マスク美人に恋をして一年間アウターを買い替えたら、マスクが外れた朝に全てが崩壊した件
誰にでも、今となっては「あの頃、どうかしていたな」と
苦笑いしてしまう思い出があるのではないでしょうか。
これは、コロナ禍という特殊な時代に
ある一人の女性(のマスク姿)に恋をして
クローゼットをカラフルな服で埋め尽くしてしまった
60代の嘱託社員(私)の情けなくも愛おしい実話……風のエッセイです。
読み終わったあと、「ああ、おじさんも頑張ってるんだな」と
ほんの少しだけ笑って楽しんでいただければ幸いです。
コロナで日本中がざわざわしていたころの話だ。
街は静まり返り、人々はマスクで顔の半分を隠している。
誰が誰だか判別できない。
そんな殺伐とした日常の中で、僕にはひとつだけ
密かに胸をときめかせる出来事があった。
ある朝、一本早い電車に乗ったときのこと。
駅のエスカレーターを下りていたとき、反対側の通路を
歩いてくる彼女を見かけた。
マスク越しでも「おっ」と思うほど、凛とした美しさがあった。
髪がふわっと揺れて、歩き方もどこか上品。
僕の目は一瞬で釘付けになった。
「明日も会えるだろうか」
翌日、いつもの時間に向かうと彼女はいなかった。
そこで僕は推理した。
「もしや、昨日の“一本早い時間”の住人なのか?」
試しに翌朝、早起きして向かってみると——いた。
昨日と同じ場所で、同じ風を纏って歩いてくる。
僕は心の中で小さくガッツポーズを決めた。
こうして僕は、一本早い電車に乗る生活へと
「華麗に」シフトした。
声をかける勇気なんてない。ただ数秒、すれ違うだけ。
それでも、無機質な通勤路に色がつく。
彼女は僕のことなど知らないだろう。
大勢の中の一人、背景の一部としてしか映っていないはずだ。
それでもよかった。
……いや、人間というのは業が深い。
次第に僕は「気づかれたい」という、ささやかで
かつ面倒くさい欲望を抱き始めた。とはいえ
声をかけたり連絡先を渡したりすれば
不審者として通報される未来しか見えない。
そこで僕が編み出したのが、「カメレオン作戦」だ。
赤、青、黒、グレー、カーキ。手持ちのアウターを
フル回転させ、時にはこのためだけに新調した。
鏡の前で「今日の俺は、彼女の目にどう映る?」と
自問自答する60代男性の姿は、他人が見れば立派なホラーだ。
僕は毎朝、駅というランウェイを歩くモデルのように
気合いを入れて出勤した。
「今日は情熱の赤だぞ」
「明日はクールなブルーだ」
もちろん彼女が気づく保証などない。
それでも僕は毎朝、勝手に胸を躍らせていた。
そんな日々が、なんと一年も続いた。
季節は巡り、冬の冷気が春の匂いに変わり
夏の湿気が秋の風に押し出されても
僕は一本早い電車に乗り続けた。彼女もまた
変わらず同じ時間に現れた。言葉は交わさないが
僕の中では勝手に「戦友」のような連帯感すら芽生えていた。
そしてある日、ついに奇跡が起きた。
すれ違う直前、彼女の視線がふと上がり
僕の目と真っ向から合ったのだ。ほんの一瞬。だが、確かに。
心臓が跳ねた。「ついに僕の存在を認識したか!」と
舞い上がったが、冷静になれば、彼女にとっては
「やけにカラフルな服を着たおじさんが前から来るな」程度の
警戒心だったかもしれない。それでも
僕の一年間の努力が報われた気がした。
……が、本当の事件はそのあとに起きた。
コロナが落ち着き、街でマスクを外す人が増えてきたころ。
ある朝、いつものように駅へ向かうと、彼女もマスクを外していた。
僕は、初めて彼女の「素顔」を拝んだ。
その瞬間、僕が積み上げてきた一年間が、音を立てて崩れ落ちた。
「マスク美人」という言葉は知っていた。だが
まさか自分がその概念の、これ以上ないほど完璧な
サンプルに遭遇するとは思わなかった。
僕が勝手に脳内で作り上げ、崇拝していた“絶世の美女”は
不織布の裏側にしか存在しなかったのだ。
いや、彼女が悪いのではない。100%、勝手に
妄想を膨らませた僕が悪い。だが、正直に言わせてほしい。
心の中で「俺の一年分のアウター代を返してくれ」と叫んだ。
もし最初からノーマスクだったら、僕は彼女を
視界の隅に追いやるだけで、一本早い電車に
乗ることもなかっただろう。
僕が見ていたのは彼女ではなく
マスクというスクリーンに投影された
僕自身の「理想」だったのだ。
その日を境に、僕は元の時間の電車に戻した。
僕の密かな朝の楽しみは、音もなく幕を閉じた。
だが今思えば、あの一年は悪くなかった。
コロナで世界が閉ざされていたあの時期、僕は彼女という名の
“幻想”のおかげで、毎朝ほんの少しだけ、前向きに
駅の階段を駆け上がることができたのだから。
……はずなのだが、人間というのはつくづく業が深い。
喉元過ぎれば熱さを忘れるとはよく言ったもので
僕は今、また懲りずに「一本早い電車」に揺られている。
クローゼットには、あの頃買い込んだ色とりどりの
アウターだけが、出番を失ったまま静かに並んでいる。
今日も僕は、地味なグレーのコートを羽織って駅に向かう。
あの頃より少しだけ足取りは重いが、それでも僕は
「一本早い電車」を選んでしまう。
たぶん、僕が追いかけていたのは彼女の顔ではなく
あの閉塞した日常の中で「明日」を楽しみにしていた
あの頃の自分自身だったのかもしれない。
今日も街には素顔があふれている。
ごまかしのきかない現実の中で、僕は今日も
かつての情熱の残像を追いかけている。
最後までお付き合いいただき
ありがとうございました。
執筆しながら、クローゼットに眠るカラフルな
アウターたちを眺めては、当時の自分の熱量に
少しだけ赤面しています。結局のところ
私が追いかけていたのは彼女の横顔ではなく
閉塞した世界の中で「明日」にときめいていた
あの頃の自分自身だったのかもしれません。
今、私はまた懲りずに「一本早い電車」に
揺られています。街には素顔があふれ
ごまかしのきかない現実が続いていますが
今日もどこかで、誰かがささやかな魔法を探している
――そう思うと、少しだけ毎日が悪くない気がしています。
もし「私も似たような空回りをしたことがあるぞ!」
という方がいれば、ぜひ感想やレビューで教えてください。
皆さんの「愛すべき無駄遣い」のエピソード
聞かせていただけると嬉しいです。




