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妹が聖女を名乗り始めたので止めたのですが、誰も信じてくれませんでした。

作者: 彩乃あゆ
掲載日:2026/06/16




 セドリック・レインズが初めて妹の嘘に気づいたのは、まだ十歳になる前の頃のことだった。


 庭園で遊んでいたクロエが邸に勢いよく戻ってきた時にぶつかり、高価な花瓶を割ってしまった。その音に驚き駆けつけた父と母の前で、大粒の涙を流しながら「侍女がぶつかって落としてしまったのです」と訴え、その場にいた誰もがクロエの言葉を信じて侍女を叱責したのである。


 だが、セドリックは一部始終を見ていた。


 だからすぐに否定した。


「違います。花瓶を落としたのはクロエです」


 しかし父は困ったような顔をし、母は優しく微笑みながら首を横に振った。


「セドリック、クロエは可愛い妹だろう?嘘はいけないよ」


「お兄様、どうしてそんな酷いことを言うの?」


 涙を流す妹の姿を前に、幼いセドリックの言葉など誰も信じなかった。


 結局、侍女は罰を受けた。


 その日の夜、クロエは廊下でセドリックとすれ違うと、笑顔を浮かべていた。


「お兄様ったら、本当に正直者なのね」


 その言葉を聞いた瞬間、セドリックの背筋に冷たいものが走ったのを今でも覚えている。


 まだ幼かった彼には、その笑顔の意味を理解できなかった。


 だが、今なら分かる。


 あれは罪悪感を持たない人間の笑みだったのだと。


ーーー


 それからもクロエの嘘は続いた。


 菓子を盗み食いして侍女のせいにした。


 勉強を怠って家庭教師のせいにした。


 友人の持ち物を壊して使用人の責任にした。


 どれも小さな嘘だった。


 だが、そのたびに誰かが傷ついた。


 そのたびにセドリックは真実を話した。


 そして、そのたびに信じてもらえなかった。


「クロエがそんなことをするはずがない」


「お兄様は私に厳しすぎます」


「きっと誤解だわ」


 そんな言葉を何度も言われた。


 やがてセドリックは学んだ。


 人は真実よりも、信じたいものを信じるのだと。


 可憐で愛らしい少女と、真面目で口うるさい兄。


 周囲がどちらを信じるかなど決まっている。


 それでもセドリックは諦めなかった。


 兄として、いつかクロエが更生する日が来ると信じていたからだ。


◇◇◇


 そして月日は流れた。


 二十歳になったセドリックは男爵家の跡継ぎとして領地経営や王都での仕事に追われる日々を送っていた。


 一方、十七歳になったクロエは社交界でも有名な令嬢になっていた。


 美しい容姿。


 人懐っこい笑顔。


 愛らしい声。


 そして人を惹きつける不思議な魅力。


 多くの貴族が彼女を称賛した。


 両親は鼻高々だった。


 だがセドリックだけは知っている。


 妹の本質は何一つ変わっていないことを。


ーーー


 ある日のことだった。


 王都から戻ったクロエが興奮した様子で食堂へ飛び込んできた。


「お父様! お母様! 聞いてください!」


 夕食の席にいた家族全員の視線が集まる。


 クロエは頬を紅潮させながら胸を張った。


「神殿で奇跡が起きたのです!」


「奇跡?」


 父が目を丸くする。


「ええ! 私が病に苦しんでいた子どもに触れたら、その子が元気になったのです!」


「なんと!」


「まあ!」


 両親は大喜びした。


 だがセドリックは眉をひそめる。


 奇跡。


 その言葉が引っかかった。


 この国には神の加護を受けた聖女という存在がいる。


 聖女は癒やしの力を持ち、神殿によって認定される。


 しかし、それは極めて稀な存在だ。


 そんなものが簡単に現れるはずがない。


「本当にお前の力だったのか?」


 静かに尋ねる。


 するとクロエの笑顔が僅かに曇った。


「どういう意味ですの?」


「偶然ではないのか」


「お兄様は信じてくださらないのですね」


「信じるも何も、確認しているだけだ」


「やっぱり」


 クロエは悲しそうに目を伏せた。


「昔からそうですものね」


 その言葉に母が顔をしかめる。


「セドリック」


「母上」


「せっかくの喜ばしい話なのですから」


 父も頷く。


「そうだ。決めつけるのは良くない」


 まただ。


 まだ何も言っていないのに、まるで悪者扱いされる。


 セドリックは小さく息を吐いた。


◇◇◇


 その夜。


 自室の窓から月を眺めながら、セドリックは考えていた。


 妹の言葉が嘘だと断言できるわけではない。


 だが嫌な予感がする。


 これまで何度も味わってきた感覚だった。


 小さな嘘。


 誰も気にしない嘘。


 見過ごされる嘘。


 だがクロエはいつもそうだった。


 小さな嘘から始める。


 そして周囲が信じ始めると、少しずつ大きくしていくのだ。


 窓の外で風が吹いた。


 木々が揺れる。


 不吉な予感は消えなかった。


 むしろ強くなっていく。


「何も起きなければいいが……」


 そう呟いた直後だった。


 廊下の向こうから使用人たちの声が聞こえてきた。


「お聞きになりましたか?」


「ええ、神殿ではもう噂になっているとか」


「聖女様かもしれないそうですよ」


 セドリックの表情が固まる。


 聖女。


 その言葉は、ただの令嬢が軽々しく背負っていいものではない。


 もし本当に違っていたなら。


 もし誰かがその嘘を信じてしまったなら。


 その先に待つものは、きっと小さな騒動では済まない。


 月明かりの差し込む部屋の中で、セドリックは胸騒ぎを覚えながら静かに目を閉じた。


 このときの彼はまだ知らなかった。


 妹のついた一つの嘘が、やがて王国全体を巻き込む大騒動へと発展し、自らの人生さえ大きく変えてしまうことを。


 セドリックの嫌な予感は、驚くほど早く現実となった。


 神殿で奇跡を起こしたという噂は瞬く間に広がり、一週間も経たないうちに王都の貴族社会では誰もがその話を口にするようになっていた。


 最初は半信半疑だった者たちも、神殿を訪れたクロエが再び病人を癒やしたという話が広まるにつれ、その視線を好奇と期待へと変えていく。


 そして気がつけば、誰かが彼女をこう呼び始めていた。


 ――未来の聖女様。


 その呼び名は火が燃え広がるような速さで王都中へ浸透していった。


◇◇◇


「まあ、クロエ様!」


「本当にお美しいですわ!」


「神に愛されたお方ですもの!」


 王都の夜会。


 以前なら男爵令嬢であるクロエに群がる者など限られていた。


 しかし今は違う。


 侯爵令嬢や伯爵夫人までもが彼女の周囲に集まり、笑顔で言葉を交わしている。


 その光景を壁際から見ていたセドリックは深くため息をついた。


 人というものは実に単純だ。


 聖女かもしれない。


 たったそれだけで態度が変わる。


 まだ神殿から正式な認定など出ていないにもかかわらず。


「浮かない顔だな」


 声をかけられ振り向く。


 そこには古くからの友人である伯爵令息ダミアンが立っていた。


「別に」


「その顔は別にではないな」


 ダミアンは苦笑する。


「妹君のことか?」


「……ああ」


「王都では大人気だぞ」


「知っている」


「本当に聖女なのか?」


 その問いにセドリックは即答できなかった。


 分からないからだ。


 だが信じられない。


 長年妹を見てきた兄としては。


「分からない」


「珍しいな」


「だが、嫌な予感しかしない」


 ダミアンは何か言いたげだったが、それ以上は聞かなかった。


 友人として、セドリックの表情が冗談ではないことを理解したのだろう。


◇◇◇


 数日後。


 セドリックは王都の神殿を訪れていた。


 どうしても確認したいことがあったからだ。


