瞳
日付が変わり、今日が昨日に変わるころ…仕事が終わり私は一人で約束の店に歩いていた。
まだ、新参者の私であったが、女将さんの古い付き合いの人のお店ということもあり、すっかり馴染みのお店になっていた。
「こんばんは。」
「いらっっしゃい。今日は早かったのね。」
今日も変わらず変わらない笑顔で女主人の美津子さんが迎えてくれる。こんな時間だが、見たことのある顔がちらほらとおり、今日も居心地の良さは変わらないらしい。
でも、今日はその居心地の良さにはひたれない…。
「今日はちょっと約束があって…。早めにあがらせてもらったんです。」
「あぁ、約束って例の? 奥の座敷にお通ししているからね。なんか込み入ってそうだけど一人で大丈夫?私もついていってあげようか?」
「美津子さんを独り占めしたら、私が他のお客さんに怒られますよ。大丈夫です。じゃあ、奥借りますね。」
こんな私を甘やかしてくれる優しい人を心配させないためにいつも通りの笑顔を貼り付け奥まった座敷に向かう。
彼女は何時来るかもわからない私を、背筋をただし、何か手持ち無沙汰をごまかすのでもなく、ただそこに待っていた。その姿から育ちの良さと彼女の気構えや緊張が伝わってくるようだった…。
意を決し声をかける。
「お待たせしました。」
一瞬ビクっと震えた肩をごまかす様に、ゆっくり振り向いた彼女の目はあの時と少しも変わらず強かった。
「いえ。」
硬い声が応える。
「喉渇きません?美味しいんですよ、ここの料理。私が持ちますから。」
彼女の硬い声に気づかないように話を進める。
「いつもこんなに遅いんですか?」
「いつもはこれよりもうちょっと遅いですね。お客様次第な仕事ですから。」
彼女は私から視線を逸らさない。
私は視線を合わせなかった。
◇
美津子さんにお勧めの料理やソフトドリンクをオーダーし、揃えてもらうまで無言が続いた…。
口火を切ったのは彼女だった。
「私のことわかりますよね?」
「えぇ。」
「もっと何か反応とか、言ったりしたらどうなんですか?まるで知らない人に相対するみたい。今までのあんたじゃないわ。」
「そうね…。」
「いきなり離婚するって言って、電話で報告したきり消息不明になって。桐生さんは桐生さんでもう関係ないみたいに振舞うし…。お母さんたちがどれだけ心配してるかわかってるの?それが、こんな客商売して…。あんたって本当に勝手よね!!」
彼女の言葉に私は何も返せなかった…。
自分とこの子の生活を守ることが最優先になっていて、この身体の両親…あの優しかった人たちを考えることをまるでしなかったから…。
「あんた、私をとことん利用して桐生さんと結婚したくせにあっさり離婚って何?手に入ったらもう要らないって訳?」
「…………。」
「あんたのそういうところが大嫌いだったのよ!!美人で、何でも出来て、そのくせそれだけじゃ満足しなくて、もっともっとって…。私を散々利用して、お母さんたちの愛情まで独り占めしたくせに!!お母さんたちも、私の生活なんかお構いなしにゆうちゃんは、ゆうちゃんは…、て!!私はあんたの付属品なんかじゃないわよ!!」
「………。」
私には何も言えなかった。彼女の叫びは幼いころから積もった憤懣と愛情を求めるもので私に言える言葉は一つもありはしなかったから…。
「今日だって、顔を合わせたって知らん顔して。しかも何!?さやちゃんって!あんたあのお店の人たちに飯田彩夏って名乗ってるんだってね。名前まで偽ってどれだけ人様に迷惑をかければ気が済むのよ!!あんたがそうやって行動するだけで私たち家族にかかる迷惑考えたことがある?本当何様よ!」
彼女は声を荒げず、でも口調は激しく言葉を続ける。彼女の言うことはもっともで、私は自分のことばかりで周りの人にかける迷惑まで考えられていなかった。本当に自分本位だった。
「………。」
「黙ってないで、何か言いなさいよ。私の言ったこと間違ってる?」
「………。」
間違っていない。下を向きやっと搾り出せた言葉はこれだけだった…。
「本当にごめんなさい…。今までも、今も本当に…ごめんなさい…。」
それ一言が彼女の最後の怒りに火をつけた。
「は…。今までも今も…って。馬鹿にしないで!!」
いきなり立ち上がった彼女は手をつけていなかった水を一息にぶっかけた。
バシャン!!
顔面に向かってかけられた水は髪を濡らし、上半身をびしょぬれにした。
ただごとじゃないと様子を伺いに来た美津子さんに大丈夫だとアイコンタクトを送り、下がってもらう。
私の濡れた前髪から前には燃えるような目をした彼女の強い瞳が見えていた。