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 理論物理学者、人見タツロヲの理論をもとに〈時空横断装置〉の試作型を完成させたのは旧帝大工学部教授のヒバリだった。

 枯葉の舞う季節になっていた。研究室の窓の外は雨が降っている。傘をさしてキャンパスを歩く学生たちはどこか物憂げだ。もう昔のような過激な文字が踊る立て看板はない。平穏だ。ヒバリは淹れたての珈琲を飲みながら、昨夜の会話を思い出していた。


「本当にいいのか? タツロヲ」

「ああ、頼む。もうこの世界に未練はない。肺の病気は、手の施しようがないそうだ」

「どうしても会いたいんだな? 彼女に」


 ヒバリは本棚に置かれたフィギュアに視線を移した。タツロヲが趣味で作っている、人型のフィギュアだ。フィギュアは、タツロヲがゼミの女子学生にヘンタイ呼ばわりされてから、ヒバリの研究室に避難してきたのだ。僕なら問題ないのかよ、とツッコミたくなったがやめた。

 タツロヲの無垢さに、少しでも応えてやりたいというヒバリの気遣いもあった。

 大学に戻り、理転してからのタツロヲはよく勉強した。ヒバリもそんな彼をずっと応援していた。お互い、髪の色も真っ白だ。


「今まで、ありがとな、ヒバリ」

「ああ……」

「今はいい時代になった。ヒバリは自分らしく生きろ。体は男だけど、そんなモノはただの容れ物に過ぎない。じゃあな」

「た、タツ……」


 人見タツロヲの体がだんだんと透けていき、実体から概念へと変換されていく。それは死ではない。分かっている。分かっているのに、ヒバリの胸は張り裂けそうだった。後悔もあった。自分の気持ちをタツロヲに伝えられなかった後悔……。

 そんなことも知らずに、アリエルそっくりのフィギュアは今日も可憐に微笑んでいた。

 

  ✳︎

 

「ヒバリ、お前いつまでウチにいるんだよ?」


 翌日も雨が降っていた。朝の空はどんよりとした色に染められていた。もう一人の仲間はマスタングに乗って帰ったのに、ヒバリはタツロヲの部屋の床に寝ていた。


「ドウシよ、君のケツイを聞かなければ帰れないよ。カクメイテキなケツイを……むにゃむにゃ」

 ヒバリは毛布にくるまり、適当に答えた。

「ふう……。威勢のいいことばかり言いやがって。判で捺したような言葉は聞き飽きたよ」


 芋虫のようなヒバリを跨いで、タツロヲは部屋を出た。ヒバリはタツロヲの背を一瞥して、〈あの娘〉も泊めたくせに、と恨めしい顔をした。

 しかしすぐに階下から大きな声が聞こえた。


「ヒバリ! あいつが、アリエルがいない!」

「やれやれ」ヒバリはビン底眼鏡を掛けてから、よろよろと階段を降りていった。

 

 二人が家の中を探し回ると、アリエルは意外なところで見つかった。

 冷凍倉庫の中で寝ていたのだ。


「マジかよ……」


 タツロヲは蒼い顔をしてすぐにアリエルを抱き寄せた。氷のように冷たい。おい、大丈夫か、と問いかけるとアリエルの瞼が開いた。


「大丈夫ですよ。私にはここが落ち着くんです」

「バカ、死ぬぞ。そんなことしてると」

「……」アリエルはちょっと思案してから、「ごめんなさい」と言った。


 アリエルとの生活は一部始終こんな感じだった。本人は巴里から来たと言っていたが、誰もそんなことは信じていなかった。あまりの無知と無垢さに、村人たちはどこかの病院から抜け出して来たのではないかと噂した。

 母親はすっかり心を閉ざしてしまって、教会に通う以外は自分の部屋から出ることはなかった。

 それでもタツロヲは、根気強くアリエルと村人たちとの信頼関係を築くように努めた。自分でもなぜそんなに懸命になれるのか、うまく説明できなかったけれど、アリエルはどこか儚げで、放っておけなかった。

 

  ✳︎

 

 タツロヲは彼女をオートバイの後ろに乗せて、村中を案内した。村役場、村の中央を縦に貫く一級河川、できたばかりのスーパーマーケット……。風を切って走るホンダ・ベンリイを見て、畑仕事の途中でも村人たちは手を振ってくれるようになった。


「あらあら、見せつけてくれますね。過激派の片棒担ぎの人見さん?」


 夕刻、バイクを降りた時、背後から男の野太い声がした。暗闇から一人、いや二人か。


「公安のクロフクか、こんな田舎まで何しに来た。まさか旅行ってわけじゃないよな?」

「まあまあ、そんなに怖い顔をしなさんな。今日は挨拶がてらに寄ってみただけだよ。また何か企んでいるんじゃないかと思ってね、君たちのセクトが」

「俺は足を洗った。調べるなら勝手にやれ。ただし友達を売ることは絶対にない」

「何かを企んでいたとしても?」

「共謀共同正犯という言葉くらいは知ってる。俺も俺の友達も無関係だ。もし変なことが起こりそうなら、体を張って俺が止めてみせる」

「おお、勇ましいこって! 警察の出る幕はないですねえ。頼みますよ、くれぐれも」

 そう言って男たちは闇に消えた。

 タツロヲはひたいの汗を拭った。

「ヒバリ、もう出てきてもいいぞ。聞いていたんだろ?」


 ガレージの柱の裏からヒバリが出てきた。彼は深刻な顔をして、何も言わずに母屋に戻った。

 