 応対に出てきた神官は、クロエの名前を聞いた途端に笑顔になった。


「クロエ様のお兄君でしたか!」


「妹のことで少し伺いたい」


「ええ、もちろんですとも」


 神官は嬉しそうに頷いた。


「妹は正式に聖女として認定されたのですか?」


「いえ、まだ認定には至っておりません」


 やはり。


 セドリックは内心で安堵する。


 だが神官の言葉は続いた。


「ですが可能性は極めて高いでしょう」


「何を根拠に?」


「奇跡です」


 神官は当然のように答える。


「実際に病が癒えた者もおりますし、神殿内でも不思議な現象が起きております」


「それは妹自身の力だと確認できているのですか?」


 すると神官の表情が僅かに曇った。


「どういう意味でしょう」


「偶然の可能性もある」


「兄君でありながら妹君を疑うのですか?」


 やはりそうなる。


 セドリックは心の中で苦笑した。


 誰もが同じ反応だ。


 クロエを疑う人間が異常者であるかのように扱われる。


「私は事実を知りたいだけです」


「神は時として奇跡を示されます」


 神官は少し不機嫌そうに言った。


「それを認めることも必要かと」


 話はそこで終わった。


 これ以上何を言っても無駄だと理解したからだ。


 神殿ですら、すでにクロエを信じ始めている。


 その事実にセドリックは不安を覚えた。


◇◇◇


 神殿を出ようとしたときだった。


 中庭の方から複数の令嬢たちの話し声が聞こえてくる。


「本当にお気の毒ですわ」


「ええ、せっかく聖女候補だったのに」


「もう終わりでしょうね」


 セドリックは思わず足を止めた。


 聖女候補。


 その言葉が耳に残る。


 柱の陰から様子を窺うと、一人の若い令嬢が静かに立っていた。


 淡い銀色の髪。


 凛とした立ち姿。


 美しい横顔。


 だが、その表情にはどこか疲れが見える。


「失礼いたします」


 侍女が声をかける。


「お嬢様、お時間です」


「ええ」


 令嬢は小さく微笑んだ。


 その笑顔はどこか寂しげだった。


 やがて令嬢が立ち去ったあと、近くの令嬢たちが囁く声が聞こえる。


「侯爵令嬢なのに可哀想ですわね」


「でも仕方ありませんわ」


「本物の聖女様が現れたのですもの」


 セドリックは眉をひそめた。


 彼女が噂の侯爵令嬢か。


 本来、聖女候補として期待されていた女性。


 しかし今ではクロエの登場によって立場を失いつつある。


 そのことに妙な違和感を覚えた。


 まだ何も決まっていないはずなのに。


 まだ正式な認定すらされていないのに。


 どうして人々はここまで早く結論を出してしまうのだろう。


◇◇◇


 その日の夜。


 レインズ男爵家の屋敷では祝賀会のような雰囲気が漂っていた。


「王都の神官長様からお手紙が届いたの!」


 クロエが嬉しそうに封筒を掲げる。


 父も母も満面の笑みだ。


「素晴らしい!」


「さすが自慢の娘だわ!」


 クロエは得意げに微笑んだ。


「神官長様も、わたくしに期待してくださっているそうです」


「当然だ!」


「近いうちに正式な発表もあるかもしれないわね」


 母の言葉にクロエは嬉しそうに頷く。


 だがセドリックだけは笑えなかった。


 妹の瞳が輝いている。


 それは夢を叶えた少女の目ではない。


 もっと別のものだ。


 誰からも称賛される快感に酔い始めた人間の目。


 幼い頃から何度も見てきた。


 嘘が成功したときの顔だ。


「クロエ」


 セドリックが静かに呼ぶ。


「なにかしら?」


「今ならまだ間に合う」


 食堂の空気が変わった。


 クロエの笑顔が消える。


「何がですの?」


「もし勘違いなら正直に話せ」


 沈黙。


 次の瞬間。


 クロエは傷ついたような顔をした。


「お兄様は……まだそんなことを仰るのですね」


 母が不快そうに眉をひそめる。


「セドリック!」


「私は――」


「妹を祝福することもできないのか!」


 父の声が響いた。


 使用人たちまで気まずそうに俯いている。


 まるで自分だけが悪者だ。


 だが、それでもセドリックは妹から目を逸らさなかった。


 そして確信する。


 クロエは止まらない。


 もう引き返せないところまで来ている。


 問題はただ一つ。


 彼女がいつ破滅するかではない。


 そのとき、どれだけ多くの人間を巻き込むかだった。


◇◇◇


 クロエが「未来の聖女様」と呼ばれ始めてから一か月が過ぎた。


 その頃になると、もはや噂は噂ではなくなっていた。


 神殿を訪れれば神官たちが頭を下げ、街を歩けば人々が憧れの眼差しを向ける。


 男爵令嬢でしかなかったはずの妹は、いつの間にか王都でもっとも注目される存在になっていた。


 そして何より問題だったのは、クロエ自身がそれを当然だと思い始めていることだった。


◇◇◇


 ある日の午後。


 セドリックは屋敷の庭園へ呼び出されていた。


 差出人はクロエ。


 珍しいことではなかったが、内容が気になった。


 指定された東屋へ向かうと、クロエは優雅に紅茶を飲みながら待っていた。


「お兄様、お忙しいところ申し訳ありません」


「話とは何だ」


「そんなに警戒なさらないでくださいな」


 クロエは柔らかく微笑む。


 だがその笑顔の奥にあるものを、セドリックは知っている。


 幼い頃から見慣れた顔だ。


 何か企んでいる時の顔。


「神殿から正式な招待状が届きましたの」


 そう言って一枚の書状を差し出した。


 確かに神殿の印章が押されている。


 内容を読んだセドリックは眉をひそめた。


 そこには聖女候補として神殿の行事へ参加する旨が記されていた。


 正式認定ではない。


 しかし限りなくそれに近い扱いだった。


「おめでとう、と言えばいいのか」


「言いたくないのでしょう?」


「……」


「お兄様は昔からそうですもの」


 クロエはくすりと笑った。


「わたくしが褒められるのがお嫌いなのですよね」


「違う」


「違いませんわ」


 その言葉にセドリックはゆっくり首を振った。


「俺はお前が嘘をついているのが嫌なんだ」


 クロエの笑みが消える。


 庭園を吹き抜ける風だけが静かに流れた。


「まだそんなことを仰るのですね」


 クロエは呆れたように息を吐いた。


「神官長様も認めてくださっています」


「正式認定はされていない」


「時間の問題ですわ」


「だからこそだ」


 セドリックは強い口調で言った。


「今ならまだ戻れる」


「戻る?」


「もし勘違いなら正直に話せ」


 クロエの目が細くなる。


「勘違いではありません」


「本当にそうか?」


「ええ」


「胸を張って言えるのか」


 しばらく沈黙が続いた。


 そしてクロエは笑った。


 幼い頃から何度も見てきた笑顔だった。


 自分に都合の悪い話を聞き流す時の笑顔。


「お兄様は変わりませんね」


「……」


「わたくしが何かを成し遂げるたびに否定する」


「否定しているんじゃない」


「嫉妬ですわ」


 セドリックは言葉を失った。


 嫉妬。


 そんな風に考えていたのか。


「男爵家を継ぐだけのお兄様と、聖女になるかもしれない妹」


 クロエは紅茶を口に運ぶ。


「比べられるのがお辛いのでしょう?」


「本気で言っているのか」


「本気ですわ」


 セドリックは思わず拳を握った。


 違う。


 そうじゃない。


 兄として心配しているだけなのだ。


 だが、その思いはもう妹には届かない。


「クロエ」


 セドリックは静かに立ち上がった。


「最後に一度だけ言う」


 クロエも顔を上げる。


「やめろ」


 その一言だった。


 飾らない。


 回りくどくもない。


 兄としての本音。


