き慣れたポロネーズの音楽が、耳に飛び込んで来る。しばらくして、マズールのメロディーも。

 喫茶室入り口前のテーブル席を立って近くへ行くと、若者が椅子を勧めてくれる。ポーランド語で「ありがとう」と言って、ビデオを見せてもらう。ミコチャクさんが、ちょうどいいところまで巻き戻すように指示する。

 テレビの画面では、15~17才くらいの、今、目の前で一緒に並んでビデオを見ている女の子、若者たちが、写真で見たことのあるポロネーズの衣装を身にまとい、貴族になりきって踊っている。

 続いて画面は、マズールの踊りに切り替わる。町の広場の隅にセットされた、狭い舞台で踊っている。若いダンサーのレベルは想像以上に高く、この踊りならではの細部にわたるここのフィギュアの表現は、ポーランドの民族舞踊らしさにあふれている。狭い舞台でありながらそれなりに、ポロネーズらしく、マズールらしく振り付けられている。

 画面に張り付くように見続けること、20分くらい。ポーランド・ダンスならではの、洗練された、流れるような展開と表現を期待して見ているのだが、どことなくバタ臭い感じは否めない。それはそうだ。「シロンスク」や「マゾフシェ」みたいに、あらゆる分野の優れた人材の中から選び抜かれた、とびきりうまいプロのダンサーが集まっているわけではない。純粋なアマチュアのグループで、それぞれが学生であったり、仕事をしていたりしているのだから。|ある意味、心なしかホッとする。ビデオを見ながら、一つ一つの動きに思わず激しく反応してしまう。そんな状態に陥りつつある僕のすぐ後にミコチャクさんが座っていた。

 ビデオを見ながら、メロディーを口ずさみ、体を動かしながら喜んでいる僕を見て、団員の若者たちも、自分たちと同じ世界の仲間であることを嗅ぎとったのだろう。いつの間にか僕の周りに群がり、僕の来訪を歓迎してくれているみたい。その様子から、彼らの心理的な模様が、はっきり伝わって来る。


 ビデオが消された。僕を歓迎する歌をみんなで歌ってくれるという。しっかり録音できるように、さっきまで楽器の音合わせをしていた楽団の人たちの前へ、カセットテレコを持って行く。リーダーらしい体格のいいおじさんが、にっこりと笑ってバイオリンを肩に乗せる。一息の後、ホール全体に歌声が満ちわたる。

 そのほぼ中央に、ブロンド・ヘアの好青年が半ズボンのラフな格好で椅子に浅く腰かけ、熱心にアコーディオンを弾いている。やがて、僕の存在に気づいたのか、明るく微笑みかけるような視線を送ってきた。そのアコーディオンを取り囲むように、リラックスした表情の少年少女たちが十数人。同様に椅子に腰かけ、独特のメロディー、節回しの歌を歌っている。耳を傾け聞き入るうち、彼らの歌う姿を視界に収めたいという衝動からなのか、知らないうちに自分も立ち上がっている。

 今日の公演演目に出てくる踊りの練習だという。2~3分見ていたら、傍らに立っている僕の体が勝手に動く。リズムに馴れ、メロディー・ラインが変わって来るに従い、小さく左足ホップ2回しながら、左足内側を右足内側へ揃えるように2回打ち付ける。続いてその場に右左右と小さく3歩踏む。気がつけばいつの間にか、ホウビエッツのステップを踏んでいる。

 暫くするうち「客人」は、すっかり彼らの「仲間」として受け入れられたようだ。

 ハーモニーが幾重にも折り重なって、厚みと暖かみを増幅している。フロアーの隅では、山の中の木こりと見まがうような、図体の大きな体の男がチェロを弾いている。低い音階の連なりが、心の襞の奥深くにまで響き、染み込んでいくようだ。輝くような金髪、中学生ぐらいの少女の、透きとおる高い裏声。年若い女性たちの声が、特に澄み切って張りがあり、声量がある。どこまでも透き通るような、とても美しい、天使の声のようだ。思わず僕も、得意の巻き舌で喉奥をいっぱいに開け、裏声を高く響かせる。

 よく見ると少し離れた所には、小学校に入学したかどうかくらいの、かわいい顔立ちの年ごろの子供の姿も見える。本来なら終わっているはずのメロディーが、特別バージョンらしく、オプションで、繰り返し演奏されている。場の雰囲気を読んで雰囲気を盛り上げ、進めていく演奏ぶりが好ましい。

