蜘蛛のシルエット
「んー、こっちじゃなかったかな」
エマは、とん、と水をかくように指先で壁をついて、ゆっくり泳ぎだした。
「まってよ、」
吐き気をこらえながら、まねして動く。バランスをくずして、背中でとんと床をたたいてしまう。ちょっと咳き込んで、唇をかむ。
「そこにいて!」
その声だけ残して、エマはいってしまった。
かっ、かっ、と床をかかとで叩いて、天井に手をついて、……10歩むこうのドアに、手をかける。あわてて、朱里も後を追おうと、床から足を離すが、
「まってよ……、」
追いつけない。
バランスを崩して、ぐるぐる回る。無重力でまっすぐ進むには、コツがいるようだ。回転しながら、天井にぶつかってしまう。
気持ちわるい。
(エマ!)
声がでない。
もうエマの姿はみえない。昇降機を出てまっすぐ前の、小さなドアのむこう。ゆっくり閉じて、くるくるくる、と大きなハンドルが勝手にまわる。それを見ているうちに、また体が一回転して、床に尻がぶつかる。
バランス感覚が、おかしくなっているようだ。
深呼吸する。
もう一度顔をあげると、……ちいさな音がした。
うしろ。いや、横から。
こつんこつんと、規則的な音。一定のテンポを保って、なにかのリズムを刻んでいるようだ。こつんこつん、……こつん、……こつん、……こつんこつんこつん、……こつん。
音楽、だろうか。
ふりむく。
窓。するどくさしこんでいた星の光が、なにかに遮られて。
黒い、大きな蜘蛛の、かげ。
*
びぃっと、大きな高い音が鳴った。
*
「う、わ」
悲鳴が、うまく出てこない。
大きなブザーに、心臓がするどく反応する。反射的に、足が動く。空を蹴りかけて、無意識につまさきを動かして修正する。昇降機の扉枠に、足を押しつけて。
飛ぶ。
出口まで進む、ほんの数秒のあいだに、それと目があった。
蜘蛛、のような形をした、──たぶん、ロボット、か何か。
人間の頭くらいの大きさの、黒い機械。六本の脚を窓枠にはりつけて、大きな赤い単眼を、こちらに向けている。
──こつん。