一人の日 3
――それからどれくらい経ったのか、藍は陽が弱くなっているのがなんとなくわかった。心なしか肌に染み入る空気も涼しく感じた。涙も出しつくした。目を赤くさせ、枯れた木の葉のように建物の壁に後頭部を任せる。
(疲れた……)
もう何も考える気にならない。泣いている間に頭を働かせるエネルギーは使い果たした。同時に、泣く前と比べて心が幾分か軽くなっている。悩んでいても仕方ないのかもしれないと思えるようになっている。泣くということが、こんなに大事なことだとは思っていなかった。
そしてふと涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった袖が目についた。藍は思わず口元に笑みを浮かべる。顔が余程酷いことになっているのだろうなと、想像してしまうからだ。
彼女は自分の顔を一度両手でぱんっと叩くと数回深呼吸して立ち上がる。
(帰ろう)
お尻についた砂埃を払う。
いかにも泣きました、という今の顔では帰路で注目を浴びてしまうと思い、藍は軽く目周りをマッサージして、団扇でパタパタとほてった顔に風を送る。
頭から上がりすぎた血が少しずつ引いていくのがわかり、藍は何食わぬ顔で表の通りへと向かった。
路地裏を抜けた。人々が相も変わらず忙しそうに行き交っている。
「遅いっ」
と、突然背後から聞こえた不機嫌な声に藍はびくりとして思わず振り返る。そこには柱にもたれ座って、ぐったりとしている原田の姿があった。
「ここにいて、『あら、原田さん心配してくれたの、見直したわキャー』なんてことを考えた俺様が馬鹿だったよ。待っても待ってもこないから途中何度も帰ろうかとも思ったけど、ここまで来たら待たぬが男の恥だろ」
言い訳めいた独り言のようにぶつぶつと言い放ち、けだるそうに立ち上がって、ポイッと何かを藍に投げ付ける。彼女は突然放られたためうまくキャッチできずに地面にそれを落とした。
「落とすなっ」
「そんなこと言われても……」
藍は淡い桃色の生地の小さい袋を拾いあげると、ふわりと袋から良い香りが漂ってくる。
「これ?」
「詫びの印だ」
藍はちらりと横を見ると同じような物が陳列してある店を目にする。彼女が今出てきた脇道が見える範囲でしか買えなかったのだろう。
「あ、ありがとうございます」
藍は初めてもらった匂い袋を手にして若干戸惑いながらも礼を言う。だがまだ何かあるのか、原田はそわそわしながら軽く貧乏ゆすりを始めた。
「なんていうか……」
その先の言葉に詰まりつつ、彼女とは目も合わせず団扇をくるくる回しながら、「あのよ、泣くなよ」と彼は続けた。
「もう大丈夫です。なんですか」
「友達いねぇなら……その、俺がなってやろうか」
その言葉に藍は思わずキョトンとして数回瞬きをする。それから一呼吸置いてからやっと理解して、今度は彼女の目が泳ぎだし、突然のことにどう切り返せばいいのかわからず、頭が白紙状態になった。
原田も照れているのか、「どうなんだよ」とやや悪態を突きつつも相変わらず団扇をくるくる回して落ち着かない。
その間に意外に冷静になった藍の思考は今度は困惑に変わる。
(友達はほしい……けど、この人って確か歴史上の人物なんだよね。新選組……よくわからないけど、勝手に関わっても大丈夫なのかな。もう福沢さんとか関わってるから大丈夫かな。一人はやっぱり辛いし……。でもこれから起こることがわからないし安易に決めるのも――)
ぐるぐると思考を巡らす間はほんの数十秒であったが、体感時間はそれ以上だった。余計な沈黙は『否』と取られてしまう恐れがある。そう直感した瞬間彼女が考えをまとめるより先に口にしたのは、素直な気持ちだった。
「友達になってくれたら嬉しいです」
それを聞いて、原田はやっと落ち着いたのか、団扇を回すのをやめて満足そうに頷く。
「だよな。そうだよな。よし、じゃあ早速あんたの所に言ってお医者に挨拶を……」
「まだそんなこと言ってるんですか?」
「はは! 冗談だって。からかいがいがあるなァ」
また彼はいつものようにケラケラと笑い出すと、思い出したように手をぽんっと叩いた。
「あ、そうだそうだ。友達なんだから敬語はなしで話そうな。あんたは本来敬語で話すような柄じゃないだろ。俺が刀持ちの怖~い侍だからって理由で敬語ならもうやめようぜ」
「……よくご存知で」
「あんたの敬語は違和感がぷんぷん臭ってるんだよ」
「じゃあ、お言葉に甘えるけど……。まずね、私は藍って言う名前があるんだから『あんた』はやめてね」
「藍、ね。お藍ちゃんか。呼びずらいな。なんならあだ名にしようぜ」
「どんな?」
「坊主のガキみたいに泣くから藍坊とか。相棒と掛けてるんだ、どうだ、傑作だろ」
「嫌」
「即答かよ」
「普通でいいよ、普通で」
「じゃあ藍坊な」
「なんで?!」
「そんで藍坊は俺のことは、左之さんか、左之助さんって呼ぶように」
楽しそうに笑う原田の横で藍は文句を並べるが、不思議と体が軽くなっていくような気がした。さっきまで鬱々と泣いていたのが嘘のような気分になっている。友達、という存在だけで目の前が明るくなっていく。知らぬ間に笑っていることに彼女自身は気づいていない。