 一旦終わったところで、ミコチャクさんから何やら指示が飛ぶ。一息ついてさらに違う曲の演奏が始まる。今度は、バイオリン、ビオラ、チェロ。そしてクラリネットが加わってきた。居合わせる全員が、嬉しそうに歌い始める。そして、裏声、指笛、口笛を吹く者も。この場に居合わせる者、それぞれが好きな形で歌に加わっている。若者たちの多くはブロンド・ヘア。ほとんど茶色に近い者もいる。透きとおるような金髪もいる。当然のことながら、彼らにとって髪の色は問題ではない。

 女の子は、カールした短いヘア・スタイルの子が2~3人。長い髪の子は、お下げ髪を一本の三つ編みに束ね、背中へ垂らしている。短い髪は短いなりに、長い髪は長いなりにまとまっている。しかし多少の乱れがあっても、彼ら自身にとっては、全く意に介すべきことではない様子。ざっと見て、やはり大雑把。ポーランドの国民性なのか。服装も、全くまちまち。それぞれが家の中にいるそのままの格好で、着替えることもせず「文化センター」に集まってきているようだ。


2:00 所長室へ

 所長室に案内され、改めてミコチャクさんを紹介され、挨拶する。ミレックから前もって僕のことは聞かされていたという。

 ミレックがどのように言っていてくれたのか知らないが、会って初めての人から、

「幸三さんのような素晴らしい方に来ていただけるなんて、この上ない光栄です。」

などと言われてしまった。

 市長が僕を訪ねて文化センターへ来てくれたとのこと。案内されて部屋へ入ると、ビヤ樽もどきの太っ腹。しかしこれでも、この種の人たちの間ではSサイズなんだろう。なんでも、この市に日本人がやって来たのは全く初めてのことで、市をあげてびっくりしているのだということ。

 「ジェニング・ザホドニ」社の記者インタビュー#2。市長を交えて、質問が延々と続く。僕が

「ミコチャク女史をはじめ、この町全体が若い彼らをとても優しく見守り、育んでいるように感じられてならないんですが。」

と言うと、すぐさま市長から答えが返ってきた。

 「マグジャニ舞踊団」の公演は、ふるさとシレジア=コニエツポールに伝わる学習プログラムの重点となっている。それで、コニエツポール文化センターの活動は地域青少年に対する、文化教育活動、生活文化学習活動の一環として、町を挙げて取り組んでいる。というようなことを言う。その証しとして、「マグジャニ」に所属し活動している中学生・高校生は、学校での週2回のクラブ活動は免除しているというのだ。

 政治家独特の長広舌には辟易したが、この小さな町のみんなが誇りを持ち、この「マグジャニ」をバックアップしている。ミコチャク女史への信頼も厚く、指導者と若者たちどちらもが真剣に、情熱的に取り組んでいるのだということが伝わってきた。

 その後、昼食を招待してくださるとの所長さんのはからい。所長、市長、ミコチャックさんとミレックで建物の外へ。文化センターの裏側に、水の入っていない修理中のようなプールがあり、その手前に面して、合宿用の寮のような建物が建っている。その中央部の入り口から入り、突き当たりを右に曲がってすぐ左の部屋に案内される。

 市長がしきりに「プロシェン・ピヴォ」(ビールをどうぞ)と勧めて来る。ついつい調子に乗って、ジョッキみたいに大きなグラスに、ジビエツのビールを2杯もいただいてしまった。とてもうまい。スープもおいしい。サラダに肉料理に相性のいい「フレップ」という、ライ麦から練って作った黒パン。チーズにバター。次々に出て来る。そういえばポーランドでは、昼食がいちばんしっかり摂る食事なんだっけ。

 所長室へもどり、「ジェニング・ザホドニ」社の記者インタビュー#3。いやはや、もう大変。延々と4:00近くまで、また30分ぐらい。その「記者魂」に閉口する。



§4

4:00

 舞台でリハーサルをやるというので、見学させてもらうことに。今日これから舞台でやるフォークロアの踊りの公演プログラムに沿っての、踊りの打ち合わせらしい。

 まず、4~5人の男が、舞台の中央を時計と逆回りの方向へ、少々音を立てながら床をこするような特徴あるステップで歩き始める。その輪の外側に、それぞれのパートナーらしい長い金髪お下げ髪の少女が、肩がつくぐらいに近づき、並びながら歩く。左手を彼の右手と低く連手し、一緒に歩く。舞台中央から離れた所にいてその様子を見ていた者たちも、ステップの音につられるように、それぞれカップルになりながら踊りの輪に加わる。舞台の上が練習場のような雰囲気になる。

