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拝啓 自分様  作者: 荒川 晶
手紙の日
31/43

手紙の日 3

(はぁ……ダメ、もう走れない……)

藍は京都の町の入り口まで走り続けていた。だが息も持たず、体力の限界に近かった。いくらこの時代にきて鍛えられてきていると言っても往復で約二〇キロの距離だ。そう簡単ではない。

(あと、少しなのに。どうしたら……)

 膝に手をつき息を整える、そんな彼女の真横を籠が通り過ぎる。羨ましい。彼女はそう思わずにはいられなかった。

「藍坊か。お前、何してんだ?」

「! 左之さん!」

 彼女が顔を上げると見慣れた顔があった。私服姿の原田だった。

「お願い! 助けて!」

「な、なんだよ、突然」

 藍は原田の袖を引っ張り懇願した。形振り(なりふり)を構っている暇はないのだ。

 彼女は一通りの出来事を彼に話した。話してはいけないなどと考えている余裕もなかった。

 原田は眉間にしわを寄せてしばし聞いていたが、藍の差し出す手紙を手に取る。

「なんとなくわかった。とりあえずこいつをあんたの所の女に渡せばいいんだな」

「行ってくれるの?」

「任せろよ。これでも毎日鍛えているんだからな」

原田は腕を捲りあげるとついた筋肉を自慢げに見せる。

「ついでに女の護衛もしてその田中って奴の所まで送っていく。今日一日だけだがな。明日は非番じゃねえから」

「構わない! ありがとう! このお礼はきっと返すから」

「じゃ、時間もねぇようだしさっさとこれを渡してくるか」

 原田はニッと歯を見せて笑うと、藍の頭をくしゃりと撫で「頑張ったな」と一言放ち駆けていった。

 原田の後ろ姿が見えなくなると藍の全身が震えだし、膝が笑う。壁にもたれ、膝が地面に着くと、しばらくの間彼女はぼんやりと天を仰いだ。

 青い空にのんびり流れる雲は相変わらずで、太陽は真上からやや傾いていた。

もうそんな時刻か、と彼女はふと思う。

(やれることはやった)

 手足の震えを感じ、彼女は四肢の指にぐっと力を込めた。

(死ぬって、どういう感じなんだろう)

 田中の姿を思い返し、藍は目を閉じる。食事を取れていなかったのだろうこけた顎に、不衛生な生活環境。看取ってくれる相手もなく、ただ独りでその時を待つ感覚。

 藍にはわかるわけもなかった。そんな自分を想像することさえ、忘れていた――否、避けていた。だが彼らにも必ず訪れるそれ。ましてや、元の時代に戻るために『死にかけること』が必須だとしたら、それはそう遠くない感覚なのだろう。

――怖い。

 そう思うことは罪ではない。寧ろ正常なのだろう。そして、彼女も正常なのだ。

 彼女は原田に撫でられた所に手をやると、閉じた瞳から涙が伝う。死の恐怖、親しくなった人々との永遠の別れ、そして遥か彼方にある自分の故郷を想った。


 その日の夜、いつもいるチヨの姿も当然なく、藍は本当に一人だった。彼女は畳に布団を敷き、蝋燭に灯をともす。こんなに静かな夜は藍にとっては初めてかもしれない。外では人々の行き交う足音や話し声は聞こえるが、それさえも静けさと暗闇に飲まれていく。チヨはこんな環境でずっと一人でいたのかと、そう彼女は思わずにはいられなかった。

 することもなく、藍は寝巻に着替えようと着ていた着物の帯を緩める。その刹那、がらりと扉が開いた。

「あ」

「お」

藍の目線と、暗闇にぼんやりと浮かぶ男の目線が合った。一瞬の間に彼女はその男の正体と状況を把握して、顔を紅く染めて急いで無言で帯を締め直す。一方で男――原田も同様に照れるかと思いきや、にやにやと彼女を見ているだけだった。

「へえ、藍坊、意外に良い体型してんだな」

「う、うるさい! 早く扉閉めてよ!」

彼女は傍にあったお盆を投げつけようとするも、彼は笑ってそれを制止した。

「落ち着けって。報告に来たんだよ」

 その姿は藍の目の前に迫り、彼女の手にしていたものを取り上げていた。投げつける物を無くした彼女は振り上げていた腕を下ろし、口をへの字に曲げる。

「なんだ、嬉しそうだな」

「これのどこが嬉しそうなの」

「口は笑ってないが、目が笑ってるぜ。そんなに一人の夜が寂しかったのか」

「そ、そんなことない」

 藍は図星を突かれ、より深く眉間にしわを寄せた。そんな姿を見て再び彼は笑う。

「本当、会った時からその寂しがりだけは変わらねぇな、藍坊」

 原田は藍の頭に掌を乗せ、ぽんぽんと叩く。彼女の頭を触る原田のその癖に、藍は思わず微笑んでしまう。だが、それも一時のことであるとわかっていた。もうすぐ、彼とも永久に別れてしまうかもしれないのだ。藍の笑みの中に、うっすらと影が浮かぶ。

「それで、田中さんとチヨさんは?」

「ああ、それなんだけどな」

 チヨを送り届けた原田は、笑みを消して目を伏せた。

「着いた時にはまだ息はあったが殆ど反応はなかった。恐らく、男は今夜にも逝っちまうかもしれないって診たてだったぜ……」

「そう……」

「今夜いっぱいは付き添うそうだ。あとは分からない。本当に送り届けただけだ」

「私がもっと早く田中さんを訪ねていれば……」

「死の運命はそう簡単に変えられるもんじゃねえよ。お前のせいじゃない」

 その言葉に藍はちくりと胸が痛む。原田はまだ知らないのだろう。『死にかけること』が元の時代に戻ることの条件であり、それが近づいてきていることを。

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