海中の顔
季節はわからない。ただ、日差しはとても強くて、かわいている。
潮風。地球の匂い。そんな気がする。生まれた町が、港町だったからか。
朱里は、海岸に寝そべって、ぼうっと空を眺めていた。青空。雲が、かすかに遠い視界のすみにみえる。筋雲だ。
背中の下には、ざらざらした砂の感触。ここの砂は、故郷の砂とはちがう。一様に濃い茶色で、爪の先ほどの塊。硬いようだが、指でつぶすと、ぐずぐずになって溶ける。
朱里が着ているのは、デイジーにもらった密着服だ。足先から首元、指先までくまなく覆う、つなぎ目のない全身スーツ。光沢のない、銀色の。あわせ目も背中のスリットも、どこからも見えない。そのかわり、回路図のような、曲がりくねった線がべったりと乗っている。
砂が、直接に背中にあたっているように感じる。風も。まるで、裸でいるようだ。外側から生地にさわると、分厚い革のようなのに。
立ち上がる。
小柄な少女である。同年代の平均よりはほんの少し太く、起伏のない体のうえに、大人びた目をした顔が乗っている。頭は小鳥の巣のよう。この世界に転移してまだ半日もたたないのに、丁寧になでつけられた髪はもう砂まみれで、ぐちゃぐちゃに乱れている。
まつげが長い目のうえには、奇妙な眼鏡。木製で、ちょうつがいも鼻あても無い。きつめのフレームを、ぎゅっと顔におしつけてかける。丁寧に手で削られた。きつい、にらむような視線を隠して。
向田朱里。14歳。地球を出て並行世界を旅する少女である。宇宙船、砂漠、地の底、箱舟、夢の中。この海岸で、ちょうど6つめ。来週にはここも去る。
鼻の低い、四角い顔をすっと水平線に向けて、眉根を寄せている。
「なにを考えてるの?」
朱里の顔の横に、タコのような生き物が浮いている。
灰色で、四本足の。くちばしも、目も、漫画のように丸っこい。
いや、いるように見える。朱里には。
朱里の身につけた腕輪の力で見えている幻覚、人格付きホログラム。カセイジン、と呼ばれているが、むろん火星とは関係ない。宇宙船デイジーベルの生まれである。
「なんにも。……ううん」
砂を踏んで、歩き出す。裸足で。いや、足の裏まで銀色のスーツに覆われているのだが、まったく感じない。
「ちょっと、泳ごうかなって」
「ええ?」
カセイジンは、ばたばたと脚を動かしながら上下に動いた。
「やめなよ。何がいるかわかんないよ」
「今までそんなこと言ったことあった?」
「なにを──」
朱里は足をとめて、ふりかえった。ひょいと右腕をあげて、銀色の袖をカセイジンに見せつける。
「これ、ウェットスーツでしょ?」
「え⁉ いや、確かに、そんなふうにも見えるけど──」
海水に足首をつける。冷たい。
空気が涼しいので、気持ちいいというほどではない。が、不快でもない。この感覚もスーツに調整された疑似信号ではないかと不安になる。ともかく、水底をふむ。じわりと水が流れて砂が逃げる。
波が膝をつつく。楽しくなって、ざぶざぶと前に進んでゆく。
「泳げるの?」
「いやあ、あんまり」
「ちょっと!」
カセイジンが悲鳴をあげる。かまわず、進む。
足元を、じいっと、見る。ちいさな魚のかげが、足のあいだをぬけてゆく。それから、緑のくず。海藻のかけらだろうか。
あ、と声をあげる。
「眼鏡! 持ってて」
「持てるわけないでしょ!」
なあんだ、と小さく笑って、海岸までかけ戻り、置きっぱなしのザックの上に放って、ふたたび水の中に。
こんどは一気に、胸がつかるところまで。
水は澄んでいる。これだけ近くても、眼鏡なしではほとんど見えない。きれいだな、と思う。にじんで、万華鏡のよう。
顔を水につける。足を土からはなす。
とん、と跳ぶようなイメージで。
塩水が目にしみる。こらえて、まぶたをひらく。
足がつかない。
(わ……!)
ばたつきながら、あわてて向きをかえようとする。
深い。
パニックになりかけて、下を見る。
深い。
底が見えない。こんなに水が澄んでいるのに。
がぼ、と口から息が漏れる。
右脇を、何かがぬけていく。魚だろうか。ぐるりと体が反転して、頭が下に。いや、どちらが下か、よくわからない。明るいほうが上、暗いほうが下か。
なにも見えない──、
いや、見えた。顔が。
どくんと、心臓が跳ねる。体が硬直する。なにか、大きな動物の顔。鼻がつんと突き出して、皺の深い。
鮫。いや、魚には見えない。なんにしても、大きい。
朱里の体よりも、ずっと──
がぼん。
とつぜん、顔が水面にでた。浮力。
「大丈夫⁉」
カセイジンの声が、水のつまった耳にひびく。スーツの安全装置が働いたのか。そんな機能があるなんて、聞いていなかったが。
ぞくり、と震える。
もう一度、水底に目を向ける。こんどは、水面から。
何も、見えなかった。