「これ以上進むな」


「……」


「もし違っていた時、お前は全てを失う」


「違いません」


「周りも巻き込む」


「違いません」


「家族だって――」


「違いません!」


 クロエが初めて声を荒げた。


 東屋の空気が凍りつく。


 そして妹は立ち上がる。


「どうしてお兄様は信じてくれないのかしら」


「クロエ」


「神官長様も信じてくださる」


「……」


「王都の皆様も信じてくださる」


「……」


「なのに、お兄様だけは違う」


 その瞳には怒りと失望が浮かんでいた。


「本当に最低ですわ」


 セドリックは何も言えなかった。


 目の前にいるのは、かつて一緒に遊んだ妹だったはずなのに。


 今はまるで別人のようだった。


◇◇◇


 その日の夕食。


 案の定、話は両親の耳に入っていた。


「セドリック!」


 食堂へ入った瞬間、父の怒声が飛ぶ。


「クロエに何を言った!」


「事実を確認しただけです」


「確認だと!?」


 父は机を叩いた。


「お前は妹の成功がそんなに気に入らないのか!」


「父上」


「神殿が認めているのだぞ!」


 母も悲しそうな顔をする。


「クロエは泣いていたわ」


 セドリックは黙って聞いていた。


「お兄様に嫌われていると」


 その言葉に小さく息を吐く。


 やはりそう来たか。


 昔から変わらない。


 自分が被害者になれば誰もが味方してくれる。


「私は嫌っていません」


「ならば支えてやれ!」


 父は言い切った。


「兄だろう!」


 その言葉にセドリックは静かに目を閉じた。


 兄だからこそ止めたいのだ。


 だが誰にも伝わらない。


 家族ですら。


◇◇◇


 その夜。


 自室へ戻ったセドリックは机に肘をつきながら考え込んでいた。


 もう駄目かもしれない。


 そんな思いが初めて胸をよぎる。


 クロエは完全に周囲の称賛に飲まれている。


 両親も同じだ。


 神殿も。


 貴族たちも。


 誰も疑わない。


 誰も立ち止まらない。


 まるで坂道を転がり落ちる馬車のようだった。


 そしてその時だった。


 机の上に置かれていた招待状が目に入る。


 王城で開かれる春の大夜会。


 王族も参加する大規模な催しだ。


 最近の噂では、王太子殿下もクロエに興味を示しているらしい。


 もしそれが事実なら――。


 セドリックの顔から血の気が引いた。


「まさか……」


 聖女騒動に王家まで関わり始めたら。


 もう男爵家だけの問題では済まなくなる。


 取り返しがつかなくなる。


 窓の外では夜風が木々を揺らしていた。


 しかしセドリックの胸騒ぎは、もはや風の音では消えないほど大きくなっていた。


 そして数日後。


 春の大夜会で、王国中を揺るがす出会いが待っていることを、この時の彼はまだ知らなかった。


◇◇◇


 王城で開かれる春の大夜会は、毎年多くの貴族たちが集う華やかな催しだった。


 特に今年は王太子アーネストが正式に婚約者を発表するのではないかという噂まで流れており、例年以上の熱気に包まれている。


 そして、その噂の中心にいるのは――クロエだった。


◇◇◇


 煌びやかなシャンデリアが輝く大広間。


 色鮮やかなドレスを纏った令嬢たちと、正装に身を包んだ貴族たちが優雅に談笑している。


 その中でも一際目立つ場所があった。


「クロエ様ですわ!」


「なんてお美しいのでしょう!」


「やはり未来の聖女様ですね!」


 人だかりの中心。


 そこには淡い桃色のドレスを身に纏ったクロエが立っていた。


 周囲の称賛を受けながら微笑む姿は、まるで物語の主人公のようである。


 そして、その隣には。


「王太子殿下まで……」


 誰かが息を呑む。


 王太子アーネスト。


 金色の髪を持つ若き王太子は、楽しげにクロエへ話しかけていた。


 その様子は明らかに好意的だった。


 周囲の貴族たちもざわめいている。


 聖女候補。


 そして王太子。


 誰もが二人の未来を想像していた。


 だが、その光景を見つめるセドリックの胸には嫌な予感しかなかった。


「最悪だな……」


 思わず呟く。


 妹はもう男爵家の令嬢という立場を超え始めている。


 もしこのまま王太子まで巻き込めば、本当に引き返せなくなる。


 その時だった。


「見ました?」


「ええ」


「さすがにお気の毒ですわ」


 近くにいた令嬢たちの会話が耳に入る。


「でも仕方ありませんわよね」


「聖女様が現れたのですもの」


 またその話か。


 セドリックは無意識に視線を向けた。


 そして見つける。


 大広間の端。


 華やかな中心から少し離れた場所に、一人の令嬢が静かに立っていた。


 銀色の髪。


 深い青のドレス。


 侯爵家の紋章。


 間違いない。


 以前神殿で見かけた令嬢だった。


 ヴィヴィアン・アッシュフォード侯爵令嬢。


 本来、聖女候補として最も有力視されていた人物。


 しかし今では誰もその名を口にしない。


 人々の関心は全てクロエへ向いている。


◇◇◇


「ごきげんよう、アッシュフォード様」


 一人の令嬢が近づく。


「ごきげんよう」


 ヴィヴィアンは穏やかに微笑む。


 だが相手の目は笑っていなかった。


「最近は大変ですわね」


「何がでしょう?」


「ほら、未来の聖女様のおかげで」


 周囲の令嬢たちが小さく笑う。


「随分と焦っていらっしゃるとか」


「そんな噂が?」


「皆様ご存じですわ」


 悪意を隠そうともしない。


 だがヴィヴィアンは表情を変えなかった。


「そうですか」


「否定なさらないのですね」


「事実ではありませんから」


 ただそれだけ。


 感情的になることもなく、相手を責めることもない。


 セドリックは意外に思った。


 王都で流れている噂とは全く違う。


 もっと高慢で嫉妬深い令嬢だと思っていた。


 しばらくして令嬢たちが去ると、ヴィヴィアンは静かにため息をついた。


 その姿に、セドリックはなぜか声をかけていた。


「失礼」


 ヴィヴィアンが振り返る。


 青い瞳がわずかに驚きで見開かれた。


「レインズ様?」


 意外だった。


 自分のことを知っていたらしい。


「覚えていてくださったのですね」


「神殿でお見かけしましたので」


 落ち着いた声だった。


 敵意はない。


 それどころか不思議なほど穏やかだ。


「少しお話ししても?」


「もちろんです」


 二人は人の少ないバルコニーへ移動した。


◇◇◇


 夜風が心地よい。


 王都の灯りが遠くに見える。


「噂は耳にしております」


 先に口を開いたのはヴィヴィアンだった。


「クロエ様のお兄様だとか」


「ええ」


「ご苦労なさっているのですね」


 思わず苦笑する。


「顔に出ていましたか」


「少しだけ」


 ヴィヴィアンも小さく笑った。


 その笑顔を見て、セドリックは驚く。


 こんな風に自然に笑う人間が、果たして噂通りの悪役令嬢なのだろうか。


「失礼な質問をしても?」


「内容によります」


「あなたは本当にクロエを妬んでいるのですか?」


 一瞬だけ沈黙が落ちた。


 普通なら怒られても仕方のない質問だ。


 だがヴィヴィアンは静かに首を横へ振った。


「いいえ」


 即答だった。


「むしろ羨ましいと思ったことはあります」


「羨ましい?」


「ええ」


 ヴィヴィアンは夜空を見上げる。


「人から愛される才能は、努力では手に入りませんから」


 その言葉にセドリックは返答できなかった。


 少なくとも嫉妬に狂った令嬢の言葉には聞こえない。


「ですが」


 ヴィヴィアンは続けた。


「一つだけ残念なことがあります」


「何でしょう」


「誰も真実を知ろうとしないことです」


