59 その後温泉宿で見た夢は 【社会派ヒューマンドラマ&現代恋愛】 犬養芳也 美貴
どうにもならない。男は、今は衰えて白髪になった母親に、彼女の髪が黒々と美しかったころはしつけと称する、殴る蹴るの暴行を子どものころに受けた。役立たず、産むんじゃなかったと毎日のように言われて育った。
そして、大人の年齢になっても精神バランスの悪かった男はそれでもすこし仕事をしたが、会社のひとびとと人間関係を良好に作れるはずもなく、すぐにやめて家に引きこもった。こもってから数十年は経つ。いつしか、老いた母親に対し、暴言を吐くのは男の方になっていた。
今日は、見かねた親戚が男と白髪の母親との仲直りをさせようと、家から彼らを出して、三大温泉のひとつにふたりを連れてきた。夕食のバイキングでは、それに加えて特別メニューの地元牛の陶板焼きも頼み、本来なら美味に舌鼓を打つはずだった。
酒がすこし入ったのだ。そのあとのことは、男はうろ覚えだったが、老婆のちょっとした言葉がきっかけで家にいるときのようにブチ切れてしまった。
人生どん詰まり。ついには警察沙汰になった。
男は観念して、おとなしく交番の一室で椅子に座っていた。
「……あなたのお母さんを、害するつもりはなかった、ということで良いですか」
温泉街の一角にある交番。メモを付けていきながら若い女性の警察官が男に尋ねた。
「……」
返事をするのも億劫といった様子で、男はうなずいた。
「宿のレストランでは、あなたは威勢よく叫んでいたようですけど、あなたが押して転ばせたというあなたのお母さんにもケガはありませんでしたし、あなたがほかの誰かに殴りかかるということも無かった。最低限の分別が、あなたには付いていたということです」
……だけど俺は、あのクソババアが死ねばいいと思ってきたんだ。男の心にはその事実があった。
「いっそのこと、刑務所に入れろ。頼む」
男は、言葉少なに女性警官に頼んだ。
「そうして、刑務所でひとまず食べて生活ができることを願って、軽犯罪をやるあなたぐらいの年齢から上の人、結構いますが……」
女性警官は深くため息をついて、言葉を続けた。
「死にそうなほど貧乏でも、自由があったことを刑務所で偲ぶひとも多いんですよ。今回、あなたの言葉はすでに恐喝の域になっていたようですが、交番へ来たのは初めてのようですし、ひとまず犯罪にはしません」
「俺ぁ、あのクソババアを、そのうち、きっと、殺すぞ」
「そう、ならないように、福祉の方々に事情を話して、あなたとあなたのお母さんのあいだに入ってもらうようにします」
メモをまとめながら、女性警官はそう告げた。
◇ ◇ ◇
犬養芳也は目を覚ました。奇妙にリアルな夢だった。三大温泉のひとつの宿で、彼と恋人の美貴は温泉に入ってゆったりしたあとの爽快な朝を迎えていた。
「おはよう、ヨシ君」
「……ああ、おはよう、美貴ちゃん」
スマホの時計を見ると、まだ朝ごはんには時間がある。
「ごめん、ちょっと仕事をしてもいい?」
芳也は、夢のことを忘れないうちに書き記していこうと、部屋のすみに置いた荷物から、メモとペンを取り出した。
「いいよ、ヨシ君の仕事は小説を書くことだもん。思いついたときにきちんとメモしないとね」
美貴が微笑む。
「じゃあ、わたし、ゆっくり朝風呂にでも行ってくるね、ヨシ君」
美貴が気遣って、タオルを持ち部屋を出て行った。彼女のそういうところに、芳也は心底感謝している。
彼は、先日のアクシデントで見た男のその後を、言葉にして書きつけ始めた。




