水面
第六十三話 水面
翌日、朱里はビーナの部屋で朝食をとった。ビーナは気が昂っているのか、食事中もずっと喋り続けていた。
きょうだいが9人いること。
農作業が苦手なこと、パズルが得意なこと。
算術を学びたいのに、教えてくれる相手がいないこと。
家族と話があわないこと。
いずれ、村を出たいと思っていること。
それから、アルバのこと。
「……それで、あのひと、やっぱり男として自信が持てないんだと思うんですよね」
「はァ」
「もう何十年も雨季に泳いでないんですから。けど、ぼくだって……、」
階段をのぼりながら、ぺらぺらと喋り続けて。
甲板に出たとたん、ビーナは黙った。
「……どうしたの?」
きょうは快晴。上空には、浮遊植物と、それを狙う虫たちが群れをつくっている。それ以外は雲ひとつない。風は、少しあるようだが。
「景色が、……おかしくないですか。」
「え、……」
いわれて、朱里は水面をとおく眺めた。はるか向こうに、森が見える。そのほかは、小さな岩礁があるばかり。まえは嵐だったし、眼鏡もかけていなかったので、正直いってよくわからない。
「……アルバを!」
ビーナはそう叫ぶや、船室にとびこんだ。朱里は、カセイジンと目を見合わせて、ぼうっと立ちつくした。
*
「……動いてるな。」
アルバも外をひと目みて、そう断言した。
「ほんの少しだ。ぶれてる、と言ったほうがいい。今朝がたから、揺れているとは思っていたが……」
「……ほんとうに?」
朱里は疑わしげに目を細めた。小さな岩礁、水がひけば丘のてっぺんの大岩というところだが、その位置と、太陽の方向。そう説明されても、実感はわかない。
そうだ、……鎖。
三箇所に設置された鎖が、水底の土台につながっているはず。
「すぐ、確認しよう。おれは左舷、おまえたちは右舷を。」
アルバもおなじことを考えていたらしい。
右舷の鎖は、とくに変わったところはなかった。巻き上げ機を何度かまわして、ぴんと張る。それから、少しづつ緩める。初日に確かめたときと変わらない。
左舷も、問題ないようだ。
それから、前方。岩礁にまっすぐ向かう側にある、最後の鎖。
「……切れてる、」
アルバが、ぼうぜんとした声でつぶやいた。
巻き上げ機の大ハンドルを回すと、鎖の重みだけがかかって、少しずつ上がって来る。それでも回し続けると、ぽつんと、切れた鎖のはしが。
朱里の腕よりもずっと太い鎖が、どうして。
「前から、……少しずつ劣化してはいたんだ。土台の大金具に直接ついた、一番力がかかるところだ。」
「じゃ、……いま、二本の鎖で支えてるってこと。」
「ああ。……しばらくは大丈夫だろうが。」
「しばらくって……」
「一度、試したんだ。今のとは条件が違うが、最初に試作した方舟は、二本の鎖で支えていた。最初は良かったんだが、二度目の嵐で。」
「転覆した?」
「まさか。流されたんだ。嵐で長時間振られると、勢いがついて力が増幅されるらしい。一本目の鎖がやられて、二本目は危険だからわざと外した。なんとか対岸に流れついたが、着岸の衝撃で船底に穴があいた」
「そんな……、」
「今の方舟は、当時よりは丈夫につくってあるが……なにせ古いし、そもそも船としての機能はないから、鎖が切れたら、流されるだけだ」
アルバはもう落ち着いていた。少なくとも、声の調子だけは。
「仕方あるまい。……この方舟も、もう寿命だ。あと十年は、使いたかったが。」
そう言ったとたん、ビーナがずいと進みでて、大声をあげた。
「なんとか……ならないんですか。修理を!」
「できないこともない。が、」
「なら、直しましょう。手伝います。何でもします!」
「そう簡単じゃない。……別に、かまわんだろう。方舟がなくなっても、以前のやりかたに戻るだけだ。荷物は、まァ運がよければ、なんとか無事さ。前と同じなら、せいぜい居住区が使えなくなるくらいで、雨季がおわれば最上階の物資は回収できる。……もっとも万が一ということもあるから、船にはおれだけが残って……」
「アルバ!」
ビーナは高い声でさけんだ。アルバの服の袖を、ぐいと掴んで。
ベレオ人の感情表現は、朱里にはわからない。
けれども、今だけは。
これは憤怒だと、はっきりわかった。
「……あなたは、どうするんです。方舟がなくなったら……、」
「さァ、蜘蛛人の生き残りを探すか。西方には、まだ領地があるときくが……」
「まだ、……わからないんですか。あなたは……」
涙声。ベレオ人は涙を流さないから、これは翻訳機の過剰演出かもしれない。
「あなたは、……ぼくたちの、かけがえのない人なのに。」
*
長い長い沈黙のあと、アルバは、「わるかった、」と言った。




