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異世界八景  作者: 楠羽毛
幕間
138/206

真夜中の目覚め

 もちろん、デイジーは足音の主を知っていた。



 裸足の、かわいた音。白い廊下を、ひきずるように。

 両脚が重い。身体感覚がおかしい。

 夢の中とは違う。

 さっきまで全身がべとべとだったのに、もう乾いている。


 ああ、生きているのだ。



 ドアが開く。ミーティングルーム。大切な客は、いつもここで待つ。もっとも、ここ数千年、客など、ほとんどいなかった。

 裸の女が、よろめきながら入って来る。栗色の髪、きれいな肌。青い目に、ちょっと尖ったような耳をした、背の低い女。

 電送液は、すぐに揮発する。機械塵は、床から逃げていく。ものの5分もあれば、きれいになる。女の髪も、ふわりと空気を含んで跳ねている。 

「どうぞ」

 用意しておいたお茶のカップを、すっと突き出す。のどが乾いているはずだ。

 女は、頬をぴくぴくと動かした。ことばは出ない。まだ、からだを動かすのに、なれていないのだろう。

 14歳。遺伝的理由により少しやせているが、健康。内臓にも、神経系にも、問題はない。そのように、ずっと調整してきた。

 いつでも起きられるように。

「おはようございます。なんとお呼びすれば?」

 低いトーンに落とした合成音声で、問う。

 とっくに乗組員登録は済んでいるのだが、あえて認識迷彩をかけている。女と遺伝的特徴の近い、年上の同性。母か、姉のように見えるだろうか。

「なんと……って、」

 女は、お茶から口をはなして、かすれたこえで言った。

「お名前を、まだ、伺っておりませんので」

「どういう、……意味?」

「わたくしには、名付けの権限はございません。人間の名前は、人間がつける。そのように規定されております。ですので──、」

「あなたは、だれなの?」

「わたしは、」

 デイジーは、ためらうように言葉をきった。そんなことはありえないのに。

「デイジーといいます。宇宙船デイジーベルの船長代理。人工知性体です」



 名前のない女に服を選び、食事を用意する。やわらかなパンとホワイトシチューを、ゆっくりと咀嚼するのを、義体の目でじっと見る。

 ミーティングルームは、支度部屋に、食堂に、それから喫茶室になり、


 食後のお茶をのみおえてから、もう一度、ミーティングルームに戻った。



「……ルナ、と」

 女はそう名乗った。デイジーは微笑みをつくって、その名前を刻みつけた。

「はい、わかりました。ルナ様」

「あなたがつけたのではないの?」

「どういう意味ですか?」

「夢の中で、わたしはずっとその名前だった。あなたが夢を見せていたんでしょう?」

「そうですね、……」

 すこし間をおいて、デイジーは、女をじっと見た。並行世界の地球の、女学生の制服に似た、オーバーサイズのワンピース。客人の脳から拝借して、大事にとっておいたデザインのひとつだ。

 本来の地球から持ってきたライブラリは、ほとんど毀損してしまったから。

「……あの夢を見せたのはわたしですが、あの夢を構成したのは、わたしではない、別の人間の記憶と、選択の結果です」

「それは、……」

「王宮戦士アカリ。夢のなかでは、そう呼ばれていましたね」

 ルナが、はっと息を飲む気配が、ミーティングルームにひびいた。

「アカリは、……どこにいるの?」

「旅立たれました」

「それは、……比喩?」

「いいえ。文字通りの意味で。……デイジーベルの乗組員登録をした後、未知の次元転送技術で、並行世界へと転移していきました。203時間ほど前に」

「未知の次元転送技術……、」

 ルナはその言葉を、かみくだくように繰り返した。デイジーベルの運航にかかわる最低限の知識は、あらかじめ脳にインストールされている。言葉の意味くらいは、わかるはずだ。

「それで、……アカリは、どこに?」

「ですから──、」

「どこへ向かったの? 目的は?」

 ルナはぎゅっと唇をかみしめて、デイジーの目をじっと睨みつけた。

「……地球へ。帰ったはずです」

「それでは、」

 かたい声で、じっと考え込むように眉をひそめて、

「この船の目的地と同じか。」

「正確には、──」

「そうね」

 ルナは、ぎゅっと眉根を寄せて、うつむく。

「……あのひとの地球と、私たちが目指す地球は、ちがう」

「おっしゃるとおりです」

 実際には、とうの昔に迷子になり、座標をさぐる試みすら、やめてしまったのではあるが──、

 それでも、なくなったわけではない。

 故郷の地球、デイジーベルが最初に建造された、あの地球に帰ることが、デイジーに課せられた任務なのだ。

「デイジー、船長代理の任を解きます。」

「はい。」

 しずかに、

「わたしが、つとめます。……ですから、」

「はい。」

 ルナは、なにか言いかけて、また唇をとじた。

 それから、喉を何度かふるわせて、長い長い沈黙のあとに、

「……進路を、変更します。船長の責任において。」

「はい。……いずこに?」

 もちろん、答えはわかっていた。

「……地球。アカリの生まれた地球へ。」

「はい。」

 女の、思いつめた目を、デイジーはふんわりと笑って受け止めた。

「転移に使われた多次元粒子の残滓、消えるのに3分ほどかかりました。そのパターンを、前後7分21秒ずつにわたって記録してあります。つまり──、」

 デイジーは、にこりと歯をみせて笑った。

「転移後の4分21秒、次元をわたっている粒子のふるまいを、予知できたわけです」

「それで……、」

「まだ、わかりません。──もう少し、時間を。」

「……そう。」

 ルナは、ほっと息をついて、ぎりりと握っていた手をひらいた。

「だいじょうぶ。きっと会えますよ」

「わたしは……」

 なだめようとするデイジーの言葉を蹴るように、ルナは立ち上がった。

 にらみつけるように、……じっと、青い目をむいて、

「わたしは、あのひとの知っているルナでは、ありません」

「それは、もちろん。」

 デイジーはうなずいた。二重の意味で。とは、言わなかった。

 あのひとの故郷の友人、仮想世界の治癒能力者、そして、宇宙船デイジーベルの住人。話がややこしすぎる。

 いずれ、きちんと話そう。時間はたっぷりあるのだから。

「だいじょうぶ。」

 いいながら、デイジーはほんの少し、顔をいじった。やさしく、少し年上に見えるように。

「きっと、わかってもらえます。会えば。」

「わからなくても。」

「とは?」

「わからなくても、けっこうです。……わたしは。」

 まだ、ひりつく喉を、決意にこわばらせて、

「……ただ、あの、何もない極彩色の夢の中から、連れ出してくれたあのひとに、もう一度、会いたいのです」

 デイジーは、立ち上がってちょっと目をそらした。「他の乗組員のかたがたは、どうします。」と、低い声できく。

「まかせます。」

 ルナはそっけなく云った。わかりました、とデイジーはつぶやいた。

「……寝室の用意、できてます」

 そう、義体の口で言いながら、こっそりとメッセージを打つ。


 ──報告です、報告です。

 こちらはデイジー……、


 極彩色の、夢の中へ。

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