第2話:聖女様、来襲する
「おお、神よ! この赤き果実こそ、伝説の『太陽の涙』に違いありません!」
農園の入り口に近づいた私たちが耳にしたのは、そんな大仰な叫び声でした。
声の主は、白装束の集団の中心にいる少女です。
輝くような金髪をふわりと広げ、私のトマト畑の前に跪いています。
彼女の両手には、私が手塩にかけて育てた真っ赤なトマトが一つ、捧げ持たれていました。
「……リゼット。あの娘、勝手に収穫していないか?」
クラウス様が低い声で囁きました。
ええ、その通りですわね。
あの区画は、来週の出荷に向けて糖度を高めていた「プレミアム・レッド」のエリアです。
私は努めて冷静に、足音を立てて彼らに近づきました。
「失礼いたします。私の畑で、何事でしょうか」
声をかけると、少女がゆっくりと振り返りました。
透き通るような碧眼。
浮世離れした、どこか夢見心地な表情。
彼女は私を見るなり、感極まったように瞳を潤ませました。
「貴女が、この聖地を守る巫女様なのですね?」
「……巫女? いえ、私はこの農園の経営者、リゼットです」
「リゼット様……。ああ、素晴らしいですぅ。この土地に満ちる神聖な力、そしてこの果実。これこそ、我が国が長年探し求めていた聖遺物なのです!」
少女はトマトを胸に抱きしめ、うっとりと頬ずりをしました。
やめていただきたい。
トマトにファンデーションがつきます。
「聖女エリナ様、お下がりください」
少女の背後から、一人の長身の男が進み出てきました。
痩せこけた体に豪華な法衣を纏った、中年の男です。
その目は爬虫類のように冷たく、私の全身を値踏みするように舐め回しました。
「お初にお目にかかる。私は聖教国ルミナスの枢機卿、バルガスと申す。そしてこちらは、我が国の至宝、聖女エリナ様だ」
「……ラングレー公爵夫人のリゼットです。それで、隣国の要人の方々が、不法侵入とはどういうおつもりで?」
私がぴしゃりと言うと、バルガス枢機卿は口元だけで笑いました。
「人聞きが悪い。我々は『聖なる気配』に導かれてきただけだ。……夫人、単刀直入に言おう。この土地は、我が国の聖典に記された『約束の地』である可能性が高い」
「約束の地?」
「左様。この異常なまでの豊穣、そして作物が持つ癒やしの力。これらは神の奇跡以外の何物でもない。よって、この地は聖教国が管理すべきである」
とんでもない理屈です。
私はため息を堪え、黄金のスコップを地面に突き立てました。
「枢機卿、大きな勘違いをなさっていますわ」
「ほう?」
「このトマトが甘いのは奇跡ではありません。適切な土壌改良と、計算された肥料配分、そして毎日の水やりのおかげです。神様ではなく、私の汗と努力の結晶ですの」
私は淡々と事実を述べました。
ですが、聖女エリナ様は首をぶんぶんと横に振りました。
「いいえ、違いますぅ! 私にはわかります。このトマトからは、温かくて優しい光の波動が出ているのです! これは神様が『人々を癒やせ』と仰っているのです!」
話が通じません。
彼女の目は純粋そのもので、疑うことを知らない子供のようです。
それが逆に、一番厄介なのですが。
「……リゼット。どうする? 不敬を承知で追い払うか?」
クラウス様が剣に手をかけ、私に目配せをしました。
ラングレー家の武力なら、彼らを追い出すのは造作もありません。
ですが、相手は宗教国家のトップ。
下手に傷をつければ、国際問題に発展します。
私は首を横に振り、懐からメモ帳を取り出しました。
そして、サラサラとペンを走らせます。
「エリナ様。そのトマト、召し上がってもよろしくてよ」
「えっ、本当ですかぁ? ありがとうございますぅ!」
エリナ様は嬉しそうに、トマトにかぶりつきました。
ジュワッ、と果汁が溢れ、彼女の顔が幸福に溶けていきます。
「んん~っ! おいしいですぅ! 体の中がポカポカしますぅ!」
「それは良かったですわ。では、こちらを」
私は書き上がったメモを、ビリリと破いてバルガス枢機卿に突きつけました。
「な、なんだこれは」
「請求書です。プレミアム・レッド一個、および無断立ち入りによる慰謝料込みで、金貨五枚になります」
「き、金貨五枚だと!? トマト一つに!」
「神の奇跡なのでしょう? ならば、安いものですわよね?」
私がにっこりと微笑むと、バルガス枢機卿は顔を赤くして絶句しました。
しかし、ここで引き下がるような相手ではありませんでした。
「……よかろう。払ってやる。だが、我々は諦めんぞ」
枢機卿は従者に合図し、金貨を投げつけるように渡しました。
そして、聖女エリナ様に何か耳打ちをします。
すると、エリナ様は口元についたトマトの汁を拭い、キリッとした(つもりらしい)顔で立ち上がりました。
「わかりました、バルガス様! ……リゼットさん。貴女はまだ、ご自分の使命に気づいていないのですね」
「使命?」
「はい! この土地は素晴らしいですが、少し『穢れ』が混じっています。私がここを浄化して、もっともっと素晴らしい聖地にしてみせますぅ!」
エリナ様が両手を空に掲げました。
彼女の体から、眩いばかりの金色の光が溢れ出します。
「聖なる光よ、大地を満たせ! 『サンクチュアリ・フィールド』!」
「ちょ、ちょっと! 何を……!」
止める間もありませんでした。
彼女が放った光の波が、私の農園全体をドーム状に包み込んでしまったのです。
それは一見、美しく神聖な結界に見えました。
しかし。
土魔法の使い手である私には、聞こえてしまったのです。
地中の微生物たちが、「眩しい!」「熱い!」「死ぬ!」と悲鳴を上げているのを。
「……あ」
私の脳裏で、何かがプツンと切れる音がしました。
新婚生活の平穏も、午後のティータイムも、すべてが台無しです。
どうやら、請求書だけでは足りないようでした。
私は震える手で、黄金のスコップを握り締めました。