 やがて、メンバーかほぼ舞台に集まったようだ。するとそこで一旦ストップ。見ると、一息ついた後、円の中央にいた普段着のままの、背の高いブラウンの髪の若者が右手を高く掲げ、二言三言、抑揚の強い言葉を繰り返す。舞台が大きく切り替わる、非常に特徴ある場面のようだ。再び歩き始める彼らのステップの音に促されるように、力強いアコーディオン演奏が始まる。団員の若者たち数カップルが踊り出す。

アコーディオンが、先ほどのメロディ、始めの4小節をリーダーの指示に合わせるように繰り返す。そのゆったりとした2拍子リズムとメロディーに促され、舞台の袖や奥に散らばっていた男女。男性の背丈は、おしなべて僕より高く、スラーッと均整のとれた体つきである。「男性」というより「男子」というべき年齢か。女子は男子たちとほぼ同じか、背丈が少々低い者もいる。そういえば、僕らも昔、中学校入学ぐらいまでは体の大きさに男女それほどにの差もなかったが、中学校入学後まもなく、男子の方が体全体が大きくたくましく成長したという記憶がある。まさにその年代の子供たちが踊っているのだ。伝統ある国立民俗舞踊団「シロンスク」の本部が近くにあるということも、彼らをポジティブな行動に駆り立てているのだろう。

 上はTシャツ、ジャージー、パーカー、ランニングシャツ、作業着もしくはチョッキや薄いカーディガン。下はトレパン、ジーンズの短パン、ブカブカの半ズボン、ヨレヨレのスラックス。よく見るとスカートをはいているも女子もいる。しかし、着ているモノだけ見たら、男女の性別を感じ取ることはほとんどできない。髪は、茶色っぽいブロンド、金髪、小麦色に近い銀色など。靴も思い思いの、個性的なものを履いている。しかし皆、動きやすく踊りやすそう。

  舞台の上、前面に近い袖に立ち、様子を眺めている。しばらくすると、ミコチャクさんがすっと近づいて来て、僕を踊りの輪に誘い込む。一緒に動きながら、何とか僕にもできそうな部分の動作を説明してくれる。僕がミコチャックさんの教えることをすぐこなし、団員と一緒に踊ってしまうので、みんなびっくりしている。

 今度は皆で大きなシングル・サークルを作り、両手を腰にとり、歩き始める。メロディー2回の繰り返しのうちに、そこそこの人数の輪ができる。すると、踊りの輪は進みながら、男子円内女子円外で、男女それぞれ肩を寄せ合うように手を取り合い、舞台の上を進み始めた。隊形は、並んだカップルのサークルへと変化する。

 右手を体側下へ伸ばし、ミコチャクさんの左手と低い位置で取り合う。左手は4指揃えて開き、開いた親指と人差し指で、外側からウエストを押さえるようにして腰にとる。足元をよく見ると、皆、この辺、山岳地域の労働者の履いていたサンダルから進化したとされている、豚や羊の革で編み上げた「オパンケ」と呼ばれるサンダルのようなものを履いている。軽くて動きやすそうな履き物である。バルカン地方の踊りでは昔からよく見かける。

 メンバーの中の長身、リーダーとおぼしきランニングシャツ、長めの半ズボン、眼鏡をかけ、少し口ひげを蓄えている男。左手を高く掲げ、大きな声で一言二言、かけ声をかける。雰囲気から「さあみんな、踊ろうじゃないか。」とでも言っているようだ。独特の方言の入った言い回しなのだろう。ステップは、ゆっくりとした、小節の後にアクセントのある、特徴ある2拍子。音楽に合わせてただ歩くだけ。簡単。

 逆時計回り方向にどんどん進む。あらかじめ決まっているカップルなのか。8小節も進まぬうちに、全員の息がピタリと合っていることに気づく。サークルに加わり、同じ円周上を同じように歩いてみると、それだけでこのグループの生の鼓動が伝わって来る。

