箱舟の午後
アルバが先に食事をおえて、立ち上がる。ビーナはまだ半ばというところ。かれはいつも食べるのが遅いのに。どうも浮き立っているようだ。
「午後は、鎖の整備のことをもう一度やろう」
あっというまに皿を片付けて居間をでていく。返事をする間もない。
このところ、箱舟のことばかり。まえは算術や、図画美術にもっと時間をさいてくれたのに。押しかけ弟子が文句をいえた義理ではないが。
ただ──、
*
浮遊植物の群れで、空はくもっている。はるか上空でざわざわと茎がふれあう音が、ここまで聞こえてきそうだ。
「ここらの水では、錆はあまりつかない。だから、そう簡単にはこわれない筈なんだが、どうもつなぎめが構造的にもろいらしい。鎖の内部がこう、ひねったような形で合わせてあるから、──わかるか? ここだ」
アルバが鎖の絵図面をさす。いつもより、早口で。
なんだか、おかしい。やっぱり。
手のうごきも、どことなく。
アルバの口はずっと動いていたが、ビーナはもう聞いていなかった。
ずっしりとした不安の種が、どこかに埋め込まれていくようで。
*
アルバの私室。いや、書斎。
小さな分類箱がいくつも並んで、机のうえには、布の絵図面が三枚。背後の棚には、板表紙のついた貴重な紙の束が、ていねいに並べてある。──べレオ製ではない。蜘蛛人の都市から持ち込んだものか。
蜘蛛人の文字なら、少しだけ習った。
ビーナはそっと紙束のひとつを指で寄せて、表紙をながめた。読めるといっても、文字をひととおり習っただけ。意味は、よくわからない。
ころんと、なにかが落ちる。石であった。薄い、台形に加工された灰色の。広う。びっしりと、なにかが描いて、いや彫ってある。蜘蛛人の文字。
よくわからないままに、べレオふうの読み下しで音読する。しょ・う・か・ん・じょ・う。知らない単語だ。これは、──
「……べつに、隠すつもりはなかった」
アルバの声がした。びくりと震えてから、思い出す。たのまれていた図面。振り向いて、なにか言おうとする。アルバの声は、あまりに静かで。
「召喚状だよ。蜘蛛人の、行政府から──、」
蜘蛛人。滅亡したのではなかったか。少なくとも、このあたりでは。
「雨季のあいだに、投げ込まれたものらしい。証人として、箱舟づくりを請け負ってくれた蜘蛛人の名前が入っている。ケ=ナという蜘蛛人の権利義務を承継したものとして、おれを喚んでいる」
「……いってしまう、ということですか。」
「べつに、帰ってこないわけではない。ただ、蜘蛛人の政府がほんとうにまだあるのなら、おれはやはり──、」
「猿人の国をぬけて?」
「そうなるな」
危険です、といいかけて、ビーナは口をつぐんだ。アルバの口もとをみる。かすかに揺れている。迷っているのだ。ゆかないで下さい、そう言えば、この人は残るだろう。だから。
「ぼくも、──行きます」
「ばかな。だれが箱舟の守をするんだ」
「あなたが。次の雨季までに帰るのでしょう」
アルバは口をつぐんだ。ビーナは決然と口をむすんでいた。迷いなく。
そうして、──二人は、ゆくことになった。