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第1話 網膜に焼きついた、最初の敗北

湿った沈黙が、部屋の空気を重く沈殿させていた。


午後3時。

ダイニングテーブルを挟んで、幼馴染のなぎは小刻みに身悶えていた。


家族は外出し、帰宅予定は夜。我が家には、俺と凪の二人だけ。

土曜日ということもあり、制服ではなく、薄手のニットに、膝丈のチェックのスカート姿。テーブルの上でぎゅっと手を握りしめる彼女の指先は、血の気が引いて透き通るほどに白い。

すらりと伸びる脚をこれ以上ないほど固く閉じ、内腿を擦り合わせるたびに、衣擦れの音がやけに生々しく鼓膜を叩く。


午後の西日が、彼女のスカートのプリーツを鋭く照らし出している。その規則正しい模様が、彼女が身悶えするたびに歪み、俺の視界をかき乱した。


「……みなと、あんた……」

熱を帯びた吐息とともに、掠れた声が漏れる。


「なに」

「よく……そんな……平然としてられるわね……」


挑発的な言葉とは裏腹に、彼女の瞳は、焦点が定まっていない。強気な笑みを作ろうとした唇は、小刻みに引き攣っていた。


平然など、していられるはずがない。俺の下腹部も、とうに限界を告げる鈍い激痛に支配されている。膀胱を突き上げるような圧迫感に、呼吸の仕方さえ忘れそうになる。


けれど、俺は動かない。……心のどこかで、あの冬の日のような、彼女の全てが崩れ去る瞬間を、もう一度だけ、至近距離で見たいと願っている自分に気づかない振りをしながら。




凪とは、家が隣同士の幼馴染。


小学校時代の俺たちは、呪われたようにあらゆる勝負を繰り返してきた。

足の速さ、テストの点数、給食の牛乳を飲み干す速さ。思い付くものは一通り試した。

そして、その『勝負』の歴史に取り返しのつかない終止符を打ったのが、小学校六年生の、あの冬の日だった。



きっかけは、喉を鳴らすような下らない言い合いだった。


『お昼からトイレを我慢して、どちらが先に諦めてトイレへ駆け込むか』。


あの日、凪は驚くほど強気だった。

授業の合間の休み時間は、お互いに「さっさと行けよ」と牽制をしあっていたが、

学校では、負けを認める程の貯水量には至らず、ゴールは家のトイレへと再設定された。

ただ、俺も、凪も、学校を出る時点で相当切羽詰まっていた。


身体から熱を奪っていく木枯らしが吹く通学路で、それでも彼女は一歩も譲らず、俺の隣で肩を上下させて歩き続ける。


俺はまだ若干の余裕がある。凪がトイレに駆け込む姿をあざ笑ってやろうと内心ほくそ笑んでいた。

だが、限界は唐突に、そして暴力的なまでに残酷に訪れる。


自宅の門扉まで、あと数メートルという地点。

これから延長戦というタイミングで、凪の足が、ぴたりと止まった。


「……あっ」

小さな、空気が漏れるような音。


彼女の膝ががくがくと崩れ、スカートの中から突然現れたどしゃ降りの大雨が、地面に沈み込んでいく。

アスファルトを叩く暴力的な熱が、靴下を、スニーカーを、一瞬で薄黄色に染めあげていく。


ビタビタビタとアスファルトに落ちる跳ね返りと、ふくらはぎを流れる幾つかの筋が大きく跳ね、俺のスニーカーを濡らし始めた。


思わず俺は一歩距離を取り、このゲリラ豪雨が止むまで、網膜に焼き付けるように至近距離で見つめていた。


足元に広がっていく、救いようのないほど絶望的な水たまり。

凪の顔から、全ての色彩が消える。呆然と自分の足元を見つめる彼女。



「…ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」



全てを出し切った凪が嗚咽を上げた。



「凪! あんた、何してるの!!」

叫び声が、凍てつく路地を切り裂いた。

家から飛び出してきた彼女の母親の声が響く。



泣きじゃくり、そのまま母親に引きずられていく彼女の背中を見送りながら、俺は自分の足元を濡らした『彼女の温度』が、急速に冷え切っていくのを見つめる。



アスファルトに残された敗北の証が、俺の心を射抜いていた。彼女の人生で最も見せたくない汚点を、俺だけが知ってしまったのだと……




すぐに冬休みに入り、気まずさからか、自然と話す機会が減った。

そのまま突入した中学の三年間に至っては、思春期特有の気恥ずかしさが、その記憶に厚いベールを被せた。


家は隣なのに、登下校の時間は一分たりとも重ならない。廊下ですれ違っても、互いに視線を逸らす。謝るタイミングも、笑い飛ばす機会も、とうに失われていた。

それでも俺の心は、あの日見た彼女の敗北に未だ囚われ続けていたのだ。



運命の悪戯か、俺たちは、近所の同じ高校に入り、同じクラスになった。


初めは、会話もなかった。四月の喧騒の中でも、五月の五月雨の中でも、俺たちの間だけは、まるでそこに相手がいないかのように、音が消えていた。


だが、積もりに積もった沈黙は、ある放課後、ついに限界を迎える。



掃除当番で二人きりになった教室。夕闇が教室の隅を侵食し始めた頃、不意に、隣で机を運んでいた凪が手を止めた。


「……ねえ、湊」

四年ぶりに、彼女が俺の名前を呼んだ。


「……」

「いつまで、そうやって黙ってるつもり?……忘れてないんでしょ?あの日のこと」

「うん……」

避けてたのはお前の方だろ、と喉まで出かけた言葉をグッと抑える。


「湊が悪いわけじゃないし。私はもう何も気にしてないから」

凪がゆっくりと俺を振り向く。その瞳は、あの冬の日と同じ、燃えるような拒絶と執着が混じっていた。



「何か勘違いしてるみたいだけど、私は、あんたに勝てなかったことがずっと悔しかったの」

彼女は自嘲気味に口角を歪め、俺の胸ぐらを掴むような勢いで一歩踏み込んできた。


「上書きしてあげるわよ。今の私が、あんたなんかに負けないってこと。……四年ぶりかしら。勝負、受けて立つわよね?」



その日を境に、数年の沈黙期間は二人の記憶からかき消され、以前の、幼馴染へと戻った。

凍りついていた時間は、彼女の言葉で一気に溶け出し、挨拶を交わし、冗談を言い合い、時には競い合う。中学時代の空白など初めからなかったかのように。



それからしばらくして。



梅雨の湿り気を孕んだ風が吹き抜ける放課後、凪がニヤリと不敵に笑って、俺の机を叩いた。


「湊、準備はいい? ――明日、『勝負』よ」

俺は、胸の高鳴りを隠すために、「あぁ」、と軽く返事をするのが精一杯だった。

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