蟻の神話
火がなければ、ないなりに。
魚のさばき方など知らないが、ともかくナイフを入れて、肉をこそげ取る。包丁よりずっと切れ味のよい青い刃は、メスのようにすっと軽く入っていく。
刺身である。少なくとも、そのつもりだ。
食える魚なのかどうかも、知らない。身は白くて、うまそうには見える。
ハギアは、また海に入っている。素手で10匹も魚をとって、まだ飽きないらしい。貝も集めてきた。ここらの海産物は、よく知っているらしい。
刺身のひとかけを、ちょっとかじってみる。身は硬めで、うまい。うまいが、
(……醤油、ほしいな)
そう、思う。醤油など、もう何週間も口にしていないが……、
「海水で塩味つけたらどうかな」
「やめときなよ」
カセイジンが即座に否定する。朱里はこっそり舌打ちした。
「朱里!」
ざばざばと音をたてて、ハギアがあがってくる。全裸である。
「これ、どうしたの?」
おおざっぱに髪を絞るようにして水を落としてから、とんとんと、まな板にしていた木をつつく。
「そのへんの木だけど」
「こんなに平らなのが転がってたの?」
「ちょっと、削ったの。これで」
青いナイフをみせる。刃はかすかにぶれて見える。魚の脂も、ついているようには見えない。
「……これで?」
ひょいと、刀身をつまみあげる。刃に指をおしつける。切れない。
「……貝じゃ、ない」
「貝?」
「これ、何なの?」
「何っていわれても…」
知るわけがない。ともかく、そういう素材だ。金属かどうかも。
「ふうん……、」
ほんの数秒、刃をじっと眺めて、
「食べていい?」
すぐに興味が移る。朱里がうなずく前に、刺身をふた切れ、まとめて取って、口に入れる。満足そうに顎を動かして、それから、座る。砂の上に、じかに。
「服、着たら?」
「まだ乾いてないし」
朱里は一瞬考えて、体のことだと気づく。服はそもそも濡れていない。
「……これ、使って」
鞄から布をとりだして、放ってやる。デイジーベルでもらった、吸水性の高い厚布である。
「え?」
「体、拭いて。服、着てよ」
「ああ……」
しばらくきょとんとしてから、立ち上がって、首もとに布をあてる。それから、少しぎこちない手つきで、胸、腹、手足。
拭き慣れていない。なんとなく、そう見える。
(異文化!)
なまじ翻訳機があって、人間がましく見えるので忘れそうになる。異種族だ。
いや、そもそも──、
「……体、だいじょうぶ?」
「なにが?」
「いや、その、違和感ていうか……」
「ぜんぜん!」
てきぱきとぼたんを留めながら、ハギアは大きな声でこたえた。それから、ぐちゃりと手で刺身をいくつか握って、口へ。
朱里は、一瞬だけ眉をしかめて、思い直した。──異文化!
自分も食べようとして、手づかみをするしかないことに気づく。箸も作っておけばよかった。
べつに、無理して食事をとる必要はないのだが──、
「……調子、いいんだよ。なんだか──」
勢いよく、咀嚼したものを飲み下しながら。
砂の上で伸ばした脚をもてあますように、ごそごそと爪先を動かして。
「そうなの?」
「うん。感覚がぜんぜん違うの。……ねえ、朱里はこんなふうに見えてるの?」
「うーん……、」
こんなふうに、と言われてもこまる。
「こんなに明るいのに、ぜんぜん痛くないし……」
「……まぶしくない、ってこと?」
「んー……」
黙りこむ。そのまま、数秒。
「──ねえ、あれ!」
ハギアは、とつぜん沖のほうに手をかざした。
「なに?」
朱里も目をこらす。なにも見えない。波と、水平線だけだ。
いや、遠くに鳥の群れ。あれのことだろうか。
「あの向こう、どうなってるの?」
「え……、」
なんと答えたものか。
「……ねえ」
話題をかえることにした。
「あなた、……どういうところから来たの?」
ごまかすつもりはないが、ともかく、そこからだ。
「うーん……」
ハギアはしばらく唇を動かしかけてはやめ、ようやく口を開いた。
「……せまいとこ、かな?」
「ええ?」
聞き方が悪かったかな、と思い直す。
「……狭いところって、地下、とか?」
「んー」
また、しばらく沈黙。それから、咀嚼音。飲み込んだあとで、
「……それ、よくわかんない」
「えー……、」
翻訳機の調子がおかしいのだろうか。それとも、語彙が。
「もしかして、穴の下、から?」
「うん」
こんどは正解だったようだ。
「じゃあさ──」
「ねえ、」
つづいて問いかけようとするのをハギアがさえぎって、
「朱里は、……蟻と生活してた人、なの?」
「……蟻?」
「ちがうの?」
「なに、それ。なにか……隠語?」
「えっと……。神話。聞いたことない?」
「ない! 教えて」
「えっとね」
ハギアは目線をさまよわせた。ちょっと上をむいて、まぶたをとじる。
また、数秒。いや、数十秒。じりじりと待つ。
「……わたしたちの、先祖の話」
「わたしたち?」
「わたしたち。ドレスの人も、ボーデの人も。辺境も」
「……それで?」
「わたしたちの先祖は、どこかほかの場所から来たんだって。その前にいた人たちは、蟻に囚われて……、蟻の手下になって、生きてたんだって。わたしたちの先祖が、蟻をやっつけて、その人たちを解放したの」
「へえ……蟻、見たことあるの?」
「あるわけないじゃん」
なるほど、と首を振って、朱里は眉をしかめた。蟻。翻訳機はそう言っている。とりあえず、保留にしておこう。
「その、解放された人たちっていうのは、どうなったの?」
「知らない。だから、朱里がそうなのかなって、思ったの」
「ふうん……」
とりあえず、こんなところか。
先のことは考えないことにして、会話を打ち切る。いつのまにか、刺身はほとんどなくなっている。水でも飲むか、と鞄に手を伸ばす。
「ねえ、」
ふいに、低い声でハギアがつぶやく。
「朱里は、──どこから来たの?」
なんとも、答えようがなかった。