 動き始めて4小節。メロディー2回の繰り返しの後、皆、大きな声で歌い始めた。「歓迎の歌」とでもいうところなのか。娘たちの高い裏声が、ホールいっぱいに響きわたる。やがて、再び演奏のみに。すると4小節ごと、小節の終わりのたびに、進むスピードを少し落とし、小さくトントントンと3つ踏むスリー・ステップ。2回繰り返したら、低くつないでいる手でパートナーを体の前に引き寄せ、手を持ち替えながら外側にいる女子が男子の前を素早く左回りして、円内へ入り込む。ミコチャクさんのリードもあったからかも知れない。今まで全く見たこともない踊りなのに、見よう見まねで何とか踊ることができる。歌なしのまま、踊りは続く。

 8小節繰り返しの後半、メロディーが少し変わる。変わるのに合わせてスリー・ステップ。それを何回か繰り返す。踊りの輪は、時計と逆回りの方向へどんどん進む。足の裏を床にこすらせるようにステップしているらしく、オパンケのこすれる音が響く。続いて、メロディー最後の2小節で、カップルは近づき、連手のまま、男子後退女子前進で半回転し、踊りの輪は時計回りの方向へ進む方向を変える。そして、暫く進むと最後の2小節で再び向きを変える。次はメロディーの最後、スリー・ステップの時に、男女それぞれ手を離し、進行方向へ向けそれぞれ外回りに半回転して向きを変え、それぞれ内側の手を相手の腰の後へ伸ばし、腰の高さで外側の手とつなぎ、バッククロス・ポジションとなる。同じことを数回繰り返す。玉の転がるような、アコーディオンの鍵盤技巧も鮮やかに、弾むように、民族性豊かな独特な音楽を、上品な舞踊メロディーに浮き上がらせている。

 ここまでのパターンを3往復ほどすると歌が止み、バイオリン、チェロなどの入ったオーケストラ演奏だけになる。アコーディオンの音がメロディーを際立たせ、メンバーはしっかりと体にリズムを乗せ、歩き続けている。オパンケの靴底のこすれる音、シュラネ・ステップの音が響き、振動が心地よく体幹に伝わって来る。やがてメンバーは、大きな声でアコーディオンの導く旋律を歌う。形はクラシックでありながら、表現者の思いが加わり、民族性・土着性の強い、フォークロアの音楽になっている。

 次はメロディーの変わり目、スリー・ステップの時、男子は女子の内側の手を胸前にとり連手。心なしか、小節最後のスリー・ステップが、大きく強く強調されて踏まれるようになって来た。つないだ手を前に伸ばし、男子は女子を導くように行進する。それだけだと思っていたら、4小節ごと、小節の変わり目に、胸前につないだ手を高く挙げ、その下で女子を左回りに1回転させる。これを何回も繰り返す。これくらいなら、見よう見まねですぐできる。フォークダンスの心得のない者には、難しい動きである。この部分は長かった。おかげで、何とかそつなくこなして動き、楽しめるようになって来た。


 暫くすると、メロディーが若干変わる。音楽のテンポが多少速くなったか。女子の裏声が高く響く。幾人かの女の子がそれぞれに、高い裏声で歌い、競う。バッククロス・ホールドのまま、踊りは進んでいく。踊りは、小さな物語を表現しているかのようである。

 1.男子の歌う部分=男子がちょっと気になる女子を見つけて、声をかける。

 2.女子がそれに応えて歌う部分=女子がそれに対して、あれやこれやと注文をつけたり、わがまま言ったりする。

 3.男女が声を揃えて歌う部分=二人で意思の確認をしながら、行きたい所、やりたいことなど、あれこれ相談する。

といったパターンのようだ。

 切れ切れだった2拍子の音楽が、いつの間にか、普通に歩いて前進することのできる、流れるような4拍子のリズムに変わってきている。踊りは、先ほどと同じパターンの動きを繰り返している。全員が大きな声で歌いながら、パートナーと仲良く、男女それぞれパートナーのウエスト後ろへ回した手でその重みを感じ、相手を支えて踊っている。始めのうちは、皆の動きに決して後れを取ることのないように、と必死で動いていたが、馴れてくると踊りの変化に何とかついていけるようになった。パートナーとして踊ってくれているミコチャクさんのおかげだとは思うが、一緒に踊っているこの若者たちにとっては、滅多に見ることのない髭を生やした東洋人が、自分たちポーランドの片田舎の、知らないはずのフォークロアの踊りに夢中になって、自分たちの踊りの輪に加わり、音楽に乗って、しかも楽しそうに踊っている。このことが不思議だったのではないか。

