通らない喉
「ごめんねぇ、また持ってきたの」
おっとりとした口調で、隣人が両手を差し出した。染みが目立つ年齢を重ねた手には小鉢がある。ラップの下にはナスの煮物が行儀よく鎮座していた。
「いえ、こちらこそ。いつもすみません」
老女の曲がった腰は上がらず、背の高いMを窮屈そうに見上げる。笑った瞬間、ほうれい線が色濃く刻まれた。
「いつも貰ってくれてありがとうね」
たくさん作りすぎたからと、二〇一号室の老女はおかずを持ってくる。それも、毎日。昨日はきんぴらごぼうだったと、ひぐらしの声を聞きながらぼんやりとMは思い出した。
「彼女さんは元気?」
「おかげさまで」
「そうかい」
それじゃあと老女が去っていく。背の低い小さな背中にお礼をかけたあと、扉を閉めた。夏の湿気を含んだ暑さが消え、室温の変化に敏感な冷房が冷たい風を送り始める。部屋は薄暗い。電気をつけず、カーテンは締め切り、点けっぱなしのテレビからは情報番組が流れていた。
平日の夕方。薄暗い部屋で受け取った小鉢に視線を落とす。そういえば、きんぴらごぼうが入っていたタッパーを返し忘れていた。どうせ明日も来る。そのときでいいだろうとMは扉の鍵を閉めた。
ごとんと隣の洋室から音がした。病弱な彼女が起きたのだろう。無理に動かなくていいのにと苦笑しながら、Mは彼女の部屋へ向かった。
Mが裏野ハイツに引っ越してきたのは数ヶ月前だ。築三十年の木造建てのアパートの立地は良く、彼女も気に入ってくれた。洋室を彼女の部屋に決め、自分はリビングで寝る。彼女は同じ部屋でいいと言っていたが、同居しているからこそお互いのプライバシーは大事にしたかった。
Mは仕事の都合上、夜に外出する。病弱な彼女は自分から部屋を出れず、引きこもっている。アパートの住人たちからは、姿が見えない住人扱いされているらしい。付き合いは大事にしたほうがいいと老女に言われたが、Mとしてはどうでもよかった。
彼女といられるのなら、それで。
冷蔵庫を開ければ、老女が持ってきたおかずの残りが目に入った。心配性というべきか、おせっかいというべきか。老女はMを気遣い、あれこれ世話を焼こうとしてくる。人と交流が苦手なMとしては快くなかったが、ほっといて欲しいと拒絶できず、断れないままおかずを受け取る日々が続いていた。
老女は一人暮らしだ。七十歳は越えていたはずだ。いつも作りすぎたとおかずを持ってくるが、Mの分をわざわざ作っているのだろう。一度、孫の写真を見せてもらったことがある。ずいぶん大事にしているのかやけにくたびれていた。会っている様子はなさそうだったが、他人の家庭の事情に突っ込む趣味はなかった。老女は勝手に自分に世話を焼いているだけだ。興味がない。Mは先程受け取ったナスの煮物を冷蔵庫に入れ、乱暴に冷蔵庫を閉めた。
翌日、Mはいつも通り夕方に起床した。ベッド代わりのソファーから体を起こす。テーブルに置いたスマートフォンを手繰り寄せて時間を確認すれば、出勤時間まで余裕があった。老女のおかずは彼女の口にあっただろうか。彼女は食が細い。だが、食べなければ活力がつかない。欠伸をし、彼女の部屋に行こうとしたところでドアチャイムが鳴った。
ドアスコープを覗くと、予想通り老女が立っていた。Mの生活サイクルを知っているのか、いつも夕方にやってくる。他人に生活を覗かれる気味悪さを感じたが、できるだけ人当たりのいい顔をつくり扉を開けた。
「こんばんはぁ」
間延びしたゆったりとした声。老女の背後の空は赤く、ひぐらしが鳴いていた。ねっとりとした熱気が部屋に入り込んでくる。今日も昨日と同じ快晴だったようだ。洗濯物を取り込むのを忘れていたとMはぼんやりと思い出した。
「今日ね、お兄さんにどうしても見せたくて」
Mは三十歳の半ばを越えている。お兄さんと呼ばれるには微妙な年齢だ。名前を何度か教えたが、老女は覚えていないのかいつもお兄さんと呼んでくる。
老女の手におかずはなかった。代わりに、タオルケットに包まれた膨らみを大事そうに抱えている。老女の声は上機嫌に弾んでいた。
「今日ねぇ、久しぶりに娘が来たの。それで新しい孫だって」
新しい孫。妙な引っかかりを感じたが、喜びを伝えたくてわざわざ隣人を尋ねてきたのだろう。
「顔を見てちょうだい。娘に似てとっても可愛いのよ」
「はぁ」
Mの気のない返事に上機嫌なまま、老女はタオルケットの包みを持ち上げた。赤ん坊は苦手だ。泣かれると厄介だから。刺激しないよう、Mはタオルケットを指先でつまみ上げた。
そこにいたのは、人形だった。
作り物の空虚な眼と目が合った気がした。
反射的にMは手を引っ込めた。両手を後ろに回す。タオルケットに触れた指先が妙に冷たい。
「あの、お孫さん、ですか」
「えぇ、そうよ」
老女の様子は変わらない。冗談を言っているようには思えなかった。
タオルケットの下には作り物の顔がある。見間違いではない。ソフトビニールでできた赤ん坊は髪がなく、何度も触れられたのか頭は薄汚れていた。目は瞬きせず、口は開かない。
老女が抱えているのは、やはり人形だ。
動かない、動きようがない、ただの人形だ。
玄関の外はねっとりと暑いのに、纏わりつくような悪寒がする。ひぐらしの声がやけに遠く感じた。今、自分がどういう表情をしているのかMはわからなかった。
「可愛いでしょう?」
人形の口の周りに白い液体がついていた。生臭い臭いに覚えがある。
「ミルク、飲ませたんですか……?」
「えぇ、この子。とってもよく飲むのよ」
人形が飲むわけがない!