 セドリックの心臓が跳ねた。


「真実?」


「人は見たいものしか見ません」


 どこか寂しそうな声だった。


「今の王都は特にそうですね」


 その言葉は妙に胸に刺さった。


 まるで自分が感じていた違和感を、そのまま言葉にされたようだったから。


 その時。


 大広間の方から歓声が聞こえてきた。


「王太子殿下ですわ!」


「まあ!」


「クロエ様と踊っていらっしゃる!」


 ざわめきが広がる。


 セドリックとヴィヴィアンも視線を向けた。


 大広間の中央。


 王太子アーネストがクロエの手を取り、堂々と踊っている。


 誰の目にも分かるほど特別な扱いだった。


 そして、その様子を見ていた貴族たちの視線が徐々にヴィヴィアンへ向き始める。


 同情。


 嘲笑。


 好奇心。


 様々な感情が混ざった視線。


 だがヴィヴィアンは何も言わなかった。


 ただ静かにその光景を見つめている。


 その横顔を見たセドリックは確信した。


 少なくとも、この女性は噂とは違う。


 そしてもう一つ。


 もしクロエが本当に嘘を重ねているのだとしたら。


 最も傷つくのは、この人なのかもしれない。


◇◇◇


 その夜。


 セドリックは初めて決意する。


 ただ妹を止めるだけでは駄目だ。


 真実を見つけなければならない。


 誰が正しくて、誰が間違っているのか。


 その答えを、自分自身の目で確かめるために。


◇◇◇


 春の大夜会から数日後。


 セドリックは再び王都の神殿を訪れていた。


 だが今回はクロエの様子を見に来たわけではない。


 目的はただ一つ。


 真実を調べること。


 そして、そのためには感情ではなく証拠が必要だった。


◇◇◇


「歴代聖女の記録を閲覧したいのですが」


 受付の神官は怪訝そうな顔をした。


「なぜでしょうか?」


「個人的に興味がありまして」


 本当の理由を話しても断られるだけだろう。


 神官は少し考えた後、小さく頷いた。


「閲覧室であれば利用可能です」


「ありがとうございます」


 許可証を受け取ったセドリックは、神殿の奥へと向かった。


 重厚な木製の扉。


 その先には数百年分の記録が保管されている。


 神殿の歴史。


 王国の歴史。


 そして聖女たちの歴史。


 セドリックは一冊ずつ慎重に読み始めた。


◇◇◇


 最初の数時間では何も分からなかった。


 だが三日目。


 ようやく共通点が見えてくる。


「……おかしい」


 古い羊皮紙へ視線を落とす。


 そこには三百年前の聖女について記されていた。


 その隣には二百年前の聖女。


 さらに百年前。


 五十年前。


 時代は違っても共通する特徴がある。


 聖女認定の条件だ。


 癒やしの奇跡だけではない。


 神殿の聖具への反応。


 神聖属性魔力の測定値。


 祝福の儀式。


 神託。


 正式な聖女となった者は、必ず複数の現象を示している。


 だがクロエに確認されているのは癒やしの奇跡だけだった。


 それも詳細な記録は存在しない。


 証言ばかり。


 客観的な記録が異様に少ない。


「どういうことだ……」


 嫌な予感が強まる。


 神殿は本当に調査しているのか。


 それとも期待が先行しているのか。


◇◇◇


「何を調べていらっしゃるのですか?」


 不意に声をかけられた。


 振り向く。


 そこに立っていたのはヴィヴィアンだった。


 淡い水色のドレス姿ではなく、今日は落ち着いた紺色の外出着を身に纏っている。


「アッシュフォード様」


「またお会いしましたね」


 微笑む姿は相変わらず穏やかだった。


「こちらへは?」


「神殿への寄付の件で」


 侯爵家らしい答えだった。


 そして彼女の視線が机の上の資料へ落ちる。


「歴代聖女の記録ですか」


「少し気になりまして」


「そうですか」


 それ以上は聞かなかった。


 普通なら探りを入れてきそうなものだが、ヴィヴィアンは違う。


 だからこそ話してみようと思った。


「一つ聞いても?」


「はい」


「あなたは聖女についてどこまでご存知ですか」


 ヴィヴィアンは少し考えた。


「神殿で学んだ程度ですが」


「十分です」


 セドリックは記録を差し出した。


「これを見てください」


◇◇◇


 数分後。


 ヴィヴィアンは静かに資料を閉じた。


「共通点がありますね」


「やはりそう思いますか」


「はい」


 彼女は迷わず頷く。


「歴代聖女は皆、聖具に選ばれています」


「そこなんです」


 セドリックは机を指先で叩く。


「クロエはまだ聖具の儀式を受けていない」


「……」


「それなのに周囲は聖女として扱い始めている」


 ヴィヴィアンの表情が僅かに曇る。


「危険ですね」


「同感です」


 初めてだった。


 自分の疑問に同意してくれる人が現れたのは。


 その事実だけで少し肩の力が抜ける。


「実は」


 ヴィヴィアンが静かに口を開いた。


「わたくしも気になっていたことがあります」


「何でしょう」


「奇跡が起きたという場所です」


 セドリックは顔を上げた。


「場所?」


「はい」


「どういう意味ですか」


「クロエ様が奇跡を起こしたと言われる場所の多くは、過去にも似た現象が報告されています」


 一瞬理解できなかった。


 だが次の言葉で全てが繋がる。


「神殿内の高位聖域です」


「まさか……」


「神聖魔力が濃い場所なのです」


 セドリックの背筋が冷たくなる。


 もしそれが事実なら。


 奇跡がクロエ自身の力ではなく、場所による影響だった可能性がある。


 もちろん断定はできない。


 だが調べる価値は十分にある。


「どうして今まで黙っていたのですか」


 ヴィヴィアンは苦笑した。


「誰も聞いてくださいませんでしたから」


 その答えが妙に胸に刺さった。


 今の王都では誰も聞こうとしない。


 クロエを疑う話など。


◇◇◇


 その日から二人は情報を集め始めた。


 神殿の古文書。


 過去の聖女認定記録。


 神官たちの証言。


 聖域の歴史。


 調べれば調べるほど違和感が増えていく。


 そして何より。


 ヴィヴィアンの知識は驚くほど正確だった。


「こちらの記録です」


「ありがとうございます」


「この年代の聖女は特殊事例だったようですね」


「本当だ……」


 気づけば何時間も一緒に資料を読み込んでいる。


 不思議な感覚だった。


 ヴィヴィアンといると会話が楽だった。


 無理をしなくていい。


 疑問を口にできる。


 否定されない。


 それはここ数か月のセドリックにとって、とても貴重なことだった。


◇◇◇


 神殿を出る頃には夕暮れになっていた。


 赤く染まる空。


 二人は並んで石畳を歩く。


「今日は助かりました」


 セドリックが言う。


「こちらこそ」


 ヴィヴィアンは微笑んだ。


「少し気持ちが楽になりました」


「楽に?」


「誰かと同じ疑問を共有できるのは嬉しいものです」


 その言葉にセドリックも小さく笑う。


「それは私も同じです」


 ヴィヴィアンが少し驚いた顔をする。


 そして柔らかく微笑んだ。


 夕陽が銀色の髪を照らしている。


 綺麗だと思った。


 自然と。


 本当に自然と。


◇◇◇


 だがその頃。


 王城では別の話が進んでいた。


「クロエ嬢を正式な聖女候補として推薦したい」


 王太子アーネストがそう宣言したのである。


 神殿も王家も巻き込み始めた聖女騒動。


 その流れは加速し続けていた。


 一方でセドリックたちはまだ知らない。


 手元に集まり始めた証拠が、やがて王国中を揺るがすことになると。


