二人の日 2
藍は周りの人に支えられながら、『我が家』へと帰った。
最初、その姿をみたチヨは目を丸くして駆け寄ったが、服についた血が藍のものでないとわかると安堵のため息を漏らした。送り届けた人々から話を一通り聞いて、奥の部屋で藍を座らせる。
白湯をいれ、それを彼女の隣に置いた。
「大丈夫?」
「気持ち悪い……」
他人の血で赤くなった服を脱ぎ着替えながら、まだ青い顔をしている。
その横で「とんだ目に合ったわね」とチヨは布団を用意する。
「たまにあなたみたいな人が運ばれてくるわ。この辺りは長州の侍が多いみたいだから巻き込まれるのね。でも全く怪我をしなかったのは幸運よ」
チヨは布団を敷き終わるとそこに藍に移るように促す。
「精神的なものだからすぐよくなるわよ」
それからチヨは中断していた診察を再開しにいった。
藍は目をつむり恐怖と未だ残る五感に打ち勝とうとした。
その頃祐樹はというと、藍の事件のことなど露知らず、優雅にお茶屋でねじり菓子を食べていた。甘党の祐樹は京都の甘味に魅了されていたのだ。食べながら道行く人々を観察し、お茶をすすっては未来――自分が来た世界――に想いを巡らせている。
今大学では何の勉強をしているのだろうか。家族や友達は元気だろうか。心配しているのだろうか。自分自身のことはどうなっているのだろうか。
そして、自分の嫌いな父親はどう思っているのだろうか。
(医学なんて……)
祐樹はハァとため息をつく。最後のねじり菓子を口に入れ会計を済ます。
さすがにこの時代で買い物することには慣れてきた。外国で買い物するよりも日本語が通じるだけお金のやりとりはしやすく有り難い。
立ち上がり、またぶらぶらと散歩をしようと思った矢先だった。
「ちょっと、あんたどないした? あんた!」
茶屋の中から叫び声が届いてきた。祐樹は何事かと急いで店に戻る。
「あんた! 返事しておくれ!」
ざわめく店の中で祐樹が目にしたのは顔色を悪くした店主の倒れている姿だった。奥さんが揺すっても反応がないようだ。
祐樹の身体は固まった。どうしよう、とそればかりが頭を駆け巡る。
『現代(平成時代)』では彼は医学生といえど、まだ大学に入りたての一年生であったし、医学知識はないに等しい。あるとしてもわずかな基礎的な知識と、心肺蘇生の実習を一度しただけだ。
彼は辺りを見回す。誰か医者はいないのか。誰かが助けないのか。これが『現代(平成時代)』であればいくつか打つ手があるのに。しかし店に来る誰もが寄って見学するだけで何もしようとしない。そして自分もその一人だった。――けれど、このまま何もできなくていいのか。
(俺は、平成から来た人間だぞ……!)
彼の中のわずかなプライドが働いた。人を掻き分け倒れた店主のところへと向かう。
「誰どすか……」
もう駄目だと落胆しきった女性は目に涙を浮かべ、野次馬の一人であった祐樹を暗く沈んだ瞳で睨んだ。しかし次の彼の言葉に、その女性の瞳に微かに希望が浮かぶ。
「医学をかじった者です」
「お医者様どすか?!」
「いえ、今は違います。まだちゃんとは診れません。だから早く誰か医者を!」
祐樹の一声で野次馬は顔を見合わせ何人かは「そうだお医者だ!」と走り出した。
祐樹は何かとんでもないことをした気分になるがもはや引き返せない。心臓が口から飛び出しそうになるが、必死に平常を装った。
彼が店主に呼びかけてみてもやはり反応はなかった。次は……。
「息をしていない。脈もほとんど感じられない」
わずかな望みにかけて心肺蘇生をするしかない。恐らくこの時代にはない概念かもしれないが、命がかかっている。自分ができることといえばこれくらいしかない。
祐樹は店主の顎を持ち上げ気道を確保し、空気が逃げないように鼻を塞いだ。そして息を吸い込むと口から口へ、空気を送り込む。
店の中がざわつくのが祐樹にはわかった。突然何を始めたのだ、衆道か、死人に接吻したぞ、鼻を摘んで口まで塞ぐとは殺す気なのかと様々な台詞が彼の耳に明確に飛び込んでくる。
(俺は衆道――ホモ――でもないし、これはキスでもなんでもないっての。しかもこの人はまだ死んでないだろ……! 助けたいんだよ。殺すなんて言うなクソが)
そんなことを思いながら二回肺に空気を送り込む。そして離れると、祐樹は両手を店主の胸の真ん中に置き、体重をかける。
(二回の人工呼吸に一五回の心臓マッサージだったよな?)
色々と試行錯誤しながら記憶を引きずり出すようにして人工呼吸と心臓マッサージを繰り返す。周りに誤解を弁解する余裕もない。