頭の中でMは叫んだ。
だが、本物の赤ん坊だと信じている老女に何を言えばよいのか。事実を告げる勇気などMにはなかった。
玩具の犬や猫を買う人がいるが、あれは偽物だとわかって愛でているのだ。疑似的なものではない。老女は本物だ。偽物を本物として、本物と接して、可愛がっているのだ。
老女は二十年近く一人暮らしをしているはずだ。久方ぶりに娘に会えたと言っていたが、もしかしたらそれすらも妄想かもしれない。くたびれた孫の写真だって怪しい。写真に映っていた幼い孫と何年会っていないのだろう。もし、家族と会えない事情があるのなら、恋しくなり、何かが壊れてしまったのかもしれない。
これらは全てMの憶測だ。事実は知らない。知るすべもなければ、知りたいとも思わなかった。
「ねぇ、可愛いでしょう?」
老女は同じ質問を繰り返した。
濁りかけた目は、Mとどれくらい同じもの映しているのだろう。
Mは今すぐ扉を閉めたかった。もう関わらないでくれと老女を追い返したかった。だが、ここで怒鳴っても老女は驚くだけだ。なるべく穏便にすませたい。彼女とのささやかな日常を守るために。
「かっ、可愛いです……」
なんとか絞りだした。
老女は笑みをさらに深くした。珍しく肩を震わせている。ふふふと笑う姿はどことなく上品だった。
「あなたなら、わかってくれると思って」
理解を求められても迷惑だと、Mは胸中で呟いた。
「ごめんなさいね。突然、押しかけて。この子が来たら忙しくなって、まだおかずも作ってないの。また明日、余ったら持ってくるわね」
「はぁ」
「彼女さんによろしくね」
老女は去っていき、Mは扉を閉めた。室温の変化に敏感な冷房が冷風を送り始める。扉の鍵を閉めてから、またタッパーを返し忘れたとMはぼんやりと思い出した。
老女は覚えている。
Mが隣の部屋に入居した日を。
背中に赤ん坊を背負い、老女は台所に立っていた。ねんねころりよを口ずさみながら、物静かな赤ん坊をあやす。赤ん坊は泣かない。髪の毛は生えない。瞬きはしない。それでも老女は歌う。ぼうやはよい子だ。ねんねしな。ゆったりと歌いながら包丁を握る。慣れた手つきで軽快にきゅうりを切る。
老女の足下には、似たような赤ん坊がいくつも転がっていた。皆、服を着ておらず、座っているものもいれば、寝転がっているものもいた。どれも口は開かない。開けない。喋れない。
けれど、老女には聞こえるのだ。
彼らの声が。
老女は赤ん坊に話しかける。料理の話、テレビの話、自分が若かった頃、家族ができた話、娘と大喧嘩した話、大切な孫を連れていなくなってしまった話。
娘は突然、孫を連れて出て行った。止めようとした老女に渡されたのは、赤ん坊の人形だった。
「そんなに大切なら、これをあの子だと思えばいいじゃない」
自分の何が悪かったのかわからない。わからないが、あの日、老女は娘に絶縁を言い渡された。
気づけば、人形が増えていた。買ったのか貰ったのか覚えていない。恐怖は感じなかった。むしろ老女は喜んだ。娘がこっそり帰っておいていったのだと思った。戻った形跡がなくても、そうだと信じた。次第に、人形が瞬きするように見えた。何も映さない目がこちらを映しているように思えた。髪が生えない頭から、熱が伝わるような気がした。泣かないはずの声から、食べ物をねだる泣き声が聞こえるようになった。
だから老女は料理を作る。自分のために、動かない赤ん坊のために。作った料理を食べさせる。
老女は知っている。
この料理を隣人のMは食べている。
あの彼女にも食べさせている。
Mが入居してきた日、彼女を背負いながら階段を上ってきた。タオルケットがかぶせられた彼女は病弱だと話していた。自分から動けないと。無口で物静かな女性だと。
老女は覚えている。
あのとき、タオルケットの下に球体間接の脚が見えたのを。
顔を上げれば、彼女はMの肩に頬を当てていた。何も映さないはずの眼と目があった気がした。
老女は歌う。ねんねころりよ。歌いながら夕食を作る。
明日は何を食べさせてあげようかと。
小さな可愛らしいその口に。