58 温泉宿のレストランで起きたこと 【社会派ヒューマンドラマ&現代恋愛】 犬養芳也 美貴
犬養芳也と美貴は、ふたりで三大温泉のひとつと言われるところに来ていた。まだ新型コロナウイルスの勢いがここまで猛威をふるっていない時期に予約し、GOTOトラベルが一時停止になる手前でもあったことから、そのまま旅行することを決めたのだ。
今年の年末年始は、お互いおそらく会えないだろう。そう思い、今年最後となるだろうふたりの旅行をキャンセルはせずに楽しむことにしたのだ。
しかしたまたまこの日に予約を入れて旅行にやって来たことを、ふたりがすこし戸惑うような出来事が起きたのは、夕食のために宿のレストランへ来た時だった。
夕食のスタイルはバイキングだ。新型コロナウイルスの感染を防ぐために、宿も、食事の席に着いているとき以外、マスク着用をお願いと言うよりは、ほとんど義務とし、バイキングの食材を取るための手にはビニール製の薄い手袋着用もするようレストランの入り口に置いて、但し書きを貼っている。
「食べてるとき以外は、マスク着用なんだろうけど、しないでちょっと話すのはやっちゃうよね?」
美貴は好物のグラタンや天ぷらや、この冬、宿の名物として掲げられていた寒ブリのお刺身などを持ってきて席に着くと、一応はマスクをしたまま、恋人の芳也にそう言った。
「うん。席を立つときはやるけど、食べているあいだについちょっとだけ話すときも、マスクしろっていうのは現場を見ずに言っていない無理筋だよね、美貴ちゃん」
芳也も笑った。
「少人数で会食しろって言っておきながら、自分たちがそれを守ってないお偉いさんの言うことをぜんぶ聞くつもり、ある?」
「ははは。まあ、自粛をお願いしておきながら守っていない、っていうのはひどかったよね。まあGOTO事業を打ち出して経済を回すのと、感染者数を減らすために移動制限をかけるのと、どっちも気にかけていかなくちゃならないからお偉いさんも大変なんだろうけど」
「また感染者が増えてきたから、そのうち外出制限もかかるかもね。今のうちに旅行が出来て良かった」
「うん。僕も美貴ちゃんと来れてうれしいよ」
ふたりが笑い合っていると、突然ガチャン、と大きな音がレストランの席のひとつから聞こえてきた。
「おんどれらぁ、ボケェ!」
男の野太い叫び声がする。
何事かとそちらをふたりが向くと、ひとりの50代くらいの男が席から立ちあがり、ともに来ている白髪の老婆に叫んでいたようだった。
「おらぁ! 帰るぞボケェ!」
湯上りの客でにぎわっていたレストランのゆるい雰囲気が、一気にこわばった。
「はよ来いやボケェ!」
男が隣の席にいた老婆に触れると、彼女は力なくペタリと椅子から落ちてしまった。
「お前、ばあちゃんに何しとんじゃあ!」
見かねた客のひとりが、男に食ってかかった。
「なんだとこらぁ!」
男と客がにらみ合う。なだめようと、宿のスタッフも飛んできた。
「支配人を呼んできて!」
スタッフがそう言うことで、ようやく男は黙ってレストランから離れていった。すこし遅れて、老婆も床から立ちあがり、去って行った。
「……なんだろね、ヨシ君」
「うーん……最近よく取りざたされている、引きこもりの5080問題みたいな組み合わせだけど」
「5080問題?」
「引きこもっていた人が老齢化して、その親も寿命ギリギリの年齢になって、面倒が見られなくなってしまう家庭が、日本のあっちこっちで発生してるんだよ。おそらく、『ボケェ』しか連発できないあの男のひとは、頭に血が登っていたとしても語彙力がかなり少ないっていう感じを受ける。堅気で仕事をしているような感じではなかったよね」
「……家であんな感じだったのが、ここでも出ちゃったってこと?」
「うん。だけど、あのおばあさんも床に倒れてしまったけど、けがはなかったようだし……考えようによっては、彼らにとって良かったのかも」
「良かった?」
「こうして、ひとがたくさんいるところで、暴言が明らかになったわけだから。もし、家で新型コロナウイルスを避けてこもっていたら、そこで殺人事件が起きてしまう案件だったのかもしれない」
「ヨシ君……」
「僕は小説でミステリーもそれなりに書くけど、本当の殺人事件は家族だとか、親族の間が多いんだよ。それこそ、面白くも何ともない後味の悪い現実がほとんどさ」
芳也は悲しげに、男と老婆が去った後を見送った。彼と美貴がふたりで粛々とバイキングの食事を終え、何とも言えない気持ちでレストランを出ると、ちょうど、6人ほどの警察官が入って来た。スタッフが状況を説明し、警察官を案内して行った。
「僕がもしこの話を小説化するなら、警察に突き出されて性根を入れ替える主人公を書くかなあ」
「……そう、なるといいね」
ふたりは警察官がバタバタと去って行くのをもどかしい気持ちになったまま、見つめていた。




