一
明治三十九年、肺病を患ったある日本人の彫刻家が、巴里の片隅で喀血の末、死んだ。雪の降りしきる夜だった。残存する手記の断片から、彼は死の直前まで作品を彫り続けていたことが伺える。
「もう少しだ。もう少しで完成する……」
彼の作品はしかし、誰の鑑賞もゆるすことのないシロモノだった。何故なら、彫刻の素材は氷だったのだから。うらぶれたアパルトマンでの作業は、暖炉の火を消したまま行われ、完成した。しかし厳しい冬の寒さにあっても、作品は徐々に融解していった。なんぴとたりとも、時間を止めることなどできないのだ。
パトロンのオーギュスト伯爵は、ベッドの上で冷たくなった彫刻家を見て不可解に思った。死者の口もとが微笑んでいるように見えたからだ。なぜか幸せそうだ。伯爵は蒼い顔をしてアトリエを見渡す。窓からさす月明かりで、何とかそこにある物を判別できた。
床に残されていたのは、彫刻家の血痕と掌に乗るほどの小さな氷塊だけだった。水分はほとんど蒸発し、影のような丸いシミの中心に、孤島のように佇んでいた。
今となっては、その作品がどんなものなのか分からない。全身像なのか、胸像なのか……。ただ、伯爵は作品の人物の表情は想像できた。最期のモデルとなった少女は、オーギュスト伯爵の娘アリエルだったから。
伯爵令嬢アリエルの失踪が世間に流布されたのは、それからすぐのことだった。
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雑音混じりのラジオの音が、雨の音に重なる。
天気予報が流れている。どうやら台風が接近しているらしい。紅葉が始まった山の上を見つめ、人見タツロヲは冷凍倉庫の扉を開ける。ガレージ大の冷凍倉庫だから、電気代節約のために、いつものように手早く商品を取り出す必要があった。開けてすぐ右側の棚に、冷凍された山葵が並んでいる。卸売業者の飯のタネだ。
しかしその日は、すぐに閉めることができなかった。目の端に違和感を覚えたからだ。白煙に浮かぶ……人影?
そこには西洋の人形のような服を着た少女が座り込んでいたのだ。目を瞑っているので生きているのか判別できない。
「マジかよ……」
すぐにタツロヲの頭の中に浮かんだのは、刑務所の情景だった。取調室の、あの最低な雰囲気。いや、とりあえず人命優先か、と次の瞬間には気持ちを切り替えた。
「おい、大丈夫か?」
少女の腕を引っ張る。妙に重い。冷凍倉庫の表に出し、扉を閉める。時計回りにレバーを四十五度下に回してから、路面に横たわる少女が息をしているか確認した。
息をしている。
タツロヲは安堵して少女の白い頰に触れる。冷たくなっているが、人の温もりを感じる。
「やれやれ、どうすりゃいいんだ」
結局、母屋のリビングまで背負って運び、ソファに寝かせることにした。リビングではタツロヲの母親が、緑茶を飲みながら点字の本を読んでいた。母親は盲目だった。
「タツロヲ、誰か連れてきたの?」
「ああ、大学時代の後輩が玄関の前で酔いつぶれて寝ていたんで、ここに連れてきた」
本当のことを話しても信じてくれないだろうと思い、嘘をついた。我ながら下手くそな嘘だと思う。もちろんカンのいい母親は嘘に気づき、息子を詰問した。
「あんたまさか、またヘンな事件に関わったりしてないだろうね?」
「なあ、母さん、何度も言ったろ? とっくに昔の悪い仲間とは縁を切ったんだ。それに俺も二十歳過ぎてるんだから、心配する必要ない」
「どうだか」と言って、母親は不審に思う表情を崩すことはなかった。「父さんが死んだことを理由に大学、辞めちゃって」
「そ、それは……」母さんを一人にできないから、と言おうとしたが言い訳じみているのでやめた。実際、哲学科の博士課程では完全に煮詰まっていて、逃げ出したかったのも事実だ。
