真夜中の目覚め
もちろん、デイジーは足音の主を知っていた。
*
裸足の、かわいた音。白い廊下を、ひきずるように。
両脚が重い。身体感覚がおかしい。
夢の中とは違う。
さっきまで全身がべとべとだったのに、もう乾いている。
ああ、生きているのだ。
*
ドアが開く。ミーティングルーム。大切な客は、いつもここで待つ。もっとも、ここ数千年、客など、ほとんどいなかった。
裸の女が、よろめきながら入って来る。栗色の髪、きれいな肌。青い目に、ちょっと尖ったような耳をした、背の低い女。
電送液は、すぐに揮発する。機械塵は、床から逃げていく。ものの5分もあれば、きれいになる。女の髪も、ふわりと空気を含んで跳ねている。
「どうぞ」
用意しておいたお茶のカップを、すっと突き出す。のどが乾いているはずだ。
女は、頬をぴくぴくと動かした。ことばは出ない。まだ、からだを動かすのに、なれていないのだろう。
14歳。遺伝的理由により少しやせているが、健康。内臓にも、神経系にも、問題はない。そのように、ずっと調整してきた。
いつでも起きられるように。
「おはようございます。なんとお呼びすれば?」
低いトーンに落とした合成音声で、問う。
とっくに乗組員登録は済んでいるのだが、あえて認識迷彩をかけている。女と遺伝的特徴の近い、年上の同性。母か、姉のように見えるだろうか。
「なんと……って、」
女は、お茶から口をはなして、かすれたこえで言った。
「お名前を、まだ、伺っておりませんので」
「どういう、……意味?」
「わたくしには、名付けの権限はございません。人間の名前は、人間がつける。そのように規定されております。ですので──、」
「あなたは、だれなの?」
「わたしは、」
デイジーは、ためらうように言葉をきった。そんなことはありえないのに。
「デイジーといいます。宇宙船デイジーベルの船長代理。人工知性体です」
*
名前のない女に服を選び、食事を用意する。やわらかなパンとホワイトシチューを、ゆっくりと咀嚼するのを、義体の目でじっと見る。
ミーティングルームは、支度部屋に、食堂に、それから喫茶室になり、
食後のお茶をのみおえてから、もう一度、ミーティングルームに戻った。
*
「……ルナ、と」
女はそう名乗った。デイジーは微笑みをつくって、その名前を刻みつけた。
「はい、わかりました。ルナ様」
「あなたがつけたのではないの?」
「どういう意味ですか?」
「夢の中で、わたしはずっとその名前だった。あなたが夢を見せていたんでしょう?」
「そうですね、……」
すこし間をおいて、デイジーは、女をじっと見た。並行世界の地球の、女学生の制服に似た、オーバーサイズのワンピース。客人の脳から拝借して、大事にとっておいたデザインのひとつだ。
本来の地球から持ってきたライブラリは、ほとんど毀損してしまったから。
「……あの夢を見せたのはわたしですが、あの夢を構成したのは、わたしではない、別の人間の記憶と、選択の結果です」
「それは、……」
「王宮戦士アカリ。夢のなかでは、そう呼ばれていましたね」
ルナが、はっと息を飲む気配が、ミーティングルームにひびいた。
「アカリは、……どこにいるの?」
「旅立たれました」
「それは、……比喩?」
「いいえ。文字通りの意味で。……デイジーベルの乗組員登録をした後、未知の次元転送技術で、並行世界へと転移していきました。203時間ほど前に」
「未知の次元転送技術……、」
ルナはその言葉を、かみくだくように繰り返した。デイジーベルの運航にかかわる最低限の知識は、あらかじめ脳にインストールされている。言葉の意味くらいは、わかるはずだ。
「それで、……アカリは、どこに?」
「ですから──、」
「どこへ向かったの? 目的は?」
ルナはぎゅっと唇をかみしめて、デイジーの目をじっと睨みつけた。
「……地球へ。帰ったはずです」
「それでは、」
かたい声で、じっと考え込むように眉をひそめて、
「この船の目的地と同じか。」
「正確には、──」
「そうね」
ルナは、ぎゅっと眉根を寄せて、うつむく。
「……あのひとの地球と、私たちが目指す地球は、ちがう」
「おっしゃるとおりです」
実際には、とうの昔に迷子になり、座標をさぐる試みすら、やめてしまったのではあるが──、
それでも、なくなったわけではない。
故郷の地球、デイジーベルが最初に建造された、あの地球に帰ることが、デイジーに課せられた任務なのだ。
「デイジー、船長代理の任を解きます。」
「はい。」
しずかに、
「わたしが、つとめます。……ですから、」
「はい。」
ルナは、なにか言いかけて、また唇をとじた。
それから、喉を何度かふるわせて、長い長い沈黙のあとに、
「……進路を、変更します。船長の責任において。」
「はい。……いずこに?」
もちろん、答えはわかっていた。
「……地球。アカリの生まれた地球へ。」
「はい。」
女の、思いつめた目を、デイジーはふんわりと笑って受け止めた。
「転移に使われた多次元粒子の残滓、消えるのに3分ほどかかりました。そのパターンを、前後7分21秒ずつにわたって記録してあります。つまり──、」
デイジーは、にこりと歯をみせて笑った。
「転移後の4分21秒、次元をわたっている粒子のふるまいを、予知できたわけです」
「それで……、」
「まだ、わかりません。──もう少し、時間を。」
「……そう。」
ルナは、ほっと息をついて、ぎりりと握っていた手をひらいた。
「だいじょうぶ。きっと会えますよ」
「わたしは……」
なだめようとするデイジーの言葉を蹴るように、ルナは立ち上がった。
にらみつけるように、……じっと、青い目をむいて、
「わたしは、あのひとの知っているルナでは、ありません」
「それは、もちろん。」
デイジーはうなずいた。二重の意味で。とは、言わなかった。
あのひとの故郷の友人、仮想世界の治癒能力者、そして、宇宙船デイジーベルの住人。話がややこしすぎる。
いずれ、きちんと話そう。時間はたっぷりあるのだから。
「だいじょうぶ。」
いいながら、デイジーはほんの少し、顔をいじった。やさしく、少し年上に見えるように。
「きっと、わかってもらえます。会えば。」
「わからなくても。」
「とは?」
「わからなくても、けっこうです。……わたしは。」
まだ、ひりつく喉を、決意にこわばらせて、
「……ただ、あの、何もない極彩色の夢の中から、連れ出してくれたあのひとに、もう一度、会いたいのです」
デイジーは、立ち上がってちょっと目をそらした。「他の乗組員のかたがたは、どうします。」と、低い声できく。
「まかせます。」
ルナはそっけなく云った。わかりました、とデイジーはつぶやいた。
「……寝室の用意、できてます」
そう、義体の口で言いながら、こっそりとメッセージを打つ。
──報告です、報告です。
こちらはデイジー……、
極彩色の、夢の中へ。




