75 沖縄慰霊の日に寄せて 【戦争】
昭和20年(1945年)の6月23日。鍾乳洞のようなガマ(沖縄の防空壕)のなかに、ゆいは生まれたばかりの息子のまるを抱いて入った。
外から聞こえる大きな爆撃音や銃弾の音におびえ、そっと暗闇の中で身をすくめているひとびとがいる。
「ここはもういっぱいだ。ほかをあたれ!」
本土の兵士と思われる男が、ゆいにわめいた。
「ここしかないんです。隠れさせてください」
ゆいは懇願する。
「ダメだ!」
鬼気迫る大声に、ゆいの腕のなかでまるが泣きだした。
「んぎゃあ、んぎゃあ」
「うるさい! ここにいるのがばれるだろう。とっとと出て行け! そうでなければその赤ん坊を殺すぞ」
「そうは言っても、外に出たら銃弾と火炎放射器と戦車の大砲が待っています。わたしたちふたりとも死んでしまいます」
ゆいは言いながら、だんだんと腹が立ってきた。
「本土の人間が起こした戦争で、なんでわたしたちがたくさん死ななければならないんです。本土のひとたちはわたしたち琉球の民をさんざんバカにして下に見ていたのに。だからこの沖縄は米軍を上陸させても良いと思ったんですか!?」
「本土も各地を空襲されている。痛みは同じだ」
「ちがう!」
ゆいは本土の兵士をにらみつけた。
「沖縄の人間だったら、米軍が陸に揚がって、たくさんの戦車と銃とで死んでもいいと思っているんでしょう!? もういいです。ここにいて本土の人間に殺されるより、わたしとこの子は外に行きます」
ゆいはそうきっぱりと告げて、まるを抱いたまま外に出た。
銃弾が彼女をかすめて行く。
その姿を見て、持っていた火炎放射器の手を止めたのは、米軍の兵士クロサワだった。
クロサワは日系人で、この戦いに自ら志願した。アメリカの国内で敵性国民ではないかという疑いを晴らすには、そうするしかなかったのだ。
「ボス! 女の人と赤ん坊が出てきました」
「民間人か?」
「そのようです」
「装って自爆するんじゃないだろうな」
「どうします」
「ちょっと待て」
クロサワの上司は無線機の向こうと話し合った。
「オウ、ジーザス!」
「どうしたんですか」
「そこの母親と赤ん坊は、運がいい。たった今、日本軍が沖縄から撤退した。ここでの戦争は終わりだ」
「了解。オカアサン、オカアサン。私、言葉分かります。戦争は終わりです。あなたたちを守ります」
思いがけず日本語でそう告げられ、ゆいは、まるを抱きしめたまま、その場にくずおれた。
(……天皇陛下バンザイ!)
ガマのほうからそんな声が洩れ、洞くつの中で大きな爆発音があとに続いた。
ゆいは昭和と平成、そして令和を生きておばあになった。
まるは男の子ですくすくと成長し、三線(さんしん、沖縄の三味線)の名手になった。
昭和20年(1945年)の6月23日。沖縄慰霊の日とされるその日を、ふたりは決して忘れない。
明日(6月23日)は沖縄慰霊の日です。
沖縄戦では、多くのひとびとが亡くなりました。沖縄のひとびとの4人にひとりが亡くなるという数で、銃撃と砲弾と火炎放射器とのなかで、あるいは自決といったかたちで死んで行きました。
平成の天皇陛下であった上皇陛下は、忘れてはならない四つの日として、6月23日(沖縄慰霊の日)8月6日(広島原爆の日)8月9日(長崎原爆の日)そして8月15日(終戦の日)をあげられました。これは、かつての宮内庁のホームページにも掲載されていました。
その後日本は長らくの平和を迎え、飢える苦しみも、殺し合う悲しみも無い時代を続けてきましたが、世界では紛争や内戦が拡大し避難民が増加の傾向にあります。世界の誰もが安心して暮らせる時代がやって来るように望みます。
祈りに代えて。