 そしてその真実を暴く日が、思ったよりも近くまで迫っていることを。


◇◇◇


 クロエが王太子アーネストから正式な支援を受けるようになってから、王都の熱狂はさらに加速した。


 神殿の行事には必ず招かれ、貴族たちはこぞって彼女へ贈り物を送り、街では聖女を模した人形まで売られ始めている。


 もはや誰もが信じていた。


 クロエこそ次代の聖女であると。


 だが、その熱狂の裏で少しずつ綻びが生まれ始めていた。


◇◇◇


「失敗した?」


 神殿の一室。


 セドリックは顔見知りの若い神官から話を聞いていた。


「はい……」


 神官は周囲を気にしながら声を潜める。


「ここだけの話ですが」


「聞こう」


「先日の癒やしの儀式で何も起こらなかったのです」


 セドリックは眉をひそめた。


「何も?」


「ええ」


 神官は困惑したように頷く。


「体調を崩した信徒へクロエ様が祝福を与えたのですが、回復は見られませんでした」


「それは公表されたのか」


「まさか」


 苦笑が返ってくる。


「王太子殿下もいらっしゃいましたから」


 なるほど。


 隠したのだ。


 神殿も王家も。


 事態を大きくしないために。


◇◇◇


 神殿を出たセドリックは、約束していた場所へ向かった。


 王都中心部にある小さな喫茶店。


 奥の席にはすでにヴィヴィアンが座っている。


「お待たせしました」


「いいえ」


 ヴィヴィアンは本を閉じる。


「何かありましたか?」


「良くない話です」


 セドリックは先ほど聞いた内容を伝えた。


 話を聞き終えたヴィヴィアンは静かに目を伏せる。


「やはり」


「予想していましたか」


「少しだけ」


 彼女は小さく頷く。


「最近、神殿関係者の証言が変わり始めています」


「変わる?」


「以前は奇跡を断言していた方々が、最近は曖昧な表現を使うようになっています」


 セドリックも気づいていた。


 確かにそうだった。


 最初は「間違いなく聖女の奇跡」だった。


 それが今は「聖女の可能性が高い」に変わっている。


 微妙な違い。


 だが意味は大きい。


◇◇◇


「それでも止まりませんね」


 ヴィヴィアンが窓の外を見る。


 通りではクロエの噂をしている人々が行き交っていた。


「王都全体が期待している」


「期待は時に事実より強いですから」


 その言葉にセドリックは苦笑する。


 まさに今の状況だった。


 皆が聖女を望んでいる。


 だから信じている。


 証拠ではなく願望を。


「ですが」


 ヴィヴィアンが真っ直ぐこちらを見る。


「確実に何かがおかしいです」


「同感です」


「問題は証明ですね」


 証明。


 そこが難しい。


 違和感はいくらでもある。


 だが断罪するには足りない。


 誰もが納得する証拠が必要だ。


◇◇◇


 その日の夕方。


 セドリックは久しぶりに実家へ戻った。


 すると屋敷の様子がおかしい。


 使用人たちが慌ただしく走り回っている。


 廊下で父が怒鳴っていた。


「早く医師を呼べ!」


「は、はい!」


 セドリックは足を止めた。


「何があったのですか」


 父が振り返る。


「セドリックか」


 その顔には焦りが浮かんでいた。


「クロエが倒れた」


「倒れた?」


「神殿から戻った途端にな」


 胸騒ぎがした。


 急いで妹の部屋へ向かう。


◇◇◇


 部屋の中ではクロエがベッドに横たわっていた。


 青白い顔。


 荒い呼吸。


 母が付き添っている。


「クロエ!」


 母が涙声を上げる。


「大丈夫よね?」


「……」


 だがクロエは答えない。


 医師が診察している。


 しばらくして立ち上がった。


「過労でしょう」


 その言葉に全員が安堵する。


 しかしセドリックだけは違った。


 過労。


 本当にそうだろうか。


 ここ最近のクロエは神殿の儀式へ何度も参加している。


 そして奇跡は減っている。


 もし。


 本当にもし。


 無理に何かを演じ続けているのだとしたら。


◇◇◇


 夜になり、クロエは目を覚ました。


 家族が集まる。


 王太子からも見舞いの品が届いた。


 誰もが彼女を心配している。


 その中でクロエは弱々しく微笑んだ。


「ごめんなさい」


「無理をするからだ!」


 父が言う。


「聖女様はお忙しいのですもの」


 母も頷く。


 だがクロエの表情が一瞬だけ強張った。


 セドリックは見逃さなかった。


 聖女様。


 その言葉を聞いた瞬間だった。


 まるで追い詰められたような顔。


 ほんの一瞬だけ。


◇◇◇


 その夜。


 屋敷の廊下を歩いていたセドリックは、偶然クロエの部屋の前を通りかかった。


 中から声が聞こえる。


 誰かと話しているらしい。


 止まるつもりはなかった。


 だが次の言葉で足が止まった。


「どうして……」


 クロエだった。


 泣いている。


「どうして起きないの……」


 震える声。


「前は上手くいったのに……」


 セドリックの背筋が凍る。


 前は上手くいった。


 その言葉の意味。


 考えたくなかった。


 だが答えは一つしかない。


 クロエ自身が奇跡を再現できなくなっているのだ。


◇◇◇


 翌朝。


 王都には新たな噂が流れていた。


 クロエが聖女としての力を使いすぎて倒れた。


 神に愛されるがゆえの代償だと。


 人々はますます彼女を称賛した。


 だがセドリックは知っている。


 真実は違う。


 少なくとも、その可能性が高い。


 そしてもう一つ。


 クロエ自身も不安になり始めている。


 だからこそ危険だった。


 追い詰められた人間は、間違いを認めるのではなく、さらに大きな嘘を重ねることがある。


 幼い頃から何度も見てきた。


 クロエはそういう人間だ。


 そして数日後。


 その予感は最悪の形で現実となる。


 王太子アーネストが、卒業記念パーティーの場である宣言をすると発表したのである。


 その知らせを聞いた瞬間、セドリックは悟った。


 決戦の日が近づいていることを。


◇◇◇


 王立学園の卒業記念パーティー当日。


 その日は朝から王都全体が浮き足立っていた。


 王太子アーネストが重大な発表を行う。


 その噂が貴族社会を駆け巡っていたからだ。


 誰もが予想していた。


 次代の聖女クロエと王太子の婚約発表だと。


 あるいは、それに近い何かだと。


 だがセドリックだけは違った。


 胸の中にあるのは期待ではない。


 焦燥だった。


◇◇◇


 会場となる王立学園の大講堂は、数百人の貴族たちで埋め尽くされていた。


 豪華な装飾。


 煌びやかな照明。


 祝賀のための音楽。


 本来なら若者たちの門出を祝う場であるはずだった。


 しかし今夜の主役は卒業生たちではない。


 王太子と未来の聖女。


 誰もがそう考えている。


 セドリックは会場を見渡した。


 前方には王族席。


 その近くには神殿関係者たち。


 そして中央にはクロエ。


 純白のドレスを身に纏い、まるで本物の聖女のような姿で立っている。


 隣には王太子アーネスト。


 二人とも満足そうだった。


 一方で。


 会場の端にはヴィヴィアンの姿がある。


 深い青のドレスを纏い、静かにその時を待っていた。


 その表情に怯えはない。


 だが覚悟は感じられた。


◇◇◇


「皆の者」


 やがて王太子が前へ進み出る。


 会場が静まり返った。


「本日は卒業を祝うと共に、一つの真実を明らかにしたい」


 ざわめき。


 貴族たちの期待が高まる。


 アーネストは堂々と続けた。


