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第3話 予期せぬ決着

土曜日。

窓の外では穏やかな初夏の陽光が降り注いでいたが、みなと家のダイニングでは、肌を刺すような緊張感が張り詰めていた。


今日は、互いに私服だ。なぎはチェックのスカートに、薄手のニットを合わせている。


先日のような、万が一の『事故』が起こることも想定し、両親と妹が夜まで不在の日を待ち、ようやく決戦の日を迎えた。


「……湊、あんた……まだ、平気なの?」


ダイニングテーブルの上で手を、指先が白くなるほど握りしめ、凪が掠れた声で漏らす。彼女の細い腿は、もはや自分の意思では制御できないほど激しく震えていた。テーブルを挟んで向かいあった距離でも、彼女の尊厳を守る筋肉が悲鳴を上げているのが分かる。


「……ああ、余裕だ」


強がってはいるが、俺の視界も、下腹部を突き上げる鈍い激痛のせいで時折歪みはじめていた。



昼から我慢を開始して3時間、お互いに口数が少なくなり、今はただ沈黙の中で『その時』を待つ。


凪の顔は青白くなりつつあり、脂汗が顎のラインを伝ってテーブルに落ちた。

彼女は何度も腰を浮かせかけては、必死に座り直す。


「まだ、漏らして……ないから……っ!」


時折、自身にも言い聞かせるようにつぶやいているが、いつ負けを宣言してもおかしく領域に突入している。ただ、一歩でも動けば、その瞬間に全てが決壊するという恐怖が、彼女の全身を縛り付けていた。




「……っ……、ぅ……。……ま、け……湊、私の、負けでいい……」

凪が震える唇で敗北を認めるまでに、そう時間は掛からなかった。


「……トイレ、行く……。……もう、限界……」

屈辱に目を潤ませながら、震える膝を立てて椅子から立ち上がろうとした。


その時だった。

ガチャン、と玄関の鍵が回る、絶望的な音が響いた。



「ただいま。 思ったより早く用事が済んじゃったわ」

「あ、凪姉ちゃんの靴だ! 」

母に続き、妹の亜矢あやの弾んだ声が廊下に響く。


「……っ!?」

立ち上がろうとしていた中腰の姿勢のまま、凪の身体が石像のように硬直した。



彼女は、カッと見開いた瞳で俺を見た。

『何で!! 夜までいないって言ったじゃない!!』という、声にならない、けれどあまりにも鮮烈な絶望の訴えが、その瞳には宿っていた。


予定外の帰宅。そして、リビングの扉が勢いよく開いた。まず目の前に現れたのは純真な妹。


極限まで張り詰めていた彼女の防波堤は、その『不測の事態』によるショックに、もはや耐えきれるはずがなかった。


「凪姉ちゃん、いらっしゃい!遊びに来てたん……え?」

妹の言葉が、凍りついた。



――バチャバチャバチャバチャ……!。



静まり返った室内に、大量の液体がフローリングを叩く、あまりにも生々しい音が響き渡る。

テーブルに手つき、腰を引いた姿で、凪のスカートの中から大量の奔流が溢れだした。


『敗北』の証が、椅子を、フローリングを、瞬く間に水浸しにしていく。内腿を伝う流れと、椅子から伝う流れが合流し、湖となり、テーブルの下を侵食し、俺を飲み込もうとするかのごとく面積を広げていく。


凪も俺も、ただ、呆然と見つめることしかできなかった。



「え……うそ? 凪姉ちゃん……?お母さーん!凪姉ちゃんがおもらししてるー!!」

残酷なまでに無垢な妹の、凪のありのままの姿を呼ぶ声が、ダイニングに突き刺さる。


「……ヒュッ」

凪の喉から、悲鳴に似た空気の抜けるような音が漏れた。

床に広がっていく生暖かい湖の拡大は留まることを知らず、ついには、向かいに座っている俺の靴下に侵食しはじめる。



彼女は真っ青な顔から一転し、耳まで真っ赤に染まり、涙をボロボロと溢れさせてテーブルの上にも小さな池を作りはじめていた。


高校生としての自尊心。幼馴染に見せ続けてきた強気。その全てが、最も残酷な形で、最も見られたくない人たちの前で、無残に砕け散った。



「あらあら!凪ちゃん……これは大変……。うちの湊が何かした?亜矢、新聞紙とバスタオル取ってきて!」

遅れて現れた母の声に、妹は慌てて洗面所に向かう。



絶望に震え、泣きじゃくる凪。その姿を前にして、俺の胸の奥で、何かが静かに、けれど確実に壊れた。



……ああ、俺はこの瞬間を待っていたんじゃない。彼女の尊厳が砕け散る音を聞きたかったんじゃない。俺は……この絶望の底にいる凪を、誰の手も届かない場所へ連れ去りたかったんだ――


あの日、胸の奥にチリッと沸き上がった気持ちが何だったのか、今日、パズルのピースのように、パチリとはまったのだ。



俺がやるべきことはたった一つ。この羞恥を、彼女一人に背負わせるわけにはいかない。




――ジョワッ

そう聞こえた気がした。



「……悪い、母さん。……俺も、限界だったんだ」 


俺は椅子に座ったまま、自分自身の「枷」を外した。温かく不快な感触が、自分の下着やズボンを染め上げる。ズボンの前方に一気に丸く濃い染みができると同時に、多くはお尻を伝い、内股を濡らし、椅子から、裾からと、床へと滴り落ちる。


冷たいフローリングの上で、彼女の熱と俺の熱が混ざり合い、湖は、一つの境界のない海になった。

その瞬間、俺たちの間にあった数年間の壁は、その濁流に飲み込まれて消え去った……



驚愕に目を見開く母。けれど、俺は凪だけを、真っ直ぐに見つめていた。


凪が、涙に濡れた瞳を上げ、信じられないものを見るような顔で、俺と視線を合わせた。



「……これで、引き分けだろ」

俺は彼女に向かって、精一杯の、そして歪な愛を込めて笑ってみせた。



「二人で一緒に、怒られようぜ」





数時間後。親にひどく叱られ、後片付けをさせられた後の静かな夜。



――コンコン



二階の自室でベッドに横になっていると、窓を叩く音が聞こえた。隣接している凪の部屋が目の前にあり、昔からよく、窓越しで夜通し会話をしていたものだ。


ガラッと窓を開けると、しおらしげな凪がいた。



「……バカじゃないの。あんた、本当に……」

凪の声には、まだ泣き腫らした跡があったが、そこには以前のような拒絶はなかった。


「バカなのはお前だろ。あんなに我慢して……」

凪は少しうつむいたあと、改めて顔を上げ俺を見つめる。



「ごめん。……ね、手を出して……」


凪に向けて手をかざす。家の間を吹き抜ける夜風が心地よい。

凪が、自分の手の平を俺の手に重ねた。



重ねられた彼女の手は、昼間のあの身悶えするような熱さはなく、夜風に冷えて少し震えていた。けれど、繋いだ場所から伝わる鼓動は、あの日アスファルトで聞いた嗚咽よりも、ずっと強く、俺たちの結びつきを証明していた。



「……ねえ、湊。私たち、もう他の誰とも、まともな恋愛なんてできないね」

「ああ。……こんなバカなことをしてるのは、世界で俺たちだけだ」


誰にも見せられない汚点を、聖域のように共有して。

俺たちは、ようやく本当の幼馴染に、そして、誰にも入り込めない、少し歪な恋人になれたのだ。

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