第2話 再点火の放課後
実に数年振りとなる、凪のリベンジマッチがスタートした。
ルールは過去と同じで、至って単純だ。
『お昼からトイレを我慢し、互いの家に帰るまで、一歩もトイレに寄らずに辿りつくこと』。
ギブアップして、学校や帰宅途中でトイレに立ち寄るか、もちろん『決壊』した時点で、その者の敗北が決まる。家まで間に合えばそのままどちらかの部屋で延長戦に突入だ。
「……あんた、余裕そうな顔してられるのも今のうちよ」
校門を出た直後、凪は鼻で笑ってみせた。
制服のプリーツをなびかせ、勝ち誇ったように前を歩く彼女の背中は、かつての自信に満ち溢れていた。だが、昼からトイレをキャンセルした俺たちにとっては、ギブアップの瞬間は遠くない未来に待ち受けている。
家までの道のりを半分も過ぎないうちに、彼女の饒舌さは急速に影を潜めていった。
六月の午後、初夏を過ぎたというのに、少し肌寒さも残る空気が、俺たちの決着を急がせる。
凪の歩幅が、目に見えて狭くなっていき、俺が追い付いて、並んで歩く形になった。彼女の細い肩がたまにぴくりと震え、スカートの裾を握りしめる指先に血管が浮き出る。
いつしか見た光景が頭の中にフラッシュバックし、顔が熱くなっていく。
彼女の意識は、もはや会話にはない。自身の内側で暴れ狂う波を抑え込むことだけに、全神経が注がれているようだった。
「……な、凪。無理しなくていいんだぞ」
わざと突き放すような、けれど気遣うニュアンスを含めて声をかけると、彼女は恨めしげに俺を睨み据えた。その瞳はわずかに潤み、瞳孔は大きく開いている。
「……うるさ、い。……私は、絶対に……負けない……っ!」
強気な言葉とは裏腹に、彼女の腰はわずかに引け、内股を擦り合わせるようにして歩いている。その摩擦音が、静かな住宅街にやけに生々しく響いた。
家まであと少しというところで、近所の公園の生い茂る緑が見えてきた。ここに緊急避難先があることは二人とも認識済だ。
今の彼女にとっての『救済』であり、同時に『敗北』の烙印となることは目に見えていた。
凪の足が、がくがくと目に見えて震え始める。彼女は突然立ち止まり、膝を固く閉じて、身を捩らせた。
「っ……あ……く……ぅ……」
喉の奥で押し殺したような、切実な悲鳴が漏れる。彼女の顔は耳の付け根まで真っ赤に染まり、脂汗が頬を伝って落ちた。もはや、一歩でも動けば全てが崩壊する――そんな薄氷の上に彼女は立っているようだった。
俺は黙って、その崩壊の予兆を見つめていた。
「……湊、わたし、……っ」
限界だった。凪は弾かれたように、なりふり構わず公園のトイレへと駆け出した。
その背中を追うように後をつける。
コンクリートの地面には、彼女の歩いた軌跡を辿るように濡れた跡がポツポツと続いていた。
女子トイレの前で足を止めると、中からなりふり構わない音が聞こえてきた。
個室の扉を焦ってガチャガチャと叩く音、鍵を乱暴にかける音。静まり返った公園の夕暮れに、彼女の尊厳が崩れ落ちるような、生々しく激しい水音が反響する。
すっかり高校生になった彼女が、音消しすることすら忘れ、壁一枚隔てただけの場所で……俺は彼女の『最も無防備な告白』に耳を研ぎ澄まし、全身の毛穴で聴いていた。
その生々しい音を耳にするだけで、俺の動悸は激しく跳ね上がり、胸の奥が熱く疼いた。
数分後。
流す音から少し遅れて、顔を真っ赤にしたまま、幽霊のような足取りで凪が戻ってきた。その瞳には屈辱の涙が溜まっていた。
「……っ……全部出たわけじゃないから。セーフ、だからね!」
涙目で言い張る彼女。だが、俺は見逃さなかった。
白いソックスの内側が、じわりと薄く黄色く染まっているのを。
意に反してこぼれ落ちた、明白な『敗北の証』が、彼女の誇り高い美脚を伝い、無残に靴下を汚していた。この様子だと、下着も無惨な状態であることは想像に難くない。
「……ねぇ、湊。早く帰ろう……」
濡れた下着やソックスの不快感と、自身から漂う禁忌の匂いに耐えかねたように、彼女は視線を足元に落としたまま呟いた。
その声は、かつての強気な幼馴染ではなく、秘密を共有してしまった『共犯者』の響きを孕んでいた。
「……じゃ、今回も俺の勝ちってことで」
「……」
平静を装ってそう告げたが、実のところ俺の身体も既に危険水域に突入し始めていた。
凪からの敗北宣言を待ちたかったが、俺は逃げるように男子トイレへと駆け込んだ。
その夜、凪からスマホにメッセージが届いた。
『今日のは練習で引き分けってことで。次が本番だから。』
一方的な引き分け扱いと再戦宣言。
勝負は、まだ終わっていない。
むしろ、本当の地獄――あるいは、最後の『聖戦』は、ここからだった。