「これまで我が婚約者であるヴィヴィアン・アッシュフォード侯爵令嬢は、自らが聖女候補であることを利用し、心優しきクロエ嬢を苦しめ続けてきた」


 会場が騒然となる。


 だが誰も驚いてはいない。


 むしろ納得しているような空気だった。


 セドリックは奥歯を噛み締める。


 ここまで噂が浸透していたのか。


「ヴィヴィアンは嫉妬に狂い、クロエ嬢への嫌がらせを繰り返した!」


 次々と罪状が並べられる。


 だがその内容は曖昧だった。


 証拠もない。


 噂ばかり。


 それなのに多くの者が信じている。


 信じたいからだ。


◇◇◇


「ヴィヴィアン!」


 アーネストが指を向ける。


「何か弁明はあるか!」


 全員の視線が集まった。


 だがヴィヴィアンは慌てなかった。


 静かに立ち上がる。


「ございません」


 その一言だった。


 会場がざわつく。


「認めるのか!」


「いいえ」


 ヴィヴィアンは首を横に振った。


「事実ではありませんので」


 落ち着いた声だった。


 堂々としている。


 その姿を見て、逆に動揺したのはアーネストの方だった。


「ならば否定しろ!」


「否定しております」


「証拠は!」


 その瞬間。


 ヴィヴィアンは悲しそうに微笑んだ。


「それは本来、告発する側が用意するものではないでしょうか」


 会場が静まり返る。


 正論だった。


 だがアーネストは聞かない。


「言い逃れだ!」


 そして隣に立つクロエの手を取った。


「私は真実の聖女を選ぶ!」


 歓声が上がる。


 クロエは涙ぐみながら微笑んだ。


 完璧な被害者の顔。


 幼い頃から何度も見てきた表情だった。


 そして。


 運命の瞬間が訪く。


「よって私はここに宣言する!」


 アーネストが声を張り上げる。


「ヴィヴィアン・アッシュフォードとの婚約を破棄する!」


 歓声。


 拍手。


 どよめき。


 誰もがその結末を受け入れようとしていた。


 だが。


「お待ちください」


 静かな声が響いた。


 会場が止まる。


 視線が集まる。


 前へ進み出たのは――セドリックだった。


◇◇◇


「レインズ卿?」


 アーネストが眉をひそめる。


 クロエの顔から笑みが消えた。


 ほんの一瞬だけ。


「何のつもりだ」


 王太子が問う。


 セドリックは真っ直ぐ前を見た。


 震えはない。


 迷いもない。


 ここまで来るのに長い時間がかかった。


 だがようやく辿り着いたのだ。


「その断罪に異議があります」


 会場が騒然となる。


「何だと?」


「ヴィヴィアン様に対する告発は証拠がありません」


「ある!」


「噂です」


 アーネストの顔が歪む。


 周囲の貴族たちもざわめき始めた。


 今まで誰も口にしなかったこと。


 誰も言えなかったこと。


 それをセドリックが言った。


◇◇◇


「さらに」


 セドリックは続ける。


「本日はもう一つ確認したいことがあります」


 クロエの肩が震えた。


「クロエ」


 兄として。


 最後に一度だけ呼ぶ。


「今ならまだ間に合う」


 会場が静まり返る。


「お兄様……?」


 クロエの顔が青ざめる。


「本当に聖女なのか」


 沈黙。


 誰も息をしていないような静けさ。


「答えろ」


 クロエの瞳が揺れる。


「わたくしは……」


 その瞬間だった。


 セドリックは確信した。


 妹は恐れている。


 真実を。


 そして暴かれることを。


「証拠ならあります」


 セドリックはゆっくりと言った。


 そして懐から一冊の書類を取り出す。


 神殿の記録。


 歴代聖女の資料。


 聖域に関する報告書。


 数か月かけて集めた全て。


 会場の空気が変わった。


 クロエの顔から血の気が引いていく。


 ヴィヴィアンは静かに目を閉じる。


 そして王太子だけが状況を理解できずにいた。


「何だそれは」


 王太子の問いに、セドリックは答えない。


 ただ王族席の方へ視線を向けている。


「これより申し上げる内容は、王国の未来に関わります」


 その声は講堂全体に響いた。


「どうか最後までお聞きください」


 誰も止めなかった。


 もう止められなかった。


 積み上げられた嘘が崩れ落ちる瞬間が、ついに訪れようとしていた。


 卒業記念パーティーの会場は、水を打ったような静けさに包まれていた。


 先ほどまでヴィヴィアンを断罪していた者たちも、今は誰一人として声を上げない。


 全員の視線がセドリックへ集まっている。


 王太子アーネストも、クロエも。


 そして王族や神殿関係者までもが。


 もう後戻りはできなかった。


◇◇◇


「まず確認したいことがあります」


 セドリックは静かに口を開く。


「歴代の聖女は、必ず聖具による認定を受けています」


 会場のあちこちで頷く者がいた。


 これは常識だ。


 誰もが知っている。


「さらに神託、神聖魔力の測定、祝福の儀式など、複数の条件を満たした上で正式な聖女として認定されます」


 セドリックは一枚の資料を掲げた。


「これは神殿の保管記録です」


 ざわめきが広がる。


「しかしクロエは、それらの条件を一つも満たしていません」


 空気が変わった。


 先ほどまでの熱気が冷えていく。


 クロエの顔が引きつる。


「そ、それは……」


「まだ認定前だからか?」


 セドリックは首を振る。


「違います」


 そして次の資料を取り出した。


「奇跡が起きたとされる場所です」


◇◇◇


「皆様もご存じの通り、クロエが奇跡を起こした場所の多くは神殿の聖域でした」


 資料が配られる。


 神官たちが顔を見合わせる。


「その場所では過去にも類似の事例が発生しています」


「何だと?」


「神聖魔力が極めて濃い場所だからです」


 ざわざわと騒ぎが広がる。


 貴族たちの表情が変わっていく。


 信じたくない。


 だが否定もできない。


「つまり」


 セドリックは言う。


「奇跡が起きたことと、クロエ自身が聖女であることは別問題なのです」


 クロエが震え始め、王太子が顔をしかめた。


「それだけで証拠になるものか!」


「もちろん、それだけではありません」


 セドリックは静かに答える。


「大神官様」


 会場後方の扉が開く。


 その瞬間、ざわめきが一気に広がった。


 入ってきたのは神殿最高位の大神官だった。


 王国中の誰もが知る人物。


 彼がゆっくりと中央へ歩いてくる。


 そして王族へ一礼した。


「発言をお許しいただきたい」


 国王が静かに頷く。


「許可する」


 大神官は振り返った。


 その視線の先にいるのはクロエだった。


「神殿は再調査を行いました」


 会場が息を呑む。


「結果として、クロエ・レインズ嬢を聖女候補と認定する根拠は存在しませんでした」


 どよめきが爆発した。


「なっ……」


「そんな!」


「では今までの話は!」


 貴族たちが騒ぎ始める。


 クロエは真っ青になった。


 王太子も固まっている。


◇◇◇


「嘘です!」


 突然クロエが叫んだ。


 その声は震えていた。


「わたくしは奇跡を起こしました!」


「起きた現象そのものは否定しておりません」


 大神官は静かに答える。


「ですが、それが貴女自身の力である証明はありません」


「そんな……」


「さらに」


 大神官の表情が厳しくなる。


「再現を求めた儀式では一度も成功しておりません」


 クロエが後退る。


 一歩。


 また一歩。


 逃げ場を探すように。


「クロエ」


 セドリックが呼ぶ。


 妹は顔を上げた。


「お兄様……」


「聞く」


 静かな声だった。


 怒りではない。


 失望でもない。


 ただ真実を求める声。


