第1話:新婚旅行は森の中
ビリビリと、小気味よい音が響きました。
私は手元にあった、金箔押しの豪奢な封筒を真っ二つに破りました。
中から出てきたのは、王都で開催される舞踏会の招待状。
差出人は、手のひらを返して私に媚びへつらうようになった、王都の有力貴族たちです。
「……リゼット。それは今朝届いたばかりの招待状ではないか?」
背後から、呆れたような、けれど愛おしむような声が聞こえました。
振り返ると、そこには湯上がりのクラウス様が立っています。
濡れた黒髪をタオルで拭う姿は、朝日に照らされて絵画のように美しいですわね。
「ええ、そうですわ。ですが、今の私にはダンスよりも重要なミッションがありますの」
私は破り捨てた紙片をゴミ箱へ放り込み、愛用の作業用ブーツに足を通しました。
そして、壁に立てかけてあった「黄金のスコップ」を手に取ります。
「今日は待ちに待った休日。黒の森の奥地へ『ピクニック』に行くと約束しましたでしょう?」
「ピクニック、か。……俺の目には、これから未知の鉱脈を掘りに行く採掘者の装備に見えるのだが」
クラウス様が苦笑しながら、私の頬に触れました。
その指先は温かく、かつてのような冷たさは微塵もありません。
結婚して数ヶ月。
私たちは「氷の公爵夫妻」なんて呼ばれていますが、実際の生活はぽかぽかと温かいものです。
「あら、ピクニックですわよ。お弁当も持っていきますもの」
私は魔法の鞄をポンと叩きました。
中には、早朝に焼いたばかりのフォカッチャと、新鮮なトマトとチーズのサラダが入っています。
もちろん、デザートの完熟メロンも忘れてはいません。
「……わかった。君がそう言うなら、それはピクニックだ」
クラウス様は諦めたように笑い、腰に長剣を佩きました。
彼にとっても、王都の煌びやかな夜会より、私と二人きりで過ごす静かな時間の方が好ましいようです。
私たちは農園を出て、鬱蒼と茂る「黒の森」へと足を踏み入れました。
かつては魔物が跋扈し、誰も寄り付かなかったこの森。
ですが、クラウス様が私のために魔物を掃討してくださったおかげで、今では静かな散策路になっています。
「空気が美味しいですわね。土の匂いが濃い」
私は深呼吸をしました。
農園の土とはまた違う、古く湿った腐葉土の香り。
農業経営者としての血が騒ぎます。
「この辺りの土を持ち帰って、培養土の研究に使いたいですわ」
「リゼット。足元に気をつけろ。木の根が張り出している」
クラウス様が自然な動作で手を差し伸べてくれました。
私はその大きな手を握り返します。
ごつごつとした剣だこがあるけれど、私をエスコートする力は驚くほど優しい。
「ありがとうございます、あなた」
ふと、彼と目が合い、どちらからともなく微笑み合いました。
小鳥のさえずりと、木漏れ日。
これこそが、私が求めていた「癒やし」の時間です。
王太子の元婚約者として働かされていた頃は、こんな休日なんて夢のまた夢でした。
私の手にあるのは書類の束ではなく、愛する人の手と、黄金のスコップだけ。
「……ん? あれはなんだ」
一時間ほど歩いた頃でしょうか。
クラウス様が足を止め、森の奥を指差しました。
木々の隙間に、不自然に開けた場所があります。
近づいてみると、そこには苔むした石造りの遺跡のようなものがありました。
半分以上が土に埋もれていますが、入り口とおぼしきアーチには、奇妙な紋章が刻まれています。
「……見たことのない様式だな。この森に、こんな遺跡があったとは」
クラウス様が警戒して剣の柄に手をかけます。
私はスコップを握りしめ、紋章に近づきました。
それは植物の葉と、歯車を組み合わせたような不思議なデザインです。
「古代の……農業神の印でしょうか?」
私が指先で紋章に触れた、その瞬間です。
ブォン。
微かな振動と共に、紋章が淡い緑色に発光しました。
ほんの一瞬の出来事。
すぐに光は消えましたが、私の指先にはピリリとした魔力の余韻が残りました。
「……リゼット! 下がれ!」
クラウス様が私を抱き寄せ、背後に隠しました。
ですが、それ以上は何の反応もありません。
遺跡は再び、静かな苔むした石塊に戻っていました。
「……今の光は、なんでしょう。土属性の魔力に似ていましたが」
「わからん。だが、あまり良い予感はしないな。一度、戻ろう。調査隊を編成して出直すべきだ」
クラウス様の顔つきが、夫のものから領主のものへと変わりました。
私も頷き、名残惜しいですがスコップを下ろしました。
せっかくの休日ですが、無理は禁物です。
それに、お腹も空いてきましたし。
私たちは遺跡の座標を地図に記録し、来た道を戻ることにしました。
帰り道、私たちは切り株に腰掛けてお弁当を広げました。
クラウス様は私が作ったフォカッチャを美味しそうに頬張り、私も甘いメロンに舌鼓を打ちました。
遺跡の謎は気になりますが、今は目の前の幸せを優先しましょう。
しかし。
その幸せな時間は、農園の入り口に戻ったところで終わりを告げました。
「……おい、あれを見ろ」
クラウス様の声が低く沈みます。
私の自慢の農園。
その入り口付近に、見慣れない集団がたむろしていました。
彼らは全身を純白のローブで包み、胸には太陽を模した金の刺繍が輝いています。
「……聖教国の神官? なぜ、こんな辺境に」
私の農園は隣国ラングレー領の飛び地ですが、さらにその隣には宗教国家「聖教国ルミナス」があります。
普段は交流のない国の人々が、なぜか私の畑を指差し、何やら熱っぽく議論しているのです。
「あそこだ! あの畑から、神聖な気配を感じる!」
「おお、なんという奇跡の輝き……!」
嫌な予感がします。
背筋に冷たいものが走る、あの感覚。
これは、王都で面倒な仕事が降ってくる直前の感覚に似ています。
「……クラウス様。私の勘違いでなければ、彼ら、私のトマトを拝んでいませんこと?」
「……残念ながら、俺にもそう見える」
私は黄金のスコップを強く握り直しました。
新婚旅行気分は、ここまでのようです。
どうやら私の安眠を脅かす新たな敵が、向こうからやってきたようでした。




