かれの方舟
翌日──
怒号、それからどしんと何かが落ちる音が、方舟じゅうに響いた。
朱里はあわててとびおきた。眼鏡をかけてドアをあけてから、自分の格好に気付く。アンダースカートも腹帯も省略して、大急ぎで上包みだけひっかぶり、部屋から飛び出した。廊下を走りながら袖をとめるが、急いでいるのでぐちゃぐちゃになってしまう。
「アルバ!」
リネン室の前に立っているアルバをみつけて、叫ぶ。
「……なんて格好をしてるんだ。」
左手に紐を二本持ったまま、腰をとめる間もなく、風呂あがりに布をかぶった子どものようになっている朱里をみて、アルバはうめいた。
「いいでしょ、今そんなこと」
じっとアルバの表情を観察しながら、朱里は急いで胸と腰を紐で締めた。袖は結び直している暇はない。どうせ異種族、構うまい。
「それより……、」
「密航者だ」
アルバは吐き捨てるような声でいった。
朱里は不安を表情にださないよう気を引き締めながら、部屋のなかを覗きこんだ。窓ぎわに、ぽつんと立っている。ビーナ。昨日と同じ格好で、鞄は床に落ちて。
「その……、」
「ビーナ、お前は、」
アルバは朱里を無視するようにして、まっすぐに部屋のなかに入っていった。
「……なぜ、ここにいる? 方舟には乗せないと言ったろう。」
「ぼくは、どうしても……、」
「駄目だ。出ていけ」
朱里は決心して、つかつかと歩み寄った。後ろから、ぐっとアルバの手首をつかんで、
「なにも、殺すことはないでしょう! それなら、私が──」
いいかけて、ふと、違和感に気づく。
二人のベレオ人は、しばらく黙りこんでから、
「はあ?」
すっとんきょうな声をあげた。
*
ベレオ人は、水陸両棲の種族である。
普段は陸生だが、年に100日ほどの雨季には川が氾濫して、あたり一帯が水の底になる。その時期だけは、水棲形態に変態して、川のなかで過ごすのだ。
「……だが、文明生活を送る以上、それでは困ることもある。水に弱い品物、文書や、穀物や、金属製の工具……この方舟は、そういうものを保存するためにつくった倉庫なんだ。」
「はァ……」
たんたんと語るアルバに、朱里はぐったりした顔でうなずいた。
「昔は、洪水に巻き込まれない陸地に倉庫があった。だが、やはり不用心でな。洪水の規模も毎年同じというわけではないし、他種族に壊されたこともある。いちど変態したベレオ人は、時期がすぎるまで陸上形態にはもどれないし……、」
「ちょっと待って。」
朱里は手をふって、
「いろいろ言いたいことはあるけど、……なんで教えてくれなかったの?」
「本当に知らなかったのか?」
あくまでも平坦な声で。
「だれかから聞いたと思っていたぞ。……だいたい、本当に村が全滅すると思っていたなら、もっと先に言うことがあるだろう。自分だけ助かるつもりだったのか?」
「……それは、まあ……、」
麻痺していた、と言われればその通りだ。自分の世界であればそうはいくまい。
「じゃあ、あなたは、ひとりだけ方舟に残って村の資産を管理する番人役ってこと?」
「まあ、そういうことだ。……もっとも、ここはおれの自宅で、作業場でもあるから、雨季以外もずっと住んでいる。村のものを預かるのは、まあ、おまけだな。」
韜晦しているのか。朱里にはわからなかった。
「……それで、鎖のわけがわかったわ。」
この船は、動いてはいけなかったのだ。新天地を探す方舟ではないのだから。
「で、ビーナ。あなたは、」
口調にとげが交じるのを、おさえることができなかった。
「どうして、この船に乗ったの? 川で暮らす時季なんでしょう。」
「……アルバの、弟子になりたいんです。」
「弟子?」
朱里はおうむ返しにした。脳裏に浮かぶのは、ポルクの駒、それから、眼鏡。
「アルバは、蜘蛛人から工業技術を受け継いだと聞いています。ぼくも──、」
「絶対に、だめだ」
いつの間にか、アルバが、息がかかりそうな近くに立っていた。
朱里には、ベレオ人の表情は読めない。
けれども、翻訳機を通した声だけで、
「弟子など、とらない。そう、言ったはずだ。」
怒りを抑えているのが、ひしひしと伝わってきた。
そのまま、アルバは部屋を出ていった。
残された二人は、ぽつんと立ちつくすしかなかった。




