書き置きはポストイットに。
気がつくと、知らない場所にいた。
「あら、目が覚めた?」
「……私……」
「間宮リオちゃん、椿女子大の学生さん、でしょ?
学生証見せてもらったわ」
戻ってきた視界にうつったのは白衣を着た綺麗な御姉様。
「こ、ここは……?」
はっとして私は起き上がり、くらりとした頭で、ああ、私は倒れたんだと初めて気がついた。
「ダメよ、そんなふうに起き上がっちゃ。
ここは梶大の医務室。
私は高野、よろしくね」
「梶原大学……」
梶原大学とは、私の通う椿女子大学と程近い場所にある学校であり、ちょうど梶大の裏門のある通りが私の通学路でもある。
どこで倒れたのか記憶が曖昧なのだが、ここの学生が運んでくれたのだろうと予想。
「そしたら私、ここの生徒と間違えられたのかもしれませんね……」
「そうね……でも私、ちょうど席はずしていて、誰が運んでくれたのかわからないのよ」
高野先生は“てへ”という顔をして言う。
「え?」
「戻ってきたらこの書き置きがあって。あなたがいたの」
渡された大きめのポストイットには、
“裏門近くで倒れていました。
宜しくお願いします”
と、独特な字で書かれている。
とてもペン先の細いペンを使用しているようだった。
「これだけでは、助けてくれた人を見つけられそうにないですね……」
「ごめんなさいね、私が不在だったために……」
「いえ……。
すっかりお世話になってしまい、ありがとうございました」
私はそのポストイットを手帳に挟んで立ち上がる。
すると高野先生は慌てたのか、
「大丈夫?一人で帰れる?独り暮らし?」
といくつか短い質問をしながらマグカップに温かい紅茶をいれてくれました。
「姉と二人で住んでます。
あ、姉は梶大出身です」
「あら、そうなの?」
何か思い出そうと、
「間宮さん間宮さん……」
と名字を何度か呟き繰り返してから、こう言った。
「あんまり医務室って来る人いないのよね。だからちょっぴり退屈で……。今日はあなたに会えて嬉しいわ」
私は紅茶をすすりながら、ぼんやりと高野先生を見ていた。すると、
「貧血だったのかしらね、だいぶ顔に赤みが戻ってきたわね。
あんまり何度も倒れるようだったら、病院に行きなさいね」
と、高野先生はきちんと私の顔色まで見ていてくれたんだと、なんだかほっとしました。
「この辺りで気分が悪くなったら、いつでも来て良いからね。
警備員に止められるようだったら、医務室の高野先生の親戚ですって言っちゃって良いから」
高野先生はそんなことまで言ってくれて、なんだかありがたかった。
医務室をでて、私は連れられてきたであろう道を通り、裏門から学校を出ました。
「いったい誰が……」
裏門を出たところで、私は記憶をたどろうとしました。
目の前がじわじわと見えなくなって。
段々と耳が遠くなって。
立っていられないほどの重力を感じ、しゃがみ込んだ。
人間って倒れるとき、こんなふうになるんだって、初めて知った感覚。
ああ、誰かが「大丈夫?」って声をかけてくれた……気がする。
しゃがんだ私の肩を支えてくれて、そのままその方の腕に倒れた。
……ような気がする。
まだふわふわとしている脳内。
これは単に貧血のせいなのか、それともお礼を言えないもどかしさからなのか……。
「何?倒れたの?」
「うん……気がついたら梶大の医務室にいたの」
その夜私は、姉、間宮レイに一部始終を話した。
「医務室なんて、私行ったことなかったなあ……。
ていうか、医務室の場所わかる学生って珍しいかも。
にしても、運んでくれた人がわからないって困ったものね」
姉はそう言いながら、自分の爪のケアをしているものだから、真面目に話を聞いてくれているようには見えない。
「それで身体は大丈夫なの?」
「なんとか……」
「そう?変だったら病院行くのよ」
「はーい」
会話があるだけマシなのだろう。
私はそう思いながら姉の爪を眺めていた。
「そういえば、あんた合コンとか興味ある?」
「え?」
「一人来られなくなっちゃって。
明日の夜なんだけど……来ない?」
「それって、他に学生なんていないでしょう?」
「んー……あ。男の子に、院生の子がいるって言ってたかな?
