転機の日 1
人の転機とはいつなのだろうか。夢を持った日。挫折をした日。喜んだ日。傷ついた日。楽しんだ日。苦しんだ日。恋をした日。失恋をした日。喧嘩をした日。仲直りをした日。誰かが生まれた日。誰かが亡くなった日――
きっと一人一人の人生で転機はやってくる。やってこない人生などはない。それをどう捕らえるか、その後どうするかは自分自身にある。誰もが転機を嫌がり、そして望む。変わることへの不安と、変わることへの期待は複雑に絡み合う。それは彼らにとっても同じことだった。医者になりたくなかった彼と、一人で行動することがなかった彼女。彼らは『現代(平成時代)』から幕末へ行くことで大きな転機を迎えようとしていた。
祐樹が大阪、適塾に来てから一ヶ月経っていた。戸惑いの中始まった新たなスタートは彼にとって、ある意味では二度目の転機であった。一度目はこの時代に来たこと、二度目は適塾に来たことだ。特に二度目の今は彼にとっては一度目よりも大きな転機になるであろうと、彼自身が感じていた。
医者という仕事、そして医者自身の使命感。頭では分かっていても最も理解しがたい部分であった。仕事内容というものよりも、もっと深い所で彼は分からずにいた。何故人の死を目の当たりにする仕事にわざわざ就くのだろうか。なぜ過労死が問題になるほど自分の生活を捨て、患者のために働くほどの使命感に襲われるのだろうか。そうさせているものは何なのだろうか。何か不思議な力が医学にはあると感じていた。だが、それは不安でもあり、期待でもあった。その道に入ることで自分がどうなってしまうのか、と彼は大学に入る前からそんなことをぼんやり考えていた。だからこそ余計に、無理矢理進められたその道に反発してしまう。彼は自分が人の命に携わることに、恐怖を覚えているのだ。
「おい、ぼんやりするな。そこの水を取ってくれ」
「あ、はい」
彼ははっと我に返る。桶に井戸から予め汲んできてあった水を移す。
(不衛生だな……)
この時代、一般的にまだ西洋医学は浸透しておらず、主に漢方や気などといった東洋医学が中心であった。当然、衛生を気にする様子がないのも仕方がないことだった。彼は時折こうして適塾の門下生の下で働くが、いまいち乗り気にならない。ぼんやりとしてしまうのはこんな点が原因でもある。だが、そんな彼にも、最近一目置く人物ができた。
「おい、そんな汚ねえ水で傷口を洗ったら意味ないだろうが。変えてこい。何を聞いていたんだ、てめェは」
この少し口の悪い男――ばりばりの江戸っ子――松本良順である。彼はこの時代において、最新医療を施していると言ってもいいのかもしれない。福沢に紹介された時はどんな人かと思っていたが、大変気のいい――少し怖い――医者であった。
「おい、すまねぇな。そんな水を使わせちまって。今綺麗な水でもう一度洗うからな」
「へぇ、先生いつもおおきに」
年配の女性が目を細めて言った。どうやら目は悪いらしく、先程まで使っていた水が綺麗なものかどうかまではわかっていなかったようだ。わからなければ良い、ということではない。松本は門下生をしばし睨みつける。
年配の女性の膝には足がもつれてこけたようで、擦り傷が一つできている。
「なに、この傷の治療くらい礼を言われる程でもない」
松本はごつごつした手でこの時代にしては比較的清潔な綿を手に取ると、濁り気のない水に浸した。湿らせた綿を傷口へと絞ると、それから汚れを丁寧に落としていく。最後に「少しばかり沁みるからな」と彼は言うと、少量のアルコールをそこにかける。この手法、どこかで見たことあるものだと思っていたが、先日聞いたところチヨに教えてもらったのだという。チヨ、どこまで顔が広いのだ。
そんなことを祐樹が思う一方で年配の女性はお礼を言って去っていく。
くるりと向き直った松本が今度は祐樹を睨みつけ、
「木之下、てめェもわかってたんだろ。チヨさんのところの息子なんだからよ。何故その時に言わなかった」
と、叱咤した。
「あ、えっと、その先輩なので」
「そんなことを聞いてるんじゃねえだろうが。患者の気持ちになってみやがれ」
祐樹が松本をこうして一目置く理由がここにある。
『現代(平成時代)』では医者の年功序列は絶対である。上の者が正しいと言えば正しくなる、そんな古い無言の習わしのようなものが未だ存在している。それは医学生においても言えることで、下の学年は上の学年をサポートし、謙る(へりくだる)のが常識となっている。先輩は友達ではなく、上司なのだ。
しかし、目の前の松本は幕末期において、それを否定するかのような、否それだけでなく、それが真の医者の姿だと言わんばかりの態度である。患者のことが第一である、そんな考えをこの時代から持っている者はそう多くはいない。大抵は自尊心を守るための医療を行うことが多いのだ。ここにいる門下生の一部もそのような者は少なくない。それ故なお一層、松本のそんな所が祐樹にとっては新鮮であった。




