夜の方舟
深夜──
朱里は、月あかりをたよりに廊下を歩いていた。
この世界の月あかりは、地球よりもずっと強い。それほど大きくもない窓からさしこむ光だけで、十分に歩ける。
「……ねえ、まずいよ」
カセイジンが耳元でささやく。どうせ、朱里にしか聞こえないのだから、声をひそめる必要などないのだが。
「食料を届けるだけよ。……いればね」
右手に持った籠を持ち上げて、小さな声で。
「それがまずいんだってば! アルバに知れたら……」
「あんたは黙ってなさい」
びしっと、右手をつきつけて、
「ただの幻覚のくせに。」
「幻覚ではないけど……、」
「いいから。」
足音を消すため、サンダルは履いていない。それでも、静かな船内に、ぺたぺたと足の音が大きく響く。
嵐は終わったらしく、揺れはほとんどない。そのせいで、音が目立つ。
「……あの部屋に、ほんとうに居るとは……」
「いなきゃ、それまでよ。籠の中身は夜食にして終わり。」
昼間、箱が積み上がっていた部屋。
どうやら、白布がまとめて置いてある、リネン室のようなところらしい。
入り口の前に立って、深呼吸。
アルバの気配はない。扉を、そっと引く。小さな窓しかないので、廊下よりも暗い。
積み上げられていた箱は、きれいに棚に戻されている。朱里は窓の近くまで歩みよって、上をみた。ぼんやりと暗い。天井の木目は見えない。
「……なに、してるの?」
カセイジンがつぶやく。返事はない。
朱里は、ぐっと棚の上段に手をかけて、床を蹴った。
はだしの右足を上段にかけて、天井に右手を。
ぐっと体を持ち上げて、棚をよじのぼる。
首をのばして、もう一度、木目を。
やはり。
朱里は得心して、ぐっと天井の板を押しあげた。
ばちんと音をたてて、はまっていた板がはずれる。木ねじを組み合わせて固定してあったのが、そこだけ抜けてしまっているらしい。
ひっ、と小さなさけび声が聞こえた。
ぱかりと、あいた穴に顔を入れる。暗い。が、なにかが、いる。
「……あの、誰ですか?」
ちいさな、ふるえたような声。少女か、おさない少年の。
*
ビーナ。
天井裏から降りてきた小柄なベレオ人は、そう名乗った。
膝丈のワンピースのような、白いあっさりした貫頭衣をきて、腰のところに紐を巻いている。露出している肌は、五色にきらきらと光って。
いささか目が大きく、口もとは左右にぐっと広い。
子ども、だろうか。何歳かは、朱里には見当もつかない。
「あの、……あなたは、」
「私は、……この船の、客人。少しだけ滞在しているの。」
そうとしか、言いようがなかった。
「……あなたは、猿人ですか?」
おびえたような声。
朱里はちょっと迷ってから、きっぱりと首をふった。猿人がどういう種族にせよ、とにかく、今は。
「いいえ。……わたしは、地球人。とてもとても遠いところからきたの。」
「ちきゅう……人?」
「……ともかく、あなた、この船に勝手に乗っているんでしょう。アルバに隠れて」
「はい。……あの、」
「なあに?」
朱里は、にっこりと笑ってみせる。できるだけ。
ベレオ人に、地球人の表情が読めるとは思えないが。
「ぼくのことは、……まだ、アルバには。」
「言わない。約束する。」
いいながら、朱里は強くうなずいた。
そして、右手に持っていた木籠をあけて、布で包んだ干し肉と、切り芋をさしだした。
「これ。また機会があれば持ってくる」
ビーナが持っているのは、鞄ひとつ。いつまでここにいるのか分からないが、食料は不足しているはずだ。
「……ありがとう。」
受け取るや、ビーナはすぐに芋にかぶりついた。ぱさぱさと乾いた音をたてて身がくずれる。水が必要だったかもしれない。
ともかく、余計な世話ではなかったようだと、朱里は安堵した。