あんた、真知子わかるでしょ?」
「梶大のときからの親友さん?」
「真知子も来るから居づらいことはないでしょう」
姉は“はい”としか言えない空気を作り出すのがうまい。
確かに真知子さんはよく家にも遊びに来ていて、三人でご飯をしたりすることも度々あった。
「わかったよ、明日体調が良かったらね、」
翌日の朝、意外とすっきり目覚める事ができ、なんだか不思議だった。
リビングには、
“お洒落してくること”
なんてメモがあり、普段は貸してくれない姉のお気に入りワンピースがいくつか用意してあった。
なんだか気が重い。
しかしその中に、私がお下がりに欲しいと言っていたワンピースがあり、「やった!」と思わず声をだしてしまう。
しかし瞬時に、姉に見透かされているような気がしてきて、今日は1日ため息をつくことになりそうな、そんな気がした。
「やっぱりそのワンピース着てきたのね!似合うじゃない、さすが私の妹」
待ち合わせ場所に行くと、すでに姉は真知子さんと一緒だった。
「リオちゃん久しぶりだね、」
「お久しぶりです!またぜひ遊びに来てください~」
「そうだね、また三人でたこ焼きパーティーしたいね!」
真知子さんはわりと派手な見た目の姉とは違って、落ち着いた清楚美女だと私は思う。
「お待たせ!あ、噂のリオちゃん?」
最後にきたのはまた二人とは違ったタイプのほんわかお嬢様系な方でした。
「初めまして。レイの同僚の、のどかです」
「リオです。姉がいつもお世話になってます」
「さすがリオちゃん、レイより大人だね~」
真知子さんがそんなふうに言うので、私は姉の顔を恐る恐る見てみたが、姉は「でしょ~」なんて言いながらリップグロスを塗っていた。
どうやら今日は気合いが入っているようである。
「お待たせしました~」
男性との待ち合わせは駅前。
そう声をかけたのは、のどかさんだった。
「私の学生時代の友達が、むこうの幹事なの」
のどかさんは私が姉から何も聞かされていないだろうと察して教えてくれる。
「私こういう感じのお店初めてです……」
サークルの飲み会なんて、大手チェーンの居酒屋さん。
ある程度想像はしていたけれど、大人な雰囲気のオシャレなお店に呆気に取られてしまう。
「自己紹介とか、します?」
「ん~合コンっぽすぎてなんか嫌だね」
幹事同士の話し合いにより、幹事が名前と関係性を簡単に話すことになったらしく、自己紹介と聞いてドキッとした私はほっと一息ついた。
「えーと、拓海です。
俺の大学の時の先輩の中谷さんと、お友達の速水さん。
それから友達の矢田」
「拓海の友達の、のどかです。
同僚のレイと、レイの友達の真知子ちゃん。
三人は同い年で、あ、拓海と矢田さんも一緒だね。
そしてなんと!レイの妹のリオちゃん、大学……何年だっけ?」
「あ、2年です。二十歳です、」
私がそう言うと、
「そっか、ここには先生と、大学院生と、大学生がいるんだ!」
拓海さんが面白そうに言う。
「大学、どこなの?」
「椿女子大学……」
「近い!俺、梶大の院なんだ。大学は違うところだったんだけどね」
矢田さんはそう言って一息ついて、
「あれ、速水先生」
と速水さんを指差す。
「まさか知ってる学生とこういった席で一緒になるなんて……ね」
少し気まずそうに笑う速水さん。
「まあ先輩、今日は食事会ですから気にせずに」
「拓海、食事会という名の合コンなんだろう?」
中谷さんがタイミングよくそう言ったので、場は一気に和やかになる。
「私、昨日梶大の裏門あたりで倒れちゃって……。
気づいたら梶大の医務室だったんです。あ、姉の出身校なんですよ」
「リオ、真知子も一緒だよ。
私たち残念ながら速水先生とは初対面。
イケメン先生がいるっていう噂は聞いていたんだけどね、」
姉はサラダを取り分けながらそんなふうに言う。
「それよりリオちゃん、身体は大丈夫なの?」