「最初の奇跡は偶然だったのか」


 クロエの瞳から涙が溢れる。


「……」


「答えろ」


「わたくし……」


 肩が震える。


 唇が震える。


 そして。


「わたくしだって分からなかったのよ……!」


 叫ぶような声だった。


◇◇◇


「本当に奇跡が起きたの!」


 涙が零れ落ちる。


「皆が褒めてくれた!」


「……」


「神官様も信じてくれた!」


「クロエ」


「だから……だから……」


 クロエは泣き崩れた。


「今さら違うなんて言えなかった……!」


 その瞬間。


 会場中が静まり返った。


 誰もが理解したのだ。


 認めたのだ。


 彼女自身の口から。


 聖女ではなかったことを。


 王太子アーネストの顔が歪む。


「そんな馬鹿な……」


 信じていた。


 誰よりも。


 だからこそ現実を受け入れられない。


「クロエ……?」


 震える声。


 だがクロエは答えない。


 ただ泣いている。


 もはや何も言えなかった。


◇◇◇


 そして、その時だった。


 突然。


 会場全体を淡い光が包み込む。


「なっ……!」


 大神官が目を見開く。


 神官たちが膝をついた。


 神聖な光。


 誰もが見たことのない輝き。


 光の中心にいたのは――ヴィヴィアンだった。


◇◇◇


 銀色の髪が光を受けて輝く。


 彼女自身も驚いている。


「これは……」


 足元から光が広がる。


 会場を優しく包み込む。


 すると。


「腰の痛みが……」


「傷が消えた!」


「身体が軽い!」


 あちこちで声が上がる。


 神殿の神官たちは顔色を変えていた。


 理解したからだ。


 これは偽物ではない。


 本物だと。


◇◇◇


 大神官が震える声で呟く。


「神託が……」


 全員が振り向く。


 大神官の持つ聖具が眩い光を放っていた。


 歴代聖女の認定に用いられてきた神器。


 それがヴィヴィアンへ反応している。


「まさか……」


「あり得ない……」


 誰もが息を呑む。


 そして大神官は膝をついた。


「神の御名の下に宣言いたします」


 会場全体が静まり返る。


「ヴィヴィアン・アッシュフォード侯爵令嬢こそ――


真なる聖女でございます」


◇◇◇


 誰も声を出せなかった。


 先ほどまで悪役令嬢と呼ばれていた女性。


 嫉妬深い女だと噂されていた女性。


 その彼女こそが本物だった。


 そして。


 偽りの聖女として称賛されていたクロエは、その場に崩れ落ちていた。


 セドリックは静かに目を閉じる。


 長かった。


 本当に長かった。


 だが終わったのだ。


 妹の嘘も。


 王都の熱狂も。


 全て。


 そして次に始まるのは。


 嘘に踊らされた者たちへの裁きだった。


◇◇◇


 ヴィヴィアンが真なる聖女として認定された卒業記念パーティーは、そのまま王国史に残る大事件となった。


 偽りの聖女。


 真なる聖女。


 王太子による冤罪の断罪劇。


 その全てが一夜にして覆されたのだ。


 翌朝には王都中がその話題で持ちきりになっていた。


 そして当然ながら、王家も動いた。


 事態はもはや個人の失態では済まされない。


 王国の次代を担う王太子が、事実確認もせずに婚約者を断罪し、偽りの情報を広め、本物の聖女を公然と侮辱したのである。


 王城では緊急会議が開かれた。


 そして数日後。


 正式な処分が発表される。


◇◇◇


「アーネスト王太子殿下は王位継承権を剥奪」


 その知らせは王都を震撼させた。


 次期国王と目されていた人物の廃嫡。


 前代未聞の出来事である。


「なお、アーネスト殿下は王族籍を保持するものの、今後一切の政務への関与を禁ずる」


 貴族たちは震え上がった。


 国王は本気だった。


 それほど今回の失態は重かったのだ。


 一方。


 クロエに対する処分も決まった。


 聖女詐称。


 神殿への虚偽申告。


 王国を混乱させた責任。


 本来なら投獄もあり得た。


 しかし。


「本人が最初から計画していた証拠はない」


 大神官の判断もあり、刑罰は軽減された。


 その代わり。


「神殿管理下の修道院への終身収容」


 事実上の追放だった。


 社交界への復帰も認められない。


 結婚もできない。


 二度と表舞台へ立つことはない。


 そして。


 もっとも大きな代償を支払うことになったのはレインズ男爵家だった。


 王都郊外にある屋敷。


 重苦しい空気が漂う応接室で、父は机へ拳を叩きつけた。


「どうしてこうなった!」


 怒鳴り声が響く。


 だが答える者はいない。


 母は泣き続けている。


 使用人たちも顔を伏せたまま。


 数日前までの華やかさは跡形もない。


◇◇◇


「全部あの神殿のせいだ!」


 父が叫ぶ。


「最初に期待させたのは向こうではないか!」


「あなた……」


「クロエは悪くない!」


 だが、その言葉は空虚だった。


 誰も同意しない。


 事実が明らかになった今では。


 父自身も理解しているのだろう。


 本当は。


 認めたくないだけで。


 その時、応接室の扉が開いた。


 入ってきたのはセドリックだった。


 全員の視線が集まる。


 父の表情が歪んだ。


「お前は満足か!」


 怒声が飛ぶ。


「何のことですか」


「妹を追い詰めた!」


「違います」


 即答だった。


「追い詰めたのは私ではありません」


「何だと!」


「真実です」


 静かな声。


 だが揺るがない。


◇◇◇


「私は何度も止めました」


 セドリックは父を見る。


「何年も」


 母を見る。


「何度も」


 そして二人を見渡した。


「ですが聞かなかったのは貴方たちです」


 沈黙。


 父が言い返そうとする。


 しかし言葉が出ない。


 思い当たることがありすぎた。


◇◇◇


「花瓶の件も」


 父が顔を上げる。


「菓子の件も」


 母が息を呑む。


「使用人への濡れ衣も」


 誰も何も言えない。


「全部、見て見ぬふりをしましたね」


 静かな声だった。


 責め立てるような口調ではない。


 だからこそ重かった。


◇◇◇


「クロエは悪いことをしても許されると思うようになった」


 セドリックは続ける。


「なぜだと思いますか」


 父が俯く。


 母が涙を流す。


「貴方たちが許したからです」


 その一言が全てだった。


 長い沈黙が落ちる。


 やがて母が泣き崩れた。


「ごめんなさい……」


 震える声。


「ごめんなさい……」


 それは誰に向けた謝罪だったのだろう。


 クロエか。


 セドリックか。


 あるいは自分自身か。


 誰にも分からなかった。


◇◇◇


 数日後。


 レインズ男爵家への処分も決定する。


 爵位返上。


 領地の没収。


 王都からの退去。


 男爵家は事実上の没落となった。


 それでも家名が残されたのは、セドリックが早い段階から真相究明へ協力していたことが考慮されたためだった。


 むしろ王家や神殿からは感謝すらされている。


 だが。


 セドリックの決意は変わらなかった。


 荷物をまとめる。必要最低限だけ。


 長く暮らした屋敷も今日で最後だった。


「本当に出ていくのね」


 母が泣きそうな顔で立っていた。


「はい」


「残ってはくれないの?」


 セドリックは静かに首を横に振る。


「無理です」


 母が俯く。


 分かっているのだろう。


 今さら修復できないことを。


「私は家族を嫌いになりたかったわけではありません」


 母が顔を上げる。


「ただ」


 一度言葉を切る。


「信じてほしかっただけです」


