沈む世界
豪雨である。
嵐が方舟をおしつつみ、波うつ水面が、縦に、横に、がつんがつんと強く揺すぶっている。斜めにぐらついた方舟は、今にも沈みそうだ。
朱里には、そう見えた。
いや、本当は、ほとんど何も見えない。ただでさえ、裸眼では見づらいのに、白い雨のしぶきが視界を覆っている。とにかく、甲板を這うように進むしかない。
「アルバ!」
前をゆく異形の男に呼びかけるが、聞こえていないのか。
嵐の音で聞こえないのか。
ともかく、水漏れは廊下の北端の天井裏だから、その真上に向かっているはずだ。
どうやって穴を埋めるのかは、知らぬ。木槌と縄のようなものをアルバが持っているから、それでなんとかするのだろう。
方舟が揺れた。
薄底のサンダルが滑って、左肩から濡れた床に倒れてしまう。そこにもう一度、横揺れ。ずるりと滑って、背中から舷縁にぶつかる。
うめき声をあげながら、なんとか立つ。白い裾長のチュニックとアンダースカートが太腿に張り付いて、気持ちわるい。
アルバの姿は、もう見えない。目をこらしても、ぼんやり滲むばかり。
縁に手をかけて、呼吸をととのえる。大きく息をついて、外を見る。
ただ、大きく波うつ水面があるばかり。
もっと凄惨なものが見えるかと思っていたが、大雨と波と濁った水が、すべてを覆い隠してしまったらしい。
村ひとつ、沈んだというのに。
「アカリ! ──何をしている。こっちだ!」
アルバのひくい声。
「今いく!」
叫ぶ。怪我はしてない。それだけ確認して、舷縁にそって声のしたほうへまた進む。
鎖に足をとられて、転びそうになる。
ほとんど木製のこの方舟で、数少ない金属製の部品。たぶん鉄だろう。太い輪がずうっと連なって、地上に固定された土台につながっている。北と東西に、三本。この鎖がなければ、方舟はとっくに流されているだろう。
私とアルバの、命綱だ。
びたびたに濡れた裾をぎゅっと絞って、鎖をまたいで、進む。
すると、視界のはしに、すっと動くものが見える。
アルバの声のした方向ではない。
「カセイジン!」
するどく叫ぶと、頭のうえあたりから、子供のような声がする。
「なんだい、アカリ。……はやく、行かないと」
四本脚の、ちいさな、宙に浮く蛸のような生き物。いや、生き物ではないはずだ。証拠に、これだけの雨が降っているのに、濡れてもいない。
宇宙船デイジーベルの技術でつくられた、ホログラムである。
「……いまの、見た? 誰かいたんじゃない」
そう尋ねながら、朱里はふと疑問に思う。カセイジンが何かを「見る」なんてこと、あるのだろうか。かれの本体は、朱里の右手首に融接している白い腕輪に内蔵されているコンピュータである。蛸の姿は、朱里にしか見えない。実体のあるホログラムだと自称しているが、実際のところは、朱里の脳のなかだけに存在する幻覚なのではないだろうか。
「さあ? 何も見なかったけど」
そっけない答えは、案の定。
朱里は唇を食いしばって、また進みはじめた。
この世界のすべて──かは知らず、少なくともこのあたりに、生きている人間は自分と、アルバしかいない。そのはずだ。