 8小節ごとに、男子後退女子前進でその場を半回転して向きを変えて進むパターンを2往復やった後、音楽の変わり目ごとに1回転し、そのままの方向へ進む。これを数回繰り返した後、カップルのサークルは大きな輪を作り、逆時計回りへ進む。リーダー・カップルは、向きを変えたり、その場を回ったりと、他のみんなに指示・アピールする。

 やがて、先頭にいたカップルが、肩寄せ合いしゃがむように小さくなりながら、内回りに向きを変え、時計回り方向へ進み始める。後ろに続くカップルは、つないだ手を高く掲げ、女子円外男子円内でアーチを作る。前のカップルがアーチをくぐるとすぐ内回りに向きを変え、肩寄せ合いしゃがむように小さくなりながら、後から来るカップルの作るアーチをくぐって、時計回り方向へ進む。暫くして、一旦音楽が止まる。

 女子は各自それぞれ、両手でウエストを両側から押さえるようにとりながら、「これから始まる男子のパフォーマンスを眺めてやろうか。」とでも言うかのように、舞台奥へゆっくりと移動。男子は両手掌開き、両手5本の指を下へ向けたまま腰の上から抑えるように当てながら、大きなサークルで、逆時計回り方向へ進む。6歩進むと強めにスリー・ステップ。やがてリーダーは、男子メンバーをリードしながら舞台の上を小さく蛇行するように進む。暫くすると男子は皆、男子のみのサークルを確かめ、メンバー皆で顔を合わせるように、上体を円内へ向ける。今までに比べ、さらに大股で荒々しいステップ。スピードを上げて進む。

 女子数人が甲高い裏声を響かせ、メロディ-・ラインを作り、アコーディオン演奏を盛り上げる。舞台の隅に寄った女子たちに、男子が何かアピールしているような様子である。円内向きになった男子はそれぞれ、スリー・ステップ2回ずつで前進後退を繰り返す。何回も繰り返しながら、男子サークルはさらに逆時計回り方向へ、ややスピードを上げて進む。アコーディオンの刻むリズムとメロディーが軽やかに、先ほどより弾みのついたステップで彼らを導く。やがてトップにいた男子は向きを変え、時計回りの方向へ。そのまま歩きながら、上手に待機していた女子へ近づき、左手肘を女子の目の前へ突き出すようにしながら、誘うように女子の右手をエスコート。

 踊りは、延々と続く。



§5

 所長室へもどる。ミコチャク女史、心なしか、涙ぐんでいる。生きた文化として、誇りを持って若者たちに教え、一緒に踊って来たこのシロンスクの踊り。自らが、何よりも大切にしている宝物。それをこの町に初めての初めての日本人が、すんなり溶け込んで踊ってしまっていることに、殊の外驚いているらしい。フォークロアの踊りを愛する者ゆえに伝わって来る、ミコチャクさんの強い感動の様が、体一杯に感激している気持ちがあふれ出ている。よほど嬉しいのだろう。

 新聞記者も市長も、もういない。次から次へと話しかけて来る。しっかりと、僕の目を見つめながら。内部からほとばしり出る、知的な輝きを持った、とてもチャーミングな女性だ。所長さんが壁の下の扉の中からウォトカを引っ張り出して来た。とっておきのものらしい。所長さんが、とても優しい。小さなウォトカグラスが用意される。ミコチャクさんにも注がれた。「ナ・ズドロヴィエ! (乾杯)」を口々に唱えつつ、グラスをあげて乾杯。

5:00少々前

 これから公演が始まるという頃合い。団員の人たちの民族衣装を着た姿を写真に撮らせて欲しい旨、前もってお願いしていたのだが、外で撮るのは、公演の前にしましょうか、後にしましょうか、と尋ねて来た。公演の直前では困るのではないですか。と言うと、問題ありません。喜んで撮影していただきますとのこと。「それでは」と腰を上げ、そそくさと館外へ。先ほどまで一緒に踊っていた私服の若者たちが皆、見違えるようなポーランド山岳地方の衣装に大変身している。おまけに、みんな凛々しく、とても似合っている。 (当たり前か!)