矢田さんが私の顔をじっと見つめてきたので、私はあわてて目をそらす。
「はい。高野先生が良くしてくださって、紅茶までいただいちゃって、」
「高野先生、顔色までちゃんと見てくれて、良い先生だと思うけど。
不在な事が多くて困るよな……」
ずっと黙っていた速水さんはそう口を開く。
「そうなんです、昨日も不在だったみたいで、ポストイットに書き置きして、助けてくださった人、誰だかわからないんです」
私はそのポストイットを出してみた。
「そのポストイット、梶大の売店で売ってるやつじゃない。記念に買うことはあっても。なかなか使ってる人見ないよね~。
あ、先生は必需品だよね」
姉に言われ改めて見てみると、確かにそのポストイットには梶大のマークがうっすらと入っていた。
「それにしても独特な字ね……」
真知子さんは紙よりも字の方が気になったらしかった。
「確かに。これはペンも特徴的よね、普段使いなのかしら……?」
そう言ったのはのどかさん。
「……君だったんだね、昨日の子」
「え?矢田さん……?」
私はなんだか納得できなくて、そのメモを見つめる。
「拓海なら字、わかるんじゃないの?」
中谷さんの問いに、
「え、俺?俺わかんないよ矢田の字なんて……」
と拓海さんは言葉を濁す。
「ほら、俺それ使ってるし、字くらい書くよ」
矢田さんは鞄から使いかけのポストイットとペンを出し、同じように、同じ文を書いてみせた。
「一緒……に見えるけれど……」
姉は“どうなの?”と聞きたそうな顔をする。
「ごめんなさい……わからない……」
「裏門から帰ろうとしたら、女の子が倒れてて。梶大の子だと思って医務室に運んだ……。
昨日は顔色も悪かったし、別人のようで……言われるまで同一人物だって気づかなかったんだ」
矢田さんはそう言った。
「そう……ですか。ありがとうございました。ご迷惑おかけして……」
私はわからなかった。
何もわからなくて、ただそう言うことしか、できませんでした。
「いや、せっかくこうやって出会えたんだし。今度ご飯、付き合ってよ。美味しいお店連れていってあげるからさ」
苦笑いすることしか、できませんでした。
矢田さんと連絡先を交換した私は、後日ご飯に連れていっていただくことになりました。
姉に相談したところ、一度くらい良いんじゃない?と言われたからでもありました。
私はあまり気が乗らなかったのですが……。
「あれ?リオちゃん、またこの間と雰囲気が違うね」
待ち合わせ場所に着くと、そう言われました。
「あ、この間は姉が服を貸してくれたので……」
「そうなんだ、お姉さんのセンスが良いんだね」
この人は、平気で人を傷つける言葉を言うらしい。
前回会ったときと、少し様子が違うように見えました。
「この前はリオちゃん、あまりお酒も飲んでなかったみたいだし、今日は周りを気にせずに二人で飲もうね」
と、連れていかれたのはオシャレなバーでした。
「こんなところ初めて……。
でも私、お酒そんなに飲めなくて」
「大丈夫。甘いお酒、教えてあげるから」
矢田さんは、なんだかすごく慣れている。
院生で、同じ“学生”とはいえ、大人だと、私は思いました。
知らない名前のカクテルを教えてくれて、カワイイ色や、可愛らしいフォルムのグラスに私は楽しくなり、携帯のカメラでたくさん写真も撮りました。
「大丈夫?」
「この間みたく、ちょっと頭がふわふわと……」
「少し休んだ方が良いみたいだね、」
「酔っぱらっちゃったんですね、私……」
気がつくと、知らない場所にいた。
「目、覚めた?」
「……私……」
「間宮リオちゃん、男の前でそんなふうに酔っぱらっちゃ、ダメじゃないか」
「矢田さん……?ここは……」
「ベッドの上だよ?顔が真っ赤だ。
暑いのなら脱いだ方が良い」
頭がガンガンして起き上がれない。
