あのひとと暮らした家
別宅で暮らしはじめてから、ケ=ナはあまり外出しなくなった。
外へ出る用事は、おれが大体済ませていた。街から離れてはいたが、少し歩けば蜘蛛人の集落があったので、生活に困ることはなかった。ベレオへも日帰りできる距離ではあったが、帰る気はなかった。
蔵書は山のようにあって、おれは街にいたときよりも読書の時間が増えた。昼間は、用事をすませるあいまに、ケ=ナに教わりながら本を読んで、夜はポルクをしたり、歴史の話をしたりして過ごした。
工房もあった。ほとんど使われていなかったが、おれが整備をして、ケ=ナとともに様々なものをつくった。鍛冶を本格的に覚えたのも、そのころだ。ケ=ナは、炉の温度を感覚で掴むのではなく、色と時間を数字になおして管理する方法を教えてくれた。
屋敷は殺風景だったが、だんだん調度品が増えていった。魚と波をかたどった意匠がケ=ナのお気に入りで、自分では作らないくせに、たびたびおれに要求してつくらせた。柱のかざりものや、棚、窓辺に置く魔除け人形なんかも。
ケ=ナは、なにかに怯えているようだった。
最初は気づかなかったが、夜になるとケ=ナは眠れないままに窓をじっと見ていることがあった。何かのひょうしに木の枝が動いたりすると、すぐに窓から離れて、ものかげで息をひそめていた。
2年ほど経って、買い出しにでた先で、おれはおそろしい噂を知った。
ガラマが、猿人の集団に襲われたと。
*
「……猿人というのは、森に住む野蛮な奴らさ」
アルバの声はすっと低くなった。
「体格はおれたちよりずっと大きくて、全身毛だらけ。一つ目で、走るときは四つ足。力ばかり強くて、文字も、街をつくる技術もない。言語はあるが、おれたちの言葉も、蜘蛛人の言葉も通じない。そのくらいのことは、おれも知っていた。実際に見たことはなかったが。」
少なくとも、地球人類とは関係がないらしい。朱里は少しほっとした。
「……それで、その猿人は、なぜ蜘蛛人の街を?」
「それは、……昔の話だが」
しばらく言いよどんでから、アルバはこたえた。
「……蜘蛛人は、猿人を家畜にしていたからさ。食うために」
*
その話をきいても、ケ=ナはとりみだしたりはしなかった。
まるで、予想していた、とでもいうように。
……きみも、そろそろ身のふりかたを考えなくてはいけないね。
と、他人ごとのように言った。
それがどういう意味なのか、おれはわかってしまったが、わからないふりをした。
おれが黙っていると、ケ=ナは話題をかえて、いった。
……故郷の話を、聞かせてくれない? きみが生まれた村のことを。
それは、ケ=ナと知り合ってから何度も繰り返してきた話題だった。おれはせがまれるまま、ベレオの建物や、川や、脂をまとった木々のことをよく話した。そうして、最後にケ=ナはきまって、帰りたくはないか、とたずねるのだった。
おれの答えも決まっていた。……今はまだ、と。
けれども、その日は、少し違う答えを返した。
……いずれ。胸をはって帰れるときがきたら。
と。ケ=ナはそれをどう取ったものか。
……なら、急がないと。
と、いった。
*
おれが方舟の設計をはじめたのは、それから少ししてからのことだ。
といって、まだ現実的な計画ではない。今のところケ=ナのところを出るつもりもなく、建築費のあてもない。ただ、ケ=ナは喜んだし、おれもやっているうちに夢中になった。
大きな建物の設計などやったことがなかったから、何度も図面を引き直して、そのたびにケ=ナに添削され、模型をつくりなおした。
ベレオ近くの脂樹の扱いはケ=ナもよくは知らなかったから、人のところに聞きにいったりもしたが、やはり、ガラマには近づくのはもう危険なようで、歩いて二日もかかる別の都市に通わなければならなかった。
あるとき、ケ=ナは一通の封書をおれに託した。知人という人のところにそれを届けにいって──相手は蜘蛛語しか喋れなかったので、ほとんど会話はなかったが──帰ってきた後に、ケ=ナは、なんでもないかのように、言った。
……いまのは、きみを私の相続人に指名する書面だよ。
ケ=ナの身内のことは、ほとんど教えてもらえなかった。が、蜘蛛人の寿命は長い。誰ひとり血縁がいないということはないだろう。
なぜ、と言おうとしたが、言葉が出なかった。
それっきり、そのことは終わってしまった。