 外へ出て行くさなかにも、階段を降りながら、夢中でシャッターを押し続ける。男性の帽子、女性の髪飾り。色とりどり・様々なデザインのブラウスやベスト、刺繍の模様。個性的な柄のエプロン、靴など。フォークロア・ダンス取材旅行の、大切な仕事の一つ。踊るとき、民族衣装を身につける実際の様子がどのようなものなのか。できるだけ細部にわたり、様々な角度から写真に撮っておかなくてはならない。

 建物を出て左手の、美しい自然の庭園で、若い団員たち、カップル、楽団の人たちが、それぞれにポーズをとってくれる。柔らかな陽光を浴び、弾けるほどに健康な笑顔。────しかし、ポーズをとることに慣れていない。そしてひとりひとり、みんながとても好意的にサービスしてくれようとしていることが、強く伝わってきた。


5:00を少し回って。

ホールへ。先ほどはがらんとしていた客席は、立錐(りっすい)の余地もないほど人で埋まり、ムンムンとした熱気のようなものが伝わって来る。そう広くはないホールではあるが、本番前の踊り合わせ、最終打ち合わせの時、舞台の裾で見ていた感じとは全く違って、ずいぶん大きな空間を感じる。日本人が来るということで、一目見てみようとする人が多く来ているとのこと。最前列の左側に席が、僕のために確保されていた。

間もなく公演が始まるらしい。テレコ、カメラ、ビデオカメラを引っ張り出し、公演収録の用意をしていると、このセンターの責任者なのか、気品のある、恰幅(かっぷく)のいい婦人が近づいて来る。記念にメッセージを書いて欲しいとの懇請を受ける。アルバムのような大きな冊子のようなものを持って来ている。

「ポーランドの国、フォークロア・ダンスの持つ素晴らしい文化的価値。シレジア、コニエツポールの人々の、それぞれの温かさに感動したこと。この感動を必ず日本の友人たちに伝えます。」

というようなことを、冊子の扉を開いたの白いページに3行、気持ちを込めて書いた。後で、ミレックがポーランド語訳をつけてくれたらしい。


 いよいよ開演だ。先ほどリハーサルでやった踊り以外にも、男性が中心に技を競うきこりの踊り、ロシアっぽいもの、スロバキアっぽいものもある。十分に人の心を揺する中身の濃い踊り、生の躍動・息吹を感じさせる踊りから始まった。グラ・タニエツ(山の踊り)がいくつか組み立てられたもの。輪になって踊る踊りである。おもしろい! 先ほどのリハーサルにはなかった、激しい動きと、めまぐるしい隊形の移動。アコーディオン演奏のトーンが一つ上がる。続いて本日の公演のメイン・イベントへと移っていく。男たちの体力自慢のパフォーマンスが次々と繰り出される。さらに、会場全体が最高に盛り上がる。

 確かに高度に洗練されてはいない。けれど、それが故に、透き通るように輝く純粋さが、客席に伝わって来る。

 音楽のテンポが変わる。リーダーの動きに従い、アーチをくぐり蛇行して進むなど、ただ歩くだけの踊りである。きちんと整った衣装を身につけていると、踊りが堂々とサマになっている。構成のスタイルは、限りなくポロネーズに近い。これが3日前、ルブリンで習ったばかりの、ポロネーズの起源ともされるという「ホゾネ」の原型なのか。

 踊りのステップ一つ一つに、魂の力の宿っているかのような。何故かしら、胸の奥に熱い塊がこみ上げてくるような………。言葉にはできない力強いものが、体全体に伝わって来る。これは、何と言ったらいいんだ。無理して言葉に言い表そうとすること、そのこと自体が不遜なことのように思われてしまう。

 踊り自体の凜とした(たたず)まいは、絶えることなく湧き出て来る、山麓の泉のように、透きとおった、清楚な品格が伝わって来る。しかし不思議なことに、同時に、そこはかとない土の匂いも漂わせている。ああ! これこそが僕の求めていたもの。フォークロアの踊りの真実だ。

 いつの間にか、心は舞台の上に上がり、若者たちと、一緒になって踊りを踊っている。「今、僕は、紛れもなく、ポーランドはシロンスクの地にいて、土地の人たち、真にフォークダンスを愛する人たちと、一緒にフォークダンスを踊っているんだ! 夢だ。いや違う。夢じゃない! 感激で、胸が熱くなる。すると、覚えかけた踊りを、間違える。

 <…………気がつけば、自分の席で、勝手にその気になってはしゃいでいるだけじゃないか! アハハハハハ…………>


 たちまちのうちに、1時間が過ぎてしまった。踊りが終わり、団員たちのあいさつが終わったところで、司会のマイクが、本日の特別ゲストの日本人を紹介するとのこと。客席の拍手と歓声で、舞台に招き上げられてしまった。少々紹介のあった後、客席からの「アンコール!」の声に応え、いつの間にか団員の人たちと先ほどのプログラムの一部を踊るハメになる。

