一部の人々に「純文学」が色々と誤解されているらしい件。
最近、拙作への反応を見て思ったんですけど、「純文学」という代物に対して妙な偏見を持っている人って意外に多いのですね。
いや、基本的にどんな誤解や偏見を持っていてもそれは個々人の自由だと思います。
わたしだって、基本的には、そうした偏見に干渉するつもりはない。
ただそれは、「自分自身に害が及ばない限り」という但し書きがつくけど。
そうした反応に幾つか接したことで気がついたことなんだけど、上から目線で、
「こんなものは純文学ではない!」
などと断言するやつに限って、実際にはろくに小説を読んだことがないらしい。
だって、今、普通に小説を読んでいたら文学と幻想性が不可分の関係であることは、特に学ぶつもりがなくても経験的に知っているはずだし。
わかりやすいところで実例をあげると、村上春樹。
三島や川端と並んで世界で最も読まれている日本人作家の一人であるハルキ・ムラカミの作品の大半には、リアルとは別の世界が登場する。
歴史的なことろでいえば、上田秋成に曲亭馬琴、泉鏡花など、必ずしもリアル志向ではない作家を日本の文学史の中から取り除いたとしたら、その中身はひどく貧弱なものになってしまうはずだ。
世界に目を向ければ、ボルヘスをはじめとするマジックリアリズム系あり、カフカあり、ピンチョンあり。
ぶっ飛んだ設定や内容の作品で、なおかつ世界的な評価を得ている作家や作品はいくらでも存在する。
普段から普通に小説を読む習慣がある人にとっては、これくらいのことは常識、わざわざ誰かに説明したりされたりする必要もない、自明の理なわけです。
これはもうはっきりと断言しますが、異世界から帰還した元勇者が登場する拙作などは、文学史の基準から考えても実におとなしい、チンケなくらいの思いつきであり設定です。
作品のクオリティについてはいまさら言及するまでもありませんが、その奇想においても、すでに殿堂入りを果たしているような方々の足元にも及びません。
嘘だと思うのならば、最寄りの図書館にいって「日本文学全集」とか「世界文学」といった類の本を、ざっとでもいいから一通り読んで見ることですね。
奇想もですが、それ以上に毒気や暴力、差別、欲望などのあらゆる悪徳が横溢している作品が一定数存在し、「文学」という語感から連想するような内容からはかなりかけ離れた作品が含まれていることを確認できるはずです。
ぶっちゃけていってしまうと、人類の想像力と創作力はこれでなかなかたいしたものでして、もう大抵のことはやり尽くされています。
次に「純文学」という名称。
小説の一部をこうしたカテゴリ名で区別しているのは、ほとんど日本だけだそうです。
全世界的な規模の事情までは不勉強なもので知りませんが、少なくとも欧米ではそのような区分はない。
ただ、娯楽目的で大衆的な小説と、いわゆる知的階級にむけたハイブロウな小説の区分はあるそうです。
それもあんまり厳密なものではないらしいです。
ただ、想像するに、そもそも商業的な事情を考慮すると発行部数的に異なってきますから、自然に棲み分けができる感じなんでしょうな。
ではなぜ日本ののみで「純文学」というカテゴリが成立して一般的になっていったのか、という問題については、この場では取りあげるつもりはありません。
興味のある方は、独力で調べてみてください。
今ならば検索さえすればたいていのことはわかりますから、たいした手間はかからないはずです。
では、
「純文学とは高尚なもの」
「純文学とは○○ではなくてはいけない!」
みたいな思い込み、ないしは偏見はどこに由来するのか?
この問題については、わたし自身もしばらくよくわからなかったのですが、前述の拙作への反応の中である方に、
「純文学って、羅生門や高瀬舟やこころとかみたいに人間の心の葛藤や本質について考えさせられるような作品のことか思ってたし。」
(以上、「」内引用)
といわれて、
「ああ、そうか」
と腑に落ちました。
教科書だ。国語の教科書が原因だ、と。
今さらいうまでもないことなのですが、教科書に採択されるような作品は、教育的な見地から、比較的安全で無害な作品しか選ばれません。
確かにそういうのも純文学ですが、純文学のすべてがそういうものではない。
どうか、一部分だけを見て全体を理解したつもりにならないでいただきたい。
教科書の中でしか文学に触れたことがない方が、こうした思い込みをしやすいのだ。
と、そのように悟った次第です。
まあ、だからといって、そうした狭器な偏見にこちらの側が合わせてやる義理など微塵もないわけですが。
これはあくまで私見に過ぎませんが、「純文学」なんてそんなに神聖視をするべきものではありません。
先人たちが積み上げてきた業績に対して最低限の敬意は必要だと思いますが、読みもせずに高いところに祭りあげておくよりは、適度な距離を取った上で気軽に接した方がいい。
つまり、気が向いた時に普通に読む、くらいの感覚がちょうどいい。
ろくに読みもしない癖にわかった気になっているよりは、その方がずっと健全だと思います。
橋本治という作家はあるエッセイの中で、
「サドは古本屋の棚に並んでいるとポルノに見えるが、図書館の棚の中にあると文学に見えるが」
といった意味のことを書いています。
うろおぼえなんで、具体的な作品名は思い出せないし、一語一句この通りなのかは自信がありませんが、大意では間違っていないはず。
ある作品が「純文学」であるかのか、それともそうはないのか。
その差は、せいぜいその程度のものです。
もうひとつ例をあげておくと、ジム・トンプソンという作家がいます。
アメリカ人の作家で、いわゆるダイムノベルといった種類の作品を量産した典型的なペーパーバックライターですね。
一時期はベストセラーをいくつも出して、いくつかの作品はハリウッドで映画化もされています。
殺人とか犯罪者とかを扱った作品がほとんどであり、本国アメリカでの評価も、あくまでそれなりです。
売れた作品もぼちぼちあるけど、そこまで重要な作家ではないされてきました。
で、後年になってこのジム・トンプソン 作品がフランスで翻訳されるようになると、前述のハイブロウな領域で話題になり、いわゆる上流の文学として評価されるようになりました。
「人間の実存を描いている」
うんぬんと、そんな理由であったそうです。
そのフランスでの評価が本国アメリカの方にも飛び火して、再評価されるようになったそうです。
この例からもわかるとおり、ジャンルの境界と同じく、高尚なものであるのか否か差も、実はそんなにはっきりとしたものではない。
ときと場所、あるいは作品を受けとめる側の知性や価値観によって大きく変わってくる。
その程度の、相対的なものに過ぎません。
妙な先入観や思い込みに惑わされることなく、自分自身の見識のみを頼りにして、目の前の事物を曇りのないめで 見て、評価した方がよろしいですよ。