97 神殿の学び舎で勉強【異世界恋愛】 ファーレン ステラ サルトル 子どもたち
文字の読み書き、算数、絵や音楽などのアートの実践。神殿の片隅にて、聖女ステラのもとに行われる子どもたちへの授業には、教壇とそこに向かう碁盤目の生徒たちの席という、明確な上下の仕切りはなかった。今このときは、算数の勉強をみながやっている。
机が好きならそこへ、地べたに座るのが好きならそこへ。ステラを中心に彼女と取りたい距離を持ち、渡されたそれぞれの小さな黒板とチョークと黒板消し、紙や筆記具などを自分の選択でもって使っている。
ファーレンとサルトルは新参者として邪魔のないように部屋の壁にすこし背を持たせ、質問で手を上げるリタやアントニオに答えに行くステラを見守った。ステラの答えを受け取り、それを理解したリタとアントニオは、周りの子どもたちのフォローに入る。
ファーレンの瞳は、熱い。それはこれまでの学園とやり方がまったく異なる授業に見入っているのもあるが、かつて未来の王妃と思い愛したステラが目の前にいる。その理由も強かった。
「学校を変えて幸せだな? ファーレン」
サルトルはそっとささやいた。
「お、面白いなサルトル! 授業を理解した生徒が、まだ追いつかない生徒といっしょに勉強をするなんて、あの学園にはなかったぞ」
ファーレンは自身のこころをごまかした。本当は彼女だけを見ていても良いくらいの強い焦がれの気持ちを、彼はまだステラに抱いている。
「はい、ファーレンさま。きちんと答えを誰かに伝えることで、より理解が増すのです」
にっこりと微笑むステラの笑顔を、近くで見られる。ファーレンはそのことだけでも、こころが温かくなった。
「へへ、ファーレン! きょうは市場に算数の勉強をしにいくって知ってるよな?」
問題を子どもたちと解き終えたアントニオが、ニッと笑ってファーレンに絡みに来た。
「そうだったな、アントニオ」
「ボスとか大将って呼べよ」
「ははは、それはすこし勘弁願いたいな」
「……じゃ、まあいいや、アントニオで許してやるよ。きょう、市場で好きなものを買うために、ステラからもらえる銅貨は、ひとり何枚だか覚えてるか?」
「たしか、ひとり8枚、だったかな?」
「正解! そのへんはちゃんとしてるね、さすがに王太子とやらだ」
「ははは、王太子に記憶力は必須だからな。ついでに、都合の悪いことは忘れたふりをする努力もだが」
「うわあ……若いのに大変だね、ファーレン」
「まあな」
9才のアントニオに同情され、ファーレンは苦笑するしかなかった。
「じゃあさ、この8枚は、市場でどんなものを買えるでしょう?」
「それは、8枚分のものだろう? 俺はこれまで市場へ行ったことはないが、そのぶんの食料や雑貨といったものを引き換えられることくらいは知っているぞ」
「へへへ。じゃあ今日は、ファーレンにこのおれが『値引き』をしてもらうっていうワザを教えてやるよ!」
「ふむ。サルトル、この『値引き』とは何だ?」
神妙に聞くファーレンの顔を見て、サルトルは思わずプッ、と王太子を前にかなり失礼な笑いをしてしまった。
「あ、いや、すまん。算数のその先の実践としては、生活の上で庶民は必須な技だな、確かに」
「ファーレンさま! そんなことを覚えなくてもっ」とリタがあわあわする。
「なんだよリタ、今じゃリタも市場の八百屋さんでちゃんと『値引き』してもらって買い物をしてるじゃねえか」
「それは、そうだけど」
「じゃあ、ファーレンにだってちゃんと教えてやらなくちゃ」
「でも……」
「ふふ、アントニオ、リタ。ファーレンさまはね、きっとなんでも体験してみたいのよ。お忍びで市場に出られることも、なかなか大変なのですからね」とステラが間に入った。
「うわあ……王太子ってマジで大変だな。じゃあ今日は自由を満喫しようぜ、子分」
「心得た、アントニオ」
部屋での授業が終わり、子どもたちとサルトル、ステラは質素な服を身にまとった。
「さすがに、ファーレンはそのままでいてくれ。とりあえず、お前についてきた従者だとオレらを思わせて、それとなく守りを固めたいんだ」
「……分かった」
「守り? 王太子ってそんなに危ないものなのか」
「一度、学園と言う守られているはずの場所で殺されかけたことがあると言っておこうか、アントニオ」
「うわ……ほんとは王太子なんてイヤなんじゃねえの? やれないこととか、おかしなこととか多すぎじゃん」
「まったくだ。王政など、なくなってしまえば良いのかもな?」
「え、でもそれだとファーレン、王太子じゃない何になるのさ」
「まあ、憧れはふつうの男子並みにあるぞ? 冒険者をやってみたい、なんてな」
「冒険者!? 命がけの体を張る仕事だよ! それはそれでむちゃくちゃ大変だろ、ファーレンは物好きだなあ」
「アントニオは、何になりたいんだ」
「おれは神殿の聖職者さ。ここで救護の魔法とかも覚えられるから、しっかり勉強して、辺境の村や町を巡れるいい男になるんだ」
「ふ、それはいい夢だな」
ファーレンが9才の利発なガキ大将を見る目は、心底羨ましそうだった。
「出かけましょうか、ファーレンさま」
そっとステラが言う。
「俺はな、アントニオ。好きな女の子すら、勝手に付き合えない悲しい立場なんだ。分かってくれるか?」
これ見よがしに、ステラに大きく聞こえるようにファーレンは告げた。
「……こころから、大変すぎるって思うよ、ファーレン。好きな子が、すぐそばにいたとしたらなおさら、だよなっ」
アントニオはファーレンの真の想いを受け取り、大人びた納得の表情を浮かべる。
それを聞いたステラのほんのすこし動揺した顔に気づいたのは、ファーレンだけ、だったろうか。
「さ、みんな準備はできてるぞ。行くとしようか」
サルトルがみなを促し、それぞれに銅貨8枚を持って、市場へ出た。