  ✳︎

 

 その夜、小さな村を台風が通過した。

 それほど大したものではなかったので、ほとんど村に被害はなかった。台風一過で、朝は晴れ渡った。久しぶりの太陽は村の隅々を照らした。暑くなりそうだ。

 しかしアリエルの体調はすぐれないようだった。


「熱でもあるのか?」


 タツロヲはアリエルのひたいに触れた。いつもは氷みたいに冷たいのに、ほんのり熱を帯び汗ばんでいる。まるで氷が溶けているようだ、と思った。


「少し横になっていれば大丈夫だと思いますわ」

「そうか、なら、いいが」


 不思議な少女だとは思っていたが、常軌を逸したところもあった。まず、氷菓子以外は何も口にしなかった。特に体を冷やすものばかりを欲しがっていた。ヒバリもさすがに心配していた。


「ねえ、タツロヲさん、ちょっと座ってくださらない? 何かお話を聞かせて欲しいの」

「ああ、どんな話がいいかな」


 ソファにタツロヲが座ると、膝枕のようにしてアリエルは頭を乗せてきた。透き通るように白い。いや、なんだか透き通りすぎて、自分の穿いているジーンズのブルーが見えているような気がした。気のせいか。


「私たちの前世のこと」

「俺たちが、過去に婚約していたって、アレか」

「ええ、タツロヲさんは信じていらっしゃらないんでしょう? よく考えたら当然ですわね」

「いや、それは……」

「いいんです。最近、それでいいのではないかと思えるようになってきました」

「あのさ、母さんのことなんだけど。悪く思わないでくれないか。親父が死んでから、少し不安定になっていてね。アリエルのことだって、きっと誤解してる」

「ええ、そうね……、それはもういいの。私はあなたと一緒にいることが大切なの」

「俺さ、やっぱり大学に戻ろうと思うんだけど、どうかな……」


 返事はなかった。いつのまにか、アリエルは寝息を立てていた。タツロヲはしばらく、ガラス細工でも眺めるように、アリエルを見ていた。

 

  ✳︎

 

 台風が去った後、冷凍倉庫のメンテナンスのため、電源を切った。在庫は前日までに全てはけた。タツロヲは倉庫の中を掃除していた。

 アリエルはリビングのソファで眠っている。

 柱時計の振り子が右へ左へと動く。

 長閑な昼下がりだった。

 タツロヲの母親は空腹に耐えかね、ガスレンジの火をつけた。青と紫とオレンジの炎がガスレンジの上に舞う。フライパンを置く。ところが手元が狂い、ブラウスの袖口に火がついてしまった。火は容赦無く自らの進むべき道を進む。

 台所で女の悲鳴が聞こえた。


「お義母さま!」


 アリエルは目を見開き、すぐにその場に駆け出した。水道の蛇口を回し水を目一杯出して、近くにあったバケツに注ぐ。ありったけの水をかけたが、今度はアリエルの服に火の粉が飛んだ。熱い……、熱い、熱い、熱い、熱い。

 アリエルは自分の服にも水をかけ、火を止めたが、火の粉はキッチン全体に飛び散った。一気に炎はキッチンをめぐり、母屋全体にその勢力を及ぼそうとしていた。

 アリエルは卒倒した母親を背負い、玄関の外に飛び出した。


「アリエル!」


 母屋から出る煙に気づき、タツロヲはアリエルと母親の元に駆け出す。


「お前、その腕……」


 アリエルの右腕はすっかり無くなっていた。

 それどころか、全身が溶け始めていた。

 タツロヲは彼女の構造をようやく理解した。

 冷やさなければならない!

 冷凍倉庫はメンテナンス中で電源が切れている。隣村の同業者のところに行けば、なんとかなるかもしれない。


「アリエル、乗れ! 」


 オートバイのエンジンを掛け、無理矢理アリエルを乗せた。間に合ってくれ。生まれて初めて、タツロヲは神に祈った。

 アリエルの片腕はしっかりとタツロヲを掴んでいる。


「タツロヲさん、ねえ、タツロヲさん。もう、いいんですよ。私は充分、役割を果たしました。これで、心おきなく消えていけます」

「ふざけるな! 俺はお前のことを守るって決めたんだ。だって、前世じゃ、夫婦になるはずだったんだろ? それが、こんな……」


 タツロヲは涙を堪えた。

 クソが、泣いてたまるか。

 グリップを捻り、スピードを上げる。

 竹やぶを突っ切り、堤防の坂を上り、橋を渡り、信号を無視し、隣村まで懸命に走る。


「タツロヲさん、ありがと」

 最後に聞こえた言葉はそれだけだった。

「さあ、ついたぞ、アリエル」

 タツロヲが振り向くと、そこにはもう誰も居なかった。残されたのは、掌に乗るくらいの小さな氷塊だけだった。

 氷塊……、とは、氷点下で固形化した水そのものである。雨、川、海、水蒸気の結合……、色は無く透明で六方晶系の結晶となったもの。逆に融点は通常の圧力で摂氏0度であり、その数値を越えればいとも簡単に液体へと変化する。液体はやがて、日の光にさらされ蒸発し跡形もなく消える。

 死者もまた、永遠の世界に去りゆくのだ。

 やがて何者かが、無垢な〈それ〉に息を吹き込み、命が宿るまで。【了】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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