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私のなすべきこと  作者: 睡華
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世間の冷たさ



耳に残るのは河の流れだけ…。

すっと、このなにもない場所に停滞していたかった。

でも、そうもいかない。



義務は果たさなければ…。



















私が泣いた時間だけが過ぎた一日も、もうすぐ日が昇ろうという時間になり、わたしはようやく動き出した。



人の気配もないこんな夜更けでも役所の受け取り窓口は開いていた。



私のほかにも、届け出をする人たちがいた。

若く、甘やかな空気の二人がそっと視線を交わし、微笑んでいる。

二人で、手を取り合って…。幸せそうな顔をしていた。

本当に幸せそうな笑顔だった。





そんな二人を横目に見ながら一生懸命不備がないように事務的に書類を埋めていく。


(あぁ、ここって出生届も死亡届も婚姻届も…そして離婚届も受け取ってくれるんだ。)



なんだか、不思議な場所だ。人生の起承転結を見ている場所。




今の私は……なんだろうか…?







そんなことを考えながらも書類は埋まっていった。

名前、住所…、署名………。私の埋めるべき場所は全て埋まった。



後は、これを要に…。

足を動かし、冷たい空気に戻る。

白くけむり、ぼやけるような日の出のなか、ポストは目立たずに立っていた。





書類を封した封筒を持ち、ポストの前でたたずむ…。

言葉に出来ない思いが胸をよぎる。


(たった数ヶ月だったけど、幸せだった。)

そっとあげた腕とともに、封筒は落ちていく。もう戻れない。

(これで本当にさようなら…。)


カツン…。

ポストの口が閉まった。

私の果たさなければならない義務は終わった。

もう後戻りは出来ない。

この子を守って生きていかなければ…。

そっとお腹に手をやり、新たな日の出を感じながら、街に向かって歩き出した…。













◇◆




新たな気持ちで意気込み、でていった街は冷たかった…。


離婚した旨だけを伝えたメールを両親に送った後、携帯の電源を切り私はバイト探しにやっきになった。




なんとか暮らしていけるだけ…と探し、バイト募集や無料求人情報誌で電話をかけても、最初はこの容姿のおかげで乗り気になってくれる採用の人も、妊娠中だと話すと顔を顰め、手のひらを返したように冷たく追い払われた。


最初は子どものためと条件をつけていた募集も、一日、一日と時間を重ねていくたびに我慢をし、最後には最低限でお願いしても、やはり断られどこにも行き場所を失っていた。





やりきれなさがつのって、涙が出てきそうだった…。

しかし、頼れる人もいなく、この子を守るのは私だけ!その強い思いだけが私を支えてつき動かしていた。












何日も過ぎて…例えビジネスホテルとはいえ潤沢に泊まれるほどの資金もなく、少なくなる残金を思いながら今日も冷たく吹きすさぶ街へ出て、どうにか住み込みで働けそうな場所を探す。


足を必死に前に出し、張り紙を見つけては何度頭を下げてお願いしても帰ってくるのは否の返事ばかり。

もう踏み出す力さえ失いそうだった…。










「あっ…。」


不意にめまいを起こし、道の片隅でうずくまる。

一人きりの孤独、仕事探しの疲れ、そしてこれからへの不安。



それらが積み重なり、もう身体も心も限界に近づいていた…。




壁に手をつけ、抱えうずくまるようにして、冷たい空気から世間からも自分を守る。

足音を立て、ちらちらとうずくまるような私を伺うような目で見ながらも、皆我関せずで何人も通りすぎていった。







もう通りすぎる人の数も数えるのを止めるほどの時間がたった時…、ふと颯爽と歩く足音がした。

あぁ、きっとこの人も見てみぬふりで通り過ぎるんだろう…と考えていた私の前に立ち止まり、驚いたことにその人は足を止め声をかけてきた。





「ねぇ、あんた。大丈夫かい?」

そっと肩に置かれた手の暖かさとその言葉に何故か懐かしさを抱く。


首を回し、介抱してくれた人をみれば50歳を過ぎたように見えるが、しゃっきり背筋の通った女将さん然とした着物を着た女性だった。


眉を下げ、心配そうにこちらを見つめる女性に何故だが私は郷愁を覚えふと溜まっていた不安を吐き出した。


「私…私どこにも行くところがなくて……。この子もいるのに…。

 私が守らなきゃいけないのに……。」


「この子って…お腹に子どもがいるのかい?」


「はい…。」

「旦那はどうしたんだい?」


「いません…。」

視線をずらし、答える。

「いません…って死んだのかい?」


「…はい。」




彼の思いを考えれば、この子にはもう父親はいなかった。いつか私が愛した人の話をすることは出来るけど、この子が現実に会える父親も頼れる夫ももういない。




まだ痛む胸とともに溢れる涙を堪えながら、震える声で答える。


「そうかい…。」

彼女もまた感傷に浸るように遠くを見ながら言う。


お互いに黙り込む…。


街独特の賑やかさがまわりを包むのに、何故だかここは静かだった。







ふと彼女は意を決したように頷いたかと思うとこう声をかけてきた。

「ねぇ、あんた。私のところで働く気あるかい?」


「えっ!?」


「私のお店の女中さんが足りなくて困ってたんだ。仕事は厳しいけど、社宅と賄いがつくよ。」

彼女の顔はすっきりと朗らかな顔をしていた。




「あの…私身重で…満足に働けず迷惑になってしまうかもしれません…。それでも雇ってくださいますか?」

今まで散々断られてきた現状から信じられず確かめるように言葉を重ねる。




「そんなこと聞いてわかっているさ。わかっていて言ってるんだから気にするんじゃないよ。お給料は低くなってしまうかもしれないが、衣食住は確保できるよ。」





「本当にいいんですか?」

まだ信じられず確かめるような言葉がついてでる。





「あぁ!いい加減疑り深いねぇ。でも、あんたはその子を守るために何でもしなくちゃならない。あんたしかいないんだからなおさらだ。世の中いいやつばかりじゃない。あんたはその疑り深さできちんと自分の正しい道を決めて歩いて行かなきゃならない。

今、あんたがするのは私を信じてついてくるか、どうかだ。

どうする?」




私に向けられた強い視線とともに、その言葉は強く私のなかに響いた…。

降って沸いた良過ぎる話に危ないと叫ぶ理性もあったが、私の心がこの人なら信じられる…と告げていた。

どちらにせよ、もう迷える選択しもない。

(この人について行こう。)そう思った。





「宜しくお願いします!」

不自由な体勢のなか、心を込めて頭を下げた。




「あぁ、まかされたよ!」

彼女も応えるように力強く答えた。


「あぁ、そういえばあんたの名前を聞いてなかったね。私は高尾の東邦子っていうんだ。あんたは?」

「わたしは……。」



一瞬戸惑い、そして答えた。



「私は飯田彩夏といいます。」



私はもう桐生優子じゃない。私はこの世界に存在しない戸籍でも私の名前でこう答えた。

私は飯田彩夏です、と。





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