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異世界八景  作者: 楠羽毛
方舟の世界
58/206

かれの方舟

 翌日──


 怒号、それからどしんと何かが落ちる音が、方舟じゅうに響いた。

 朱里はあわててとびおきた。眼鏡をかけてドアをあけてから、自分の格好に気付く。アンダースカートも腹帯も省略して、大急ぎで上包みだけひっかぶり、部屋から飛び出した。廊下を走りながら袖をとめるが、急いでいるのでぐちゃぐちゃになってしまう。

「アルバ!」

 リネン室の前に立っているアルバをみつけて、叫ぶ。

「……なんて格好をしてるんだ。」

 左手に紐を二本持ったまま、腰をとめる間もなく、風呂あがりに布をかぶった子どものようになっている朱里をみて、アルバはうめいた。

「いいでしょ、今そんなこと」

 じっとアルバの表情を観察しながら、朱里は急いで胸と腰を紐で締めた。袖は結び直している暇はない。どうせ異種族、構うまい。

「それより……、」

「密航者だ」

 アルバは吐き捨てるような声でいった。

 朱里は不安を表情にださないよう気を引き締めながら、部屋のなかを覗きこんだ。窓ぎわに、ぽつんと立っている。ビーナ。昨日と同じ格好で、鞄は床に落ちて。

「その……、」

「ビーナ、お前は、」

 アルバは朱里を無視するようにして、まっすぐに部屋のなかに入っていった。

「……なぜ、ここにいる? 方舟には乗せないと言ったろう。」

「ぼくは、どうしても……、」

「駄目だ。出ていけ」

 朱里は決心して、つかつかと歩み寄った。後ろから、ぐっとアルバの手首をつかんで、

「なにも、殺すことはないでしょう! それなら、私が──」

 いいかけて、ふと、違和感に気づく。

 二人のベレオ人は、しばらく黙りこんでから、

「はあ?」

 すっとんきょうな声をあげた。



 ベレオ人は、水陸両棲の種族である。

 普段は陸生だが、年に100日ほどの雨季には川が氾濫して、あたり一帯が水の底になる。その時期だけは、水棲形態に変態して、川のなかで過ごすのだ。

「……だが、文明生活を送る以上、それでは困ることもある。水に弱い品物、文書や、穀物や、金属製の工具……この方舟は、そういうものを保存するためにつくった倉庫なんだ。」

「はァ……」

 たんたんと語るアルバに、朱里はぐったりした顔でうなずいた。

「昔は、洪水に巻き込まれない陸地に倉庫があった。だが、やはり不用心でな。洪水の規模も毎年同じというわけではないし、他種族に壊されたこともある。いちど変態したベレオ人は、時期がすぎるまで陸上形態にはもどれないし……、」

「ちょっと待って。」

 朱里は手をふって、

「いろいろ言いたいことはあるけど、……なんで教えてくれなかったの?」

「本当に知らなかったのか?」

 あくまでも平坦な声で。

「だれかから聞いたと思っていたぞ。……だいたい、本当に村が全滅すると思っていたなら、もっと先に言うことがあるだろう。自分だけ助かるつもりだったのか?」

「……それは、まあ……、」

 麻痺していた、と言われればその通りだ。自分の世界であればそうはいくまい。

「じゃあ、あなたは、ひとりだけ方舟に残って村の資産を管理する番人役ってこと?」

「まあ、そういうことだ。……もっとも、ここはおれの自宅で、作業場でもあるから、雨季以外もずっと住んでいる。村のものを預かるのは、まあ、おまけだな。」

 韜晦しているのか。朱里にはわからなかった。

「……それで、鎖のわけがわかったわ。」

 この船は、動いてはいけなかったのだ。新天地を探す方舟ではないのだから。

「で、ビーナ。あなたは、」

 口調にとげが交じるのを、おさえることができなかった。

「どうして、この船に乗ったの? 川で暮らす時季なんでしょう。」

「……アルバの、弟子になりたいんです。」

「弟子?」

 朱里はおうむ返しにした。脳裏に浮かぶのは、ポルクの駒、それから、眼鏡。

「アルバは、蜘蛛人から工業技術を受け継いだと聞いています。ぼくも──、」

「絶対に、だめだ」

 いつの間にか、アルバが、息がかかりそうな近くに立っていた。

 朱里には、ベレオ人の表情は読めない。

 けれども、翻訳機を通した声だけで、

「弟子など、とらない。そう、言ったはずだ。」

 怒りを抑えているのが、ひしひしと伝わってきた。


 そのまま、アルバは部屋を出ていった。

 残された二人は、ぽつんと立ちつくすしかなかった。

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