 リハーサルでやっていたので、大きなミスはしないですんだ。(あったかも知れないな?)パートナーをやってくれた女の子が終始、とても気持ちのよい笑顔で、しっかりと僕の目の奥をのぞき込むように見て踊ってくれる。激しい動きの中でも、踊っているときは、パートナーの目を見ながら心の交流をはかろうとする。この当たり前のことが、僕にはとても嬉しい。日本では、滅多に経験することのできない体験である。この()の瞳も、薄青色に透き通っている。あたかも、若々しいマリア様が、微笑みながら語りかけてくれているかのように、僕には思われた。

 ラウンド・ホールドのバズ・ターン。少々長めのフレーズの往復。少し深めにホールドを組み、彼女の上腕部付け根を、左右の掌で両肩の後から体重を支えてあげるように包み込む。少々レベルの高いカップル・ターンである。回転のスピードが増すにつれ、彼女の体重はしっかりと僕の左右の掌に委ねられ、実に楽々と回転する。支える両掌を通して、彼女の心の弾みが伝わって来る。その後、右腰接近のハンガリアン・ターン・ポジションのバズ・ターンで終わった。客席から大きな拍手が湧き上がる。

 ミレックが近寄って来て、「皆さんが、日本語で『森へ行きましょう』を歌って欲しいと言っています。」と教えてくれた。「オチビシチェ、タク(喜んで、やりましょう)。」 二つ返事で引き受ける。すぐさま演奏が始まる。まず、みんなが僕を歓迎する歌を歌ってくれる。賛美歌のように美しく、ゆったりとした歌声が、会場いっぱいに響きわたる。心がお花畑を駆けめぐる。

 強く感じた。今が一番幸せなひととき。おそらく、今までの人生の中で、この瞬間に出会うために、これまでの僕の「生」はあったのかも知れない。今、僕は間違いなく天国にいる!

 舞台の下手。楽団の人たちに囲まれた位置に据えられたマイクに近づき、「森へ行きましょう」を歌う。

「森へ行きましょう 娘さん アハハ あの森へ アハハ あの森へ

 僕らは木を切る 君たちは アハハ 草刈りの アハハ 仕事しに」

そのまま、日本語に続けてポーランド語で、

「シュワジベチカ ドラセチカ ドジェロネゴ アハハ ドジェロネゴ 

アハハ ドジェロネゴ

 ナポトカワ ミシュリベチク バルゾ ツァネゴ アハハ バルゾ ツァネゴ

アハハ バルゾ ツァネゴ

 ランラララ・ランラララ・ラ ラーララ ランラララ・ランラララ・ラ ラーララ

ランラララ・ランラララ・ラ ラーラララ  ラララ・ラララ・ララララ

ミシュリベチク コハネチク バルゾ チラダム バルゾ チラダム バルゾ チラダム

 ダーワビムチ ヘルバ スマーシェム アーレ ゴージャズドゥワー

 アーレ ゴージャズドゥワー アーレ ゴージャズドゥワー

 ランラララ・ランラララ・ラ ラーララ ランラララ・ランラララ・ラ ラーララ

ランラララ・ランラララ・ラ ラーラララ  ラララ・ラララ・ララララ」

 2番まで歌った。客席から驚きの声があがる。舞台の上の団員はもちろん、ホールのみんなが、大きな声で一緒に歌った。ホール一杯の人々の感激の気持ちが、体の隅々にまで伝わって来る。


6:30

 公演後、所長室でコーヒーをいただく。夕食を招待してくださるとのこと。先ほど行った寮へ。子供たちがたくさんいる。ポーランド語で「ジン・ドブフリ(こんにちは)」と、声をかけながら、中へ進む。昼食をいただいた部屋の向かい側の、小さな部屋へ。ミコチャクさん、ミレックと僕の3人だけ。

 ミコチャク女史、心なしか、感激で涙ぐみながら、堰を切ったように、次から次へと、とどまることなく話しかけて来る。ポーランド語を理解し、話すことのできないもどかしさ! ポーランドへ来てから今まで、ミレックのおかげで、ポーランド語ができなくてもほとんど平気でいられたのに。と、ポーランド語のできないことを悔しく思いながら、ミレックの通訳に一生懸命耳を傾ける。