 母の瞳から涙が溢れた。


 その言葉が一番痛かった。


 責められるよりも。


 怒鳴られるよりも。


◇◇◇


 屋敷の門を出る。


 振り返らない。


 もう終わったのだ。


 兄としてできることは全てやった。


 止めようとした。


 守ろうとした。


 それでも届かなかった。


 だから。


 ここから先は自分の人生を生きる。


◇◇◇


 王都へ向かう馬車の窓から景色を眺めながら、セドリックは静かに息を吐いた。


 胸の奥に残るのは達成感ではない。


 虚しさだった。


 妹を罰したかったわけではない。


 家族を失いたかったわけでもない。


 ただ。


 こんな結末になってほしくなかった。


 それだけだった。


 そして王都へ到着したその日。


 セドリックのもとへ一通の手紙が届く。


 差出人は――ヴィヴィアン・アッシュフォード。


 真なる聖女からの招待状だった。


 ヴィヴィアンから届いた手紙には、簡潔な文章だけが記されていた。


 王都の神殿へ来てほしい。


 時間がある時で構わない。


 ただ、お礼を伝えたい。


 それだけだった。


◇◇◇


 数か月前までなら考えられなかったことだった。


 聖女候補として冷遇されていた侯爵令嬢。


 没落した男爵家の跡継ぎ。


 本来なら交わることのない二人である。


 それが今では、互いに手紙を送り合う関係になっていた。


 人生とは不思議なものだとセドリックは思う。


◇◇◇


 神殿の中庭には春の花々が咲き誇っていた。


 柔らかな陽射し。


 穏やかな風。


 あの日の騒動が嘘のような静けさだった。


「お待ちしておりました」


 聞き慣れた声に振り返る。


 白を基調とした聖女装束を纏ったヴィヴィアンが立っていた。


 以前より少しだけ柔らかな表情をしている。


 だが、その瞳の奥にある芯の強さは変わらない。


「お久しぶりです」


「ええ」


 ヴィヴィアンは微笑んだ。


「元気そうで安心しました」


◇◇◇


 二人は中庭を歩きながら近況を語り合った。


 セドリックは王都で新しい仕事に就いていた。


 王家直属の記録管理局。


 歴史資料や神殿記録の整理を行う部署である。


 真面目な性格と今回の功績が評価された結果だった。


「ぴったりですね」


 ヴィヴィアンが笑う。


「そうでしょうか」


「証拠を集めるのがお得意ですから」


 その言葉に思わず苦笑する。


 確かに否定はできなかった。


◇◇◇


「ヴィヴィアン様は」


 セドリックが尋ねる。


「お忙しいのではありませんか」


「毎日が慌ただしいです」


 苦笑混じりの返答。


「神殿も王家も大騒ぎですから」


 正式に聖女と認定されたことで、ヴィヴィアンの生活は一変した。


 祈りの儀式。


 地方訪問。


 神殿改革。


 やるべきことは山ほどある。


「ですが」


 ヴィヴィアンは空を見上げる。


「今の方が好きです」


「それは良かった」


「ようやく自分らしく生きられていますから」


 その笑顔は本当に晴れやかだった。


 噂に苦しんでいた頃とは違う。


◇◇◇


 しばらく歩いた後。


 ヴィヴィアンは足を止めた。


「お礼を申し上げたかったのです」


 真っ直ぐな視線。


「セドリック様がいなければ、わたくしは今も悪役令嬢のままだったでしょう」


「そんなことは」


「あります」


 きっぱりと言われる。


「誰も信じてくださいませんでした」


 セドリックは黙った。


 それは自分も同じだったから。


「だから」


 ヴィヴィアンは柔らかく微笑む。


「本当に感謝しております」


◇◇◇


 その時だった。


 一羽の白い鳥が中庭へ舞い降りる。


 神殿では神の使いとして大切にされている鳥だ。


 鳥は二人の間へ降り立つと、不思議そうに首を傾げた。


 そして。


 なぜかセドリックの肩へ飛び乗った。


「……」


「……」


 二人とも固まる。


 鳥は満足そうに鳴いた。


 ヴィヴィアンが吹き出す。


「ふふっ」


「笑わないでください」


「申し訳ありません」


 全く申し訳なさそうではなかった。


 その様子を見ていると、セドリックもつられて笑ってしまう。


 しばらくして。


 ヴィヴィアンが少し真面目な顔になる。


「一つだけ聞いてもよろしいでしょうか」


「何でしょう」


「クロエ様のことです」


 予想していた名前だった。


 セドリックは静かに頷く。


「恨んでいますか?」


 その問いに、すぐ答えることはできなかった。


 春風が吹き、花びらが舞う。


 しばらく考えてから、ようやく口を開いた。


「分かりません」


 それが本音だった。


「怒りもありました」


「……」


「失望もしました」


 だが。


「恨みたいわけではなかったんです」


 ヴィヴィアンは黙って聞いている。


「私は兄でしたから」


◇◇◇


「昔は本当に可愛い妹だったんです」


 幼い頃を思い出す。


 一緒に庭を駆け回った日々。


 本を読んでやった夜。


 熱を出した時に手を握ったこと。


 そんな記憶まで嘘だったわけではない。


「だから」


 セドリックは小さく笑った。


「止めたかっただけなんです」


 ただ、それだけだった。


「もっと早く気づいてほしかった」


「……」


「間違っていると」


 ヴィヴィアンは何も言わなかった。


 代わりに。


 そっと手を差し出す。


◇◇◇


「なら」


 優しい声だった。


「これからは前を向きましょう」


 セドリックは目を見開く。


「過去は変えられません」


 ヴィヴィアンは微笑む。


「ですが未来は変えられます」


 聖女らしい言葉だと思った。


 だが不思議と説教臭くない。


 きっと彼女自身が苦しみを知っているからだろう。


◇◇◇


 差し出された手を見つめる。


 そして。


 セドリックはその手を取った。


 柔らかく温かい手だった。


「そうですね」


 自然と笑みが浮かぶ。


 長い冬が終わった気がした。


◇◇◇


 その後。


 王太子だったアーネストは地方離宮で静かな生活を送ることになる。


 クロエは修道院で働きながら日々を過ごしているという。


 父と母は領地の片隅で慎ましく暮らしているらしい。


 もう以前のような栄光はない。


 だが生きている。


 それでいいのかもしれない。


◇◇◇


 そして一年後。


 王都ではこんな噂が流れていた。


 真なる聖女ヴィヴィアンの隣には、いつも誠実な青年がいる。


 聖女を支える最も信頼できる人物だと。


 その青年の名はセドリック・レインズ。


 かつて誰にも信じてもらえなかった兄だった。


 けれど今は違う。


 隣には信じてくれる人がいる。


 だからもう大丈夫だ。


 セドリックはそう思いながら、春空の下で微笑むヴィヴィアンを見つめた。


 その未来が幸せなものであることを願いながら。


【完】





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― 新着の感想 ―
幼い頃の所業から聖女と嘯いているかと思えば少し違った。 聖女に関しては周りの状況に流されて否定する機会を失った感じになっていたので違和感が… ※聖女あるいは王太子妃になるため嘘をついたではなく、聖女か…
AI使用はもう、明記したほうがいいと思うんだよね
面白いとは思いました。 ただ、改行が多いし、普通は場面転換で使うだろう記号を用いたラインとか、そんなのがいらない場面でもある。 あと治癒が発動しただけで他の事柄が出てないのに、最初神殿が積極的に否…
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