それに目の不自由な母のためだ、なんて偽善的なことを口が裂けても言えるはずがない。
「あのぉ、お取り込み中に申し訳ありませんが、ここはどこでしょうか? タツロヲさん」
「はい?」
母子は同時に、ソファの少女に向かって振り向いた。栗色の髪に碧眼の少女は、テーブルの花瓶から薔薇の花を一輪抜いて、匂いを嗅いだ。可憐な仕草だった。
「タツロヲさん、私のこと、覚えていないんですか? 私ですよ、アリエル」
「えーと……」
この娘はどこかで頭を強く打ったのだろうか。だとしたら、無用な混乱は避けるべきだ。ここは話を合わせておこう、とタツロヲは判断した。
「あ、ああ、忘れるわけないだろ? アリエル……さん、いや、アリエル。これから夕飯の支度をするところだ。な、母さん?」
「ひ、ひぃ! 悪魔!」
タツロヲが同意を求めて母親を見ると、すぐに異変に気付いた。母親は見えないはずの目を大きく見開いて、アリエルの顔を覗き込むと悲鳴を上げたのだ。それから、クワバラクワバラと呟きながら、自分の部屋に篭ってしまった。
訳がわからなかった。
「あら、今の方は義母さま?」
「そうだけど、なんであんた、もう身内みたいになってるんだ?」
やはりタツロヲも身構えた。彼女の背後に、とてつもない罠が仕組まれているのかもしれない。
「うーん、タツロヲさん、今は西暦何年でしょう?」
「昭和四十四年、つまり一九六九年」
そう言うや否や、外から砂利を踏む自動車の音がした。窓の外を見ると赤いマスタングが停まっている。フォード社のマスタング。〈昔の悪い仲間〉だ。タツロヲは嫌な予感がした。
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「タツロヲ、いつまでプチ・ブルみたいな生活を続けてるんだ。中央の連中はもう限界だ。僕たちは次の段階に入る」
「次の段階?」
ソファにはアリエルの隣に昔の仲間二人が座っている。アリエルは興味なさそうに、子猫みたいな欠伸をしている。ベルボトムのジーンズを穿いたビン底眼鏡のヒバリが、熱く語る。
「ああ、こうなったらもう爆弾闘争しかない。僕たちは現政権に対しカクメーテキテッツイを下す。ケンリョクの圧倒的な暴力の前に、僕たちは立ちはだかる。そのためには、君のような奴が必要なんだ」
「いや、勘弁してくれよ、そういうの。バクダン? 俺はお前らのそういうところが嫌になって、運動から離れたんだ。もう頼むから俺に関わらないでくれ。帰ってくれ!」
ヒバリは眼鏡を光らせ仲間と相づちを打った。奴の相づちは、何かを画策している証拠だ。
「あのぉー、バクダンでしたら私が設置しますわ。首相の公用車に」
アリエルがこともなげに言う。
「ばっ、アリエル! そんなのありえねえよ。俺は許さない」
タツロヲがそう言うと、アリエルは不満そうな顔をして立ち上がった。
「私はタツロヲさんの許嫁なんです。あなたができないことは、私がやるようにと、オリジナルのアリエルからプログラムされてるんです。だから……」
何だこの、藪から棒な展開。
過去に読んだ哲学論文を頭の中で検索するが、うまいワードが引っかからない。
「ちょっと待て。意味が分からないんだが、要するに過去に俺と同じ人間がいて、あんたのオリジナルのアリエルが婚約をしていた、ということでいいか?」
「まあ、そういうことになりますわ」
「だとするならば、それは起源同士の絆、あるいは約束であって、複製の俺たちには何の責任も発生しない。違うか?」
「まあ、理屈では……」
ヒバリはビートルズのレコードをジャケットから抜き出し、ターンテーブルにのせた。〈カム・トゥギャザー〉が流れる。お前らとどこに行けって言うんだ? 人見タツロヲはおかしな現実を目の前にして、軽い目眩を感じていた。
【つづく】