 知らないうちに時間が経つ。話がどんどん展開していく。

 僕が、

「日本には、こんな素晴らしい文化は残っていない。言葉も破壊されるばかりだし、金はあっても、いやなものばかりだ。」

と言う。そして、

「文化を残すとか伝えるとか言ったって、ただ単に、自分たちの経験したことを、若い人たちに一方的に押しつけるだけにしかなっていない。自分の体験したことの全てが正しいこと、伝えるべき価値のあることではないはず。────それなのに、何でもかんでも若い人たちに押しつけようとしている。」

と自虐的な口ぶりで言うと、

「どうしてそのようなことを言うのですか?」

僕の顔を覗き込みながら、ミコチャクさんが不思議そうに訊いてくる。それに応えるように、心の奥で普段から考えていることが、つい口から出てきてしまった。

「若い人に伝えるべき本当に大切なことがあるのに、一緒に活動していく、若い仲間を増やすことを面倒がっているんです。」

はっとして、思わず自身を省みて思った。踊りを愛する者としてなおざりにしておくことは許されないと、自問自答しながらいつも考え、自己矛盾に陥っているありのままの自分が出てきてしまった。胸の奥につかえていた真実を、つい言葉にして吐き出してしまった。話しながら、自らの語っていることが、こんな偉そうなこと言えるのかと自問自答。そして、この上なく恥ずかしくなって来た。するとミコチャクさんは、

「そんなことはない。日本は、とても素晴らしい国です。とても優れた文化が、たくさんあるじゃありませんか。日本の国のことを、悪く言ってはダメですよ。」

というようなことを言う。

 このとき、僕は、何故、自分が日本の国の文化の現状に苛立ち、批判せずにいられないのか、わかったような気がした。やっぱり僕は日本人なんだ。日本の国を心から愛しているから、そう思うんだ。決して日本の国が、日本人が嫌いで言っているのではない。日本の国が、このままではいけない。このままでは、日本の文化は、本当にダメになってしまう。長年、フォークロアの踊りの真実を追い求め、触れようとして来た、僕なりのフォーク・ダンス活動を通して、感じることができるようになった真実。日本文化の現実への危機感、逼迫感があるからこそ、そして、日本の言葉を守る使命を持つ国語科の教員だからこそ、正しい形でいのちある文化を守ることの必要性を強く感じているのだ。

 僕がポツリと、

「どうして、ポーランド人に生まれて来なかったんだろう。」

と言うと、ミコチャクさんの目がきらりと笑った。

「日本は仏教の国ですね。幸三さん。あなたはきっと、生まれる前は、ポーランド人だったんですね。」

だって!

 言われてみて僕も、そうなのかも知れないと思う。だって、生まれて初めて見るポーランドの風景のすべてが、確かに生まれて初めてのはずなのに、限りなく懐かしく、心の中に沁み通って行くかのように、とてもホッとした気持ちになるのだもの…………。


7:00

 所長室へ帰り、ウォトカを勧められる。ミコチャクさんは、一息で飲んでしまう。所長さんが優しく注いであげる。とてもファンタスティックな光景。所長さんは、さらに、大きな皿に山盛りにしたチョコレートを持って来て、しきりに勧めてくださる。本当に優しい。

 チョコレートがウォトカに結構合う。中にブルーベリーか杏みたいな、おいしい果実が入っていて、香ばしい。

 そろそろ辞去しようとするのだが、何度も引き留められる。所長さんが戸棚からポスターを出し、ていねいにくるんでくださる。コニエツポールと「マグジャニ」を、そして、今日の日のことをいつまでも忘れないように、と、「コニエツポール文化センター」の文字が大きく印刷されている大きなポスターを巻いてくれた。そして、最後にはごていねいに、紙の袋に皿に半分ほど残っているチョコレートを入れてくれた。

 

 予想以上の大歓迎。実に純朴で、心に美しい輝きを持っている人たち。心から感動した一日だった。 ナ・プラウデン(ほんとうに)!



§6

ポーランド旅行8日目

5:00 起床。

 眠れなくなったの で、起きる。

 昨日のことを、メモノートに整理。あとで詳しく書き改める必要あり。

 おそらく、僕の人生の中で、最も深く琴線に触れる体験をした日。人として生まれ、育ち、今まで48年間の歳月を経て来た中で、最も素直に人の心の温かさを感じ、人と接する喜びを体に刻むことのできた日であったように感じられてしまう。決して過言ではない。

 舞踊団の若者たち。ミュージシャン。優しい館長さん。そして、透き通るほどに美しい瞳の、クリスティナ・ミコチャクさん。そして生涯の友、ミレック。ありがとう!


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