脱力した身体では、なんの抵抗もできない。
ブラウスのボタンを外されていくのを、黙って見ていることしかできない……。
「あなたは、嘘をついた。
こうする、ため?」
「なんのことかな?」
「私は倒れてなんかいなかった。
助けてくれた人は、私が気を失う前に、身体を支えていてくれたんだもの。
今日会ったときに雰囲気が違うと言ったけれど……」
私は一息ついて、続ける。
「倒れた日に着ていた服と、全く一緒なのよ……。覚えていても、おかしくないでしょう……?」
「矢田!!」
そこに現れたのは、速水さんと姉でした。
「リオ!無事なのね…ごめんね、私……」
姉は慌ててはだけたブラウスを閉じ、私を抱きしめます。
「拓海に家を聞いておいて良かった……」
どうやらここは矢田さんの家らしいと、速水さんの言葉でやっと確信しました。
「リオちゃんを助けたのは……俺なんだよ!」
「速水……さん?」
速水さんは“先生”の立場ではなく、一人の男性として、矢田さんに一発入れていた。
ああ、よく考えたら、はじめから私を助けてくれたのは“速水先生”しかいないじゃないか。
私は自分がバカだと思った。
『不在な事が多くて困るよな……』
と言っていた。
姉は『医務室の場所わかる学生って珍しいかも』とか、梶大ポストイットは先生には必需品だとか、ヒントになることがいっぱいだったじゃないか。
「なんで初めに、言ってくれなかったのよ……。
先生が言ってくれれば……こんなことにならなかったじゃない……」
気がついたら、私は泣きながらそんなことを言っていた。
すると、速水さんはどこか寂しそうな……それでも何か安心したような顔をして言った。
「僕は、君の“先生”ではないよ、」
と。
それから私は気を失い、気がついたときには自宅にいました。
姉は以前よりも私を気にかけるようになり、のどかさんは拓海さんを家に連れて来て、二人でたくさん謝って行きました。
矢田さんはその後引っ越したようで、連絡もとれなくなったのだと、その時拓海さんが言っていました。
「高野先生、こんにちは」
私は学校帰りに、梶大の医務室に寄りました。
「あら、リオちゃん!」
「先日はお世話になりました。今日はお礼に……」
「なになに?」
高野先生は私の差し出した箱を、キラキラした目で開けはじめます。
「椿女子大のカフェのプリンじゃない!有名よね、一度食べてみたいと思っていたの!」
「本当ですか?何が良いかなって、考えたんですが……。
またお紅茶いれてくれるかなって思って」
私がいたずらっぽくそう言うと、高野先生は「もちろん」と小さく笑って、あの時のマグカップに紅茶をいれてくれました。
「プリン、みっつ?」
「あ、そうなんです。
高野先生は梶大ポストイット持ってます?」
「持ってるよー?」
高野先生は不思議そうにポストイットを一枚くれました。
「助けてくれたかた、わかったんです」
「あら、そうだったのね」
私は高野先生の視線を感じながら、
“先日は大変お世話になりました。
お礼が遅くなってしまい、すみませんでした”
と書き、プリンのふたにはりました。
「高野先生、これを速水先生に届けていただくことって可能ですか?」
「速水先生だったの~……。良いわよ。先生の部屋、ここからすぐ近くだし」
「あ、だから速水先生は高野先生の不在が多いことを知ってるんですね……」
私が思わずそう言うと、高野先生はギクリとして、
「それはまずいな……」
と呟きました。
「でも、良い先生だって言ってましたよ」
「そう……。
あら、○○さんへ○○よりって、書かなくて良いの?」
高野先生はポストイットのメモを見て、そんなことを聞きました。
私は紅茶をゆっくり飲みながら、
「ええ、私は探すのに時間がかかってしまったけれど……。
この人はすぐに“私”を見つけてくれるはずですから」
なんて